空へ続く道

lager

お題「走る」

 目の前には、抜けるような青空が広がっていた。

 風は東から。

 流れる雲が、一切れ、二切れ。

 頭の後ろを焦がすように、夏の日差しが降り注ぐ。


 俺の足元には、くすんだコンクリートの建物の群れ。

 街路樹の緑と、アパートのベランダに干される洗濯物の色彩が、僅かにそれを彩っている。

 

 空は、どこまでも抜けるように青い。

 雑居ビルの屋上の縁に立ち尽くす俺の頭上を、一羽の燕が飛んで行った。

 掌に滲む汗を意識する。

 深い呼吸を一つ。


 俺は、虚空へと身を躍らせた。


 ◇


「なあ、神様ってよ、いると思うか?」

「あん?」


 磊人らいとはいつだって、唐突な喋り方をする奴だった。

「だから、神様だよ、神様」

「なんだよ、急に」

 Tシャツの上に羽織った学ランを風にはためかせて、校舎の屋上から、あいつは下の世界を見下ろしていた。

「なあ翔人ショート。お前は神様っていると思うのかよ」


 俺はミントガムを二粒口に放って、同じように下を見ながら答える。

「さあ。いねえんじゃねえの?」

「なんだよ。つまんねえな」

「なんつうかさ、『神を信じる』って言葉がイヤなんだよな。うさんくせえよ。『いる』なら『いる』でいいじゃねえか。けどよ、『信じる』って言い方するってことはよ、そいつだって神様見たことはねえんだろ。なら『いない』でいいじゃねえか」

「つまんねえやつだよ、お前は」


 校庭では、立ち入り禁止の屋上に陣取っている俺たちに、教員たちが声を張り上げて何事か主張している。

 校舎内からつながるドアの向こうでもがちゃがちゃと騒いでいるが、鍵は俺が持っている。しばらくは開かないだろう。


「俺よ、見ちまったんだよな」

「何をだよ」

「だから、神様だよ」

「ビョーイン行ってこい」


 磊人の目は、いつしか夕焼けの空に向けられていた。

 すぐ隣にいるはずのその横顔は、夕日の逆光によってよく見えなかった。


「なんつうかよ、屋根の上走ってるときなんだよな。俺の前によ、誰かいるんだよ。はっきり見えたわけじゃねえ。けど、確かに誰かが俺の前を走ってたんだ」

 影法師のような磊人が、ぽつぽつと喋る言葉を、俺は黙って聞いた。

「そいつは気づくと俺の前にいる。ヤナさんから逃げるときも、こないだサンコーの奴ら追っかけたときも、俺の前を走ってた。そいつのことを見ようとするといなくなっちまうんだ。でも、屋根から屋根へ跳んだときとか、階段の手すり駆け抜けたときとかによ。なんつうか、感じるんだよな」


 こいつ、とうとうイカレちまったのか。

「アホなこと言ってんじゃねえよ。誰がこの街でお前より速く走れるんだよ」

「そういうこと言ってんじゃねえんだよ、ショート」

 話がヤバいほうに行く前に適当におだてて切り上げてやろうとした俺の目論見は、ばっさりと切り捨てられた。

「あれだろ? 神様ってのはよ。見るもんじゃねえんだろ。一人一人が感じるもんなんだろ。だからみんな目ぇつぶって祈ってんだよな。だったらよぉ。きっとあれが、俺の神様なんだよ」

「なんじゃそりゃ」


 吐き捨てるようにそう言って立ち上がり、伸びをした俺を、磊人はくしゃりと笑って見上げた。

「俺はいつかよぉ。そいつに追いつきてぇんだよ」

「その前に、そろそろ逃げねえと追っつかれるぞ」

 扉の向こうで、どたばたとした足音が近づいてくるのが聞こえる。

 スペアキーでも持ってきたのだろう。

「地獄耳だねぇ、ショートくん」

「うっせぇ」

 そんな俺の言葉は、虚空へ消えた。

 俺の全てを置き去りにして、磊人は飛び降りていたのだ。


 悲鳴と歓声が沸く。


 雨樋。窓枠。階段の手すり。次から次へと足場を見つけては、跳ねるように校舎を駆け下りていく磊人の姿を、多くの生徒たちが遠巻きに見守っていた。

 それはとても美しく、神秘的で、雄弁な走りだった。

 背後から、鍵の開けられた扉の開く音が聞こえる。品のない足音。汚らしい声音。


 俺はポケットの中の鍵を投げ捨てると、磊人の後を追って飛び降りた。


 ◇


 三年後、磊人は死んだ。

 高校を卒業したあと、スポーツパルクールとかいう謎の遊びを見つけたあいつは、せっせとパークやらジムやらに通っては、お仕着せみたいに決められたルートを飛び跳ねていた。俺はそれにつきあう気も起きなくて、アホな連中とアホな遊びをしたり、短期のバイトで金を稼いでは浪費することを繰り返していた。


