第1話 絵を描く人


 いやな夢を見ていた。荒い吐息を整え、額に浮かんだ汗を拭う。開かれた窓から吹き込んだ風でカーテンが揺れ、差し込んだ陽光に目を細めた。ベッドから起き上がり、寝汗だ濡れたシャツを脱ぎ捨てる。頭が重い。さして体調が悪いわけでもない。もう夢の内容は思い出せないけれど、とにかく胸が苦しいと、そう感じさせるものだったことは確かだった。激しい動悸を抑えるように胸に手を当て、小さくため息をついた私は、畳んであった新しいシャツに着替え、部屋を後にした。


 リビングのテーブルにはコーヒーとパン。二人分用意された片方の食事の前に、床につかない足をぶらつかせながら退屈そうにこちらを見る一人の少女。

 透き通るような白い肌に、白く長い髪。じっとこちらを見据える蒼い瞳。それは、吸い込まれそうなほどに美しく、およそ人とは思えないほどだ。

「……ごはん」

「あぁ、ごめんな、待っててくれたんだね」

「……用意も」

「そうだね、ありがとう」

 そっと彼女の頭をなでる。くすぐったそうに眼を細めた彼女を見て少しだけ心が軽くなったような気がした。

 私が自分のテーブルに座ると、彼女はその小さな口でゆっくりとパンを食べ始めた。お腹が空いていたらしい。申し訳ない事をしてしまった。

「ノア、今日は留守番だけど、どうする? 大家さんの所で待ってるかい?」

 彼女はノアという。ほんの一年前、突然に私の前に彼女は現れた。それから、彼女は私と共に旅をしている。私達旅人は、旅人という名の行商人だ。町から町、都市から都市を行き来し、物資を運ぶ存在。滞在している村への荷物を隣町へ受け取りに行き、帰ってくるのが今日の仕事だ。

 ノアはこくりと頷いて少しだけ寂しそうな顔をして「大家さんのとこ」と言った。正確な年齢の分からない彼女は、見た目だけなら十四、十五歳程度だ。一日一人で待っているよりは、誰かといた方が退屈しないのだろう。

「わかった。準備してくるから、ノアも支度しといてくれな」

「うん」

 手早く食事を済ませ、玄関を出て井戸から汲んだ水で顔を洗い、寝癖を溶かす。大家さんの家の扉を叩くと、奥から「はいはい」と柔らかい、落ち着いた女性の声が近づいてきたのがわかった。

「おはようございます、クレアさん」

「あらおはようディック。今日はお仕事かしら?」

 扉を開けて現れた大家さんは、クレアという恰幅の良い女性の方で、我々旅人に格安で宿を提供してくれるギルドと呼ばれる団体の人物だ。物腰の柔らかい方で、滞在していて私が部屋を空けてしまう日に、ノアの面倒を見てくれている。

「ええ、隣町まで。もしよろしければ」

「ノアちゃんね、ええ、ええ構わないわ。ちょうど美味しいアップルパイができたところでね。後で荷車まで持っていくから、あなたもゆっくり食べて頂戴」

「ありがとうございます、そうさせていただきます」

 頭を下げ、荷車の準備に向かおうと踵を返すと「あ、そうそう」とクレアさんから呼び止められた。振り向くと何やらポケットを漁っている。一枚のメモ用紙を取り出した彼女はそれを私に差し出した。注文書と書かれているそのメモにはびっしりと文字が並んでいる。名前は、ユーリというらしい。

「なんですかこれ? 画材?」

「詳しいことは、道中にある小屋に住んでる男の子に聞くといいわ。私も昨日急にこれを渡してほしいって頼まれて、急いでたのか彼、そのまま走って行っちゃって。お金も預かってるけど」

「まぁ、注文自体は構いませんが、画家か何かなんですか?」

「う~ん……ちょっと変わった子でね」

 彼女の話では、なんでも父親がそこそこ名の通った画家だったという。しかし最近になってその父親が病気で死去。今は注文書を差し出してきた人物と、いつからかそこで暮らしていた一人の少女と暮らしているという。

 村のはずれにある小屋から出てくることはあまりなく、時折食料を買いに来ては買い込んだきりまた顔を見なくなるといった具合なんだそうだ。

 荷車に荷物を積み終えた私は、ノアを大家さんに預け、馬を走らせた。ひとしきり走ったところで、小さな小屋を見つけた。おそらく、クレアさんの言っていたのはここだろう。

 別に、立ち寄る必要もないのだが、なぜだか気になって、私はその小屋の前に馬車を停め、扉を叩いた。ほどなくして扉が開き、中から出てきたのは、少女だった。

「あ……こんにちは」

「こんにちは。ユーリさんは、いるかな?」

 少女は小さく頷いて、パタパタと部屋の奥へ帰っていく。ほどなくして、暗い小屋の奥から少年が顔を出した。絵具で汚れた服に、同じように汚れた手。端正な顔立ちの少年は寝癖の付いた栗色の髪をかき上げながら「どちら様でしょう?」と言った。

