まだ見ぬ世界といつかの夢

神凪

その地を踏むのは

「外行くぞ、蛍」

「……面倒……」

「うるさい」


 俺、廣津悠ひろつゆう唐渡蛍からとほたるは幼馴染みだ。

 俺は身体においてはかなり高い能力を持っている。それが自慢にできるほどのものだとは、自分でも思っている。もちろん、それを蛍に言うつもりは無いが。

 唐渡蛍は病弱だ。生まれつき目が悪く、常にコンタクトを付けている。耳には補聴器も付けて、数回口を開くだけで咳き込んでしまう。そして、いつだって蛍は車椅子の上だ。彼女が車椅子に座っていないところを、俺は寝ている時と風呂に入っているときしか見たことがない。そこについてはあまり触れないでおこう。


「どこへ?」

「いい場所を見つけたんだ。花が綺麗で、今日みたいな日なら風が気持ちいいんだよ。蛍、綺麗なところ好きだろ」

「……あ……り……」


 声が掠れた。その代わりに、蛍は右手の小指を左手の甲にこつんと当てる。骨と骨が当たるような音と共に、蛍は小さく笑みを浮かべる。

 その動作が表すのは感謝。連れて行ってくれてありがとうと、そういうことだ。


「気にすんな。俺が連れていきたいだけ」

「だと……しても……ん……嬉しい。だから、ありがとう」


 水分補給をしてゆっくりと言葉を紡ぐ。小さな、きっと俺にしか届かない声。数年前に比べればその声も随分と小さくなってしまった。

 顔もやつれて、誰が見ても蛍が病弱であることはわかる。そして、俺だからこそわかることもある。

 蛍の余命は、もう残りわずかだ。

 正確な日数なんかはさすがにわからない。それでも、近いことくらいはわかってしまった。

 絶対に蛍はそれを口には出さない。俺にとってどれだけ大きな存在かを理解していながら、それでもなおこいつは絶対に言わない。それは俺に気を遣わせないためだろう。


「ね、え」

「どうした」

「愛してるよ」

「……そっか」

「え……」

「愛してる」

「……ん」


 どうして急にそんなことを言うんだ。そんなことを言うのはお前のキャラじゃないだろ。どうして今日は、そんなに素直になってしまうんだ。

 まるで、今日死ぬみたいじゃないか。


「……今日ね、眠いの」

「寝るな」

「うん、わかってる。寝ちゃ駄目な気がして……怖くて、寒くて。苦しい」

「……帰るか」

「それは嫌……!」

「俺だって嫌だ」


 自分でも驚くほど感情が籠ってしまった声。自分勝手にも程がある。


「お前がいなくなったら、俺はどうしたらいい? 蛍の隣にいることだけが楽しみなのに、お前は俺の前からいなくなるつもりなのか?」

「……いなく、ならないでいたいな」

「…………ごめん」


 当たり前だ。俺はただ最愛の幼馴染みが傍からいなくなる、たったそれだけだ。まだやり直すこともできる人生だ。

 だが、蛍の人生は終わりなんだ。リトライは許されない、一度たりとも報われることのなかった人生だとしても、唐渡蛍という一人の女の子の人生はそこで幕を閉じるのだ。

 車椅子を押す。いつもよりも遥かに重く感じてしまう。

 気が急いて早足になってしまう。どうしてかはわからない。わかりたくなんてない。

 こんなことなら連れ出さなければよかったのかもしれない。そんなことを思いながら歩いて、ようやく辿り着いた。


「……わぁ……」

「気に入ってくれたか?」

「うん、綺麗……ありがとう……」

「大丈夫か……?」


 こくこくと首を縦に振る。が、その動作にももう力が入っていない。


「ねえ……」

「なんだ」

「おぶ……って……?」

「……わかった」


 蛍の前で膝をつく。その背に力なく覆い被さって、それでもぎゅっと抱きつくように力を込めた。


「私ね……走り回るのが……夢……だったの」

「花畑だぞ」

「いいじゃ……ない……」

「……そうだな」


 蛍をおぶったままゆっくりと走り始める。人を乗せて走るというのは意外と難しいらしい。


「普通に……デートして……かわいい服着て……家近いのに、待ち合わせとか……して……」

「ちょっと遅れて来るんだろ。悪びれようともしないで『待った?』とか言って」

「そう……それで、悠は呆れたようにちょっとだけ怒るの……」

「そうだな、多分怒る」


 その夢はきっともう、叶うことはない。


「婚姻届も……出したかった……」

「飛躍したな」

「いいでしょう……センスのない指輪を買ってきて……私はそれでもとても嬉しくて……それで……」

「実はお前も似たようなのを買ってきてるんだ」

「……素敵ね……」


 その願いが満たされることは、ありえない。


「……あとは、えっちもしたかった……」

「んん!?」

「悠は……絶対私のこと気遣って……」

「そこの正確な描写はいらない」

「……そう……?」


 願望くらいは聞いてやりたかったが、そこはちょっと恥ずかしい。

 花を踏み潰す音が静かに耳に残る。会話はなかった。

 時折蛍が耳に息をかけてきたりしてくすぐったかった。髪の毛を噛んだりしてきて痛かった。耳を舐めてきたのがほんの少しだけ気持ちよかった。


「なあ、蛍」

「……ん……?」

「子どもの名前は、何にしようか」

「……そう……ね……そのときに考え……よ……?」

「……そうだな」


 また静寂。耳を舐めたときの俺の反応が気に入ったのか、今はずっと耳を噛んでいる。ちょっと痛い。

 やがて、耳から口が離れた。長い髪が視界の端に映った。


「き……こ……ぇ……る?」

「ああ、聞こえてる」

「……あ……り……――――」

「……ああ、俺の方こそ、ありがとう」


 振り向けばそこには、先程までは咲き誇っていたのに無惨に踏み倒され、それでもなお強く生きるペチュニアの姿があった。

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まだ見ぬ世界といつかの夢 神凪 @Hohoemi

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