 たまに会ったときには、昔の話に花が咲くようになった。

 そうなったらもう、道は分かたれたも同然。

 きっとそのうち、こうして会うこともなくなるだろう、なんて思っていたら、急に訃報が届いたものだから、俺は悲しむより先に唖然としてしまった。


 せめて、そのパルクールの最中の事故とかで死んでいればまだドラマティックだったろうが、普通に交通事故だった。

 雨の日の交差点で、信号待ちをしているところにトラックが突っ込んできたらしい。磊人のお袋さんが俺のことをよく思ってないことは知っていたから、通夜も葬式も行かなかった。墓が出来てから、一人で酒瓶を持って別れを言いに行った。


『なあ、ショート。お前の神様はどこにいるんだよ』


 そんな言葉が、いやに鮮明に思い起こされた。


 知らねえよ、そんなもん。

 なあ、磊人。

 お前、神様とやらには追い付けたのかよ。

 お前がスポーツパルクールを始めたときには、俺は正直言ってがっかりしたよ。

 なんでお前が決められたコースで決められたトリック決めて赤の他人に点数つけられてんだ?


『俺はよぅ、見つけちまったんだよな』


 ずりいよ。一抜けかよ。いつだってそうだ。お前は、いつも俺の前を走ってる。


 磊人の眠る墓は海沿いの霊園に建てられていて、吹きさらしの潮風が肌に心地よかった。

 ここに来るまでの坂道を駆け抜けたら、きっと気持ちいいだろう、なんてことを考えてしまった俺は、きっとビョーキだ。

 美しいリズムを刻む足音が、俺の横を通り抜けていった気がした。


 そうだ。

 俺はいつだって、お前の後ろを走ってた。


 ◇


 虚空へと投げ出された俺の体は、ほんのひとときだけ、重力の軛から解き放たれた。

 前後左右上下、体の全方位を風が包み込む。

 すかさず俺を捉え直した重力に引かれて落下する体を、慎重にコントロールする。

 外階段の手すりを足裏で捕らえ、下向きにかかる力を下半身の筋力で横に流す。

 上体でバランスを取り、跳躍。

 再び虚空に踊る体は、向かいの建物の屋上へと落下した。


 前転受け身で衝撃を均一に逃がす。

 起き上がる暇も惜しんで、前へと駆け出す。

 前へ。

 前へ。

 

 風は前にしか感じない。

 蹴りだす足が、反動をつける腕が、そこにある空気すらをも、もどかしく感じるほど。

 夏の日差しだけが、変わらず真上から俺を焼き付け、焦がしていく。


 バルコニーを走り抜け、宙返りで飛び越す。

 景色がかき混ぜられ、意味を失くしていく。

 踏みつけるコンクリートの感触が、徐々に熱さを増していく。

 

 そして。


 駆け抜けるビルの先に。

 飛び降りた階段の奥に。

 跳ね飛んだ建物の合間に。

 

 誰かがいた。


 それは常に、俺の行く先を走っている。

 姿が見えたわけじゃない。

 音が聞こえたわけじゃない。

 それなのに、確かにそいつはそこにいて、俺の前に道を作っていた。


 それはきっと、とても美しく、とても懐かしい、誰かの走り。

 それが進むべき道であるように、俺の前を走り、踏むべき場所を、飛ぶべきタイミングを教えてくれる。

 それに従って道を選べば、驚くほど容易く体が動いた。


 おいおい。

 嘘だろ。


 なんだよ。

 結局俺は、あいつの後ろを走ってるのかよ。


 虚空に踊る体を、風が打つ。

 転がる体を、コンクリートがこすり付ける。

 喉の奥にひりつくような熱を感じる。


 前へ。

 前へ。


 飛ぶ。

 走る。

 跳ねる。

 走る。

 転がる。

 走る。


 走って、走って、走って。


 目の前には、途切れた道。

 目線より少し高く、次のビルの屋上。

 視線を右にずらせば、その外階段の手すり。


 あと5歩で道は途切れる。

 俺の視界の端に、右へ舵を切る影が見えた。

 きっとそれが、正しい道筋なのだ。


 手すりを伝って、ビルを横切れば、また次の道へと飛び移ることができる。


 あと3歩。


 俺はいつだって、あいつの後ろを走ってきた。

 

『なあ、ショート。お前の神様はどこにいるんだよ』


 そうだ。

 俺の神様は――。


 あと1歩。


 時間が凝縮する。

 踏み出した足の裏が熱い。

 俺は全身のバネを使って、飛び上がった。


 外階段が、視界の端に消えていく。

 今までいたビルよりも一段高い屋上の手すりに掴まり、壁面を蹴る。

 もう一度手すりを掴み直し、その内側へと飛び込むように、体を宙に躍らせた。


『じゃあな、ショート』

 そんな声が、聞こえた気がした。


 目の前には、何もない。


 誰もいない。

 

 ただ青い空が、そこにあるだけだ。


 束の間の空白の時。


 重力が意味を失くした刹那の時間。


 俺の目の前で、きらきらと光る水の球が踊った。


 俺の涙だった。

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