断じてっっ! 若紫計画ではないっっ!

不屈の匙

誤解だっ! 断じて若紫計画ではない!


 朝起きて、顔を洗って、髪の毛をワックスで軽く撫でつける。

 少しでもカッコいい自分で走りたいから。

 黒地に青のラインが入ったスニーカーに足を突っこんで、日が出て間もない朝に駆け出す。


 大学進学とともに上京して、せっかくだからと始めたジョギング。もう数年、毎朝、雨でも走っている。

 飽き性の俺にしては、ずいぶん長いこと続いている日課だ。


「おはようございます」


 それもこれも美人のお姉さんに挨拶してもらえるからだ。ホワホワしたお姉さんは今日も可愛い。


「おはようございます!」


 犬の散歩をしている彼女に挨拶を返すためだけに、俺は毎朝早起きしてこの公園を走っているのだ。


 焼きたての食パンみたいな犬が寄り道すれば、それだけお姉さんものんびり散歩するので、俺はいつも犬に「ゆっくりしていけよ」と念じている。

 つまり、運が良ければ二、三回すれ違える。


 あわよくば、俺のこと意識してくれないかなって。

 挨拶しかできない奥手な俺だけど、綺麗なお姉さんに憧れてしまうのは仕方がないことだと思う。おっぱい大きいんだもん。まだ名前も知らないけど、そこは未来の俺に期待。


 だから俺は今日も足を急がせる。息が上がりすぎない程度に。

 ジョギングで汗びしょびしょになって息を荒げる男なんて通報ものだもの。




 俺はお姉さんと物理的にすれ違う日々を続けていた。


 そんな夏のある日。

 青いバンダナを首に巻いたふくふくの犬が、自動販売機の横で暑さに融けかけている。


(あれ? いつものお姉さんがいないな……)


「お前、どうしたんだ? いつものお姉さんは?」

「くうん」

「そうか、わかんないよなあ」


 犬に話しかけても、人語を操る道理はない。けど、お姉さんが心配だ。犬を置いていくような人じゃないだろうし。まさか倒れてたり……?


「あら……、ポチと遊んでてくれたのかしら……?」

「おはようございます……、とても顔色が悪いですけど、大丈夫ですか? タクシーでも呼びますか? 救急車?」


 その左の薬指にハマる銀の指輪。既婚者だったかー。


「大丈夫よ、お腹に赤ちゃんがいるだけなの」


 まだ平べったい腹を、優しく撫でていた。失恋からの見事な追い討ち、泣きっ面に蜂。

 俺はその後の記憶がない。

 そして次の日から、すっぱり、走るのをやめた。




 数年後、勤め先が決まって、俺は引っ越すことになった。とは言っても、そんなに遠くじゃない。使う路線の兼ね合いを考えた結果だ。

 段ボールに荷物を詰めて整理していると、しばらく履いてなかったスニーカーが出てきた。綺麗なお姉さんの笑顔も過ぎる。

 黒地に青いラインのそれに積もった埃をはたき落とす。


「久しぶりに走るか」


 軽い気持ちで走り出したけど、汗が止まらんし足がガクガクする。

 めっちゃキツい。俺、こんなに走れなかったっけ?


(休憩しよ〜)


 自動販売機に近寄って、微妙に変わった品揃えに悩む。まあ無難に、小豆茶でいいか。

 ガコン、と自動販売機のポケットに落ちたペットボトルを取ったところで、久しく聞いていなかった声に話しかけられた。


「あら、お久しぶりね」


 一瞬固まったのも無理はない。失恋しつつも引きずりまくっているお姉さんだ。

 振り向くと、そばには可愛い幼児と食パンみたいな犬がいる。


「こんにちは」


 どうしたらいいの。片想いしてた相手に娘さんがいる。知ってた。なんで昼間にいるの。冷や汗が止まらない。めっちゃいいにおいする。人妻の匂い……。

 誰か俺に正しい応対方法教えてよ挨拶しか出ないよ。昔とった杵つかか、俺の表情筋は自然に笑顔を作っている。けれどそれも時間の問題だ。泣きたい。


「おかあさん、このひとだあれ」

「ポチのおさんぽともだちよ」


 よりにもよってその説明は酷い。心の中で大号泣した。

 もしかしなくてもお姉さんの属性は天然だった……?

 新しい一面にときめいてしまうな。


「ポチのおともだち!」

「ハッハッ。ワン!」

「ポチのおともだちならミユのげぼくだよね!」

「げぼく???」


 もしかして下僕だったりする? どんな環境で生活してるの?

 ブルジョワ???

 満面の笑みでいう言葉じゃなくない???

 誰かツッコミはいないのか。大渋滞だぞ。


「ワン!」


 犬に期待した俺が馬鹿だった。呑気に吠えやがって。


「あら、美優ったら。この人のこと気に入ったの?」

「うん! みゆね、げぼくすきー!」

「でもね、美優。ゲボクさんは朝しかいないわよ。起きられるの?」

「きょうはお昼にいるのに?」

「いつもは朝よ。そうよね、ゲボクさん」

「そうですね」


 惚れた人の言葉を否定できるはずがなかった。

 お姉さんがいうなら俺はゲボクだし、毎朝走っていることにする。今から本当にするから問題ない。俺はゲボクです。


「ミユおきるもん。あしたはおはようするもん!」

「あらあら、初恋かしら。ゲボクさん、また明日もよろしくお願いね」

「あ、ハイ」

「ゲボクさん、またあした!」

「ウン。また明日な」


 惚れた人の頼みを断れるはずがなかった。

 俺はまた、毎朝走ることにした。

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断じてっっ! 若紫計画ではないっっ! 不屈の匙 @fukutu_saji

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