「こんにちは、旅人のディックというものです。先日の注文の件で、少々どんな方か気になったもので」

「ああ、貴方が。こちらこそ、急な申し出で申し訳ありません。時間があるようでしたらどうでしょう、お茶くらいは出せますが」

「では、お言葉に甘えて」

 足を踏み入れた小屋の奥からは、深く、優しい絵の具の香りがした。


「本当なら、専門……というか、父が取引をしていた先の方が画材や、完成した絵の引き取りに来る予定だったんですが、画材の調達が間に合わなかったんだそうで。慌てて注文書を作ったんですよ」

 ユーリの住む小屋は狭かったが、奥にもう一つ、アトリエがある。小屋を連結させるような作りで建てられており、居住空間の方にまで画材の香りが漂っており、裕福な環境とは言い難いものであった。彼の隣に座る少女は、イリスという名前なんだそうで、数年前に小屋の外で倒れていた彼女を彼の父親が保護し、それ以来、共に暮らしているらしい。

「客人なんて年に数回も来ないもので、申し訳ない」

「いえ……しかし、失礼ですが、絵だけで生活されているのですか?」

 私の質問に少し驚いたよな顔をし、二人は顔を見合わせて笑った。

「ええ。こんな小屋に住んでいるので誤解されますが、父の絵はかなり高く売れていたので。死んでしまいましたが、お金には困っていません。私はそんな父の様な画家になりたいんです。割と、有名だったんですよ」

「ああ、無知なもので申し訳ない……」

「いえいえ、お気になさらず。もしよかったら見ていきますか?」

 そう言って立ち上がった彼は奥の扉を開け、アトリエの真ん中にあるカンバスを指差し「どうぞ」と言った。

 アトリエの真ん中に置かれたその絵は美しい風景画だった。絵に知識のない私には、ただそれが美しいとしか表現できないものであったが、どこか懐かしさを感じさせるその絵からは何故か悲しさの様なものがあった。

「父のように、沢山の人に愛される画家に、ならなきゃいけないんです」

 そう言った彼の言葉には、決意と共にどこか諦めにも似た、響きがあった。私はただ、そう言って苦笑する彼と、心配そうに彼の背中を見る彼女の姿を見て「頑張ってください」としか言うことができなかった。


 

隣町のギルドに荷物を降ろし、新たな荷物を積みなおしてもらっている間に、画材を購入することにした。そう言った専門の商品を取り扱う店を教えてもらい、そこへ向かう。あまり大きな店ではなく、昔からある小さな画材店。結構な老舗だが評判はいいらしかった。

「いらっしゃい」

 店に入ると、正面の勘定場から声がした。白髪交じりで眼鏡をかけた、いかにも頑固そうな初老の男。その人は俺を見るなり「旅人か、珍しいな」と言った。

「わかるものですか」

「長いことやってるとな、わかるものさ」

 そういって手を差し出す彼に注文書を渡す。何も言うわず立ち上がった彼は手早く書かれている品物を揃えていった。静かな店内は、私と彼以外誰もおらず、物悲しいような懐かしいような、不思議な空気があった。

「ユーリだろう」

 唐突な呼びかけに驚いて彼を見ると、彼はにやっと笑って「そんな気がしたのさ」と苦笑した。

「あいつの親父とは昔馴染みでな。よく話したし、ユーリもよく知ってる。親父が死んで、何を考えたんだか知らんがな。どうにも生き急いでるみたいで心配してたんだ」

 それからまたしばらく沈黙し、注文書通りに揃えられた画材を紙袋に入れ終えると彼はまた勘定場の椅子に腰かけ、大きなため息をついた。どこを見つめるでもなく、虚ろな、何かを懐かしむような表情で虚空を見つめている。

「旅人さんよ、一つ、伝言を頼まれちゃくれねぇか」

「構いませんよ」

「……自分の描きたいものを描け。親父みたいになる必要なんか、お前にはないんだって、伝えてやってくれ」

 勘定を終え、彼に頭を下げて店を出ようと踵を返す。後ろから「ああ、それと」と彼から呼び止められた。そして彼はこう言った。

「イリスは魔女だよ。魔女狩りに気を付けることだ」



「お帰り」

 大家さんの家に向かうとノアが出迎えてくれた。隣町から帰ってくる頃には辺りはもう暗くなっており、ユーリの住む小屋は明かりが灯っていなかった事もあって先に荷車を返しに来たのだ。服の裾を握る小さな手にそっと手を重ねて「ただいま」と頭をなでると彼女は少し笑ったようだった。

「ずいぶん遅かったじゃないの、ご飯食べていくかい?」

「いつもより荷物が多かったもので、申し訳ない。お言葉に甘えて、頂いていきます」

 そう言った途端、入口の扉が勢いよく開かれた。息を切らした壮年の男性は慌てた様子でユーリの小屋の方を指差した。

「大変だ! 火が……」

 

 魔女とは何か。魔女は、不思議な力を持つ存在。どこからともなく現れ、人知れず姿を消す。

 魔女は薪を欲する。

 焚べた薪によって彼女らは魔本に火を灯す。


 彼女らは所有する者の願いを叶える。


 ――たとえそれがどんな形であれ、彼女らは、所有者の願いを叶える。どんなに歪んだ願いであっても。

 彼女らは所有者を愛すのだ。

  


 描かれたものを見て僕は強く唇を嚙み締めた。

「違う」

 破り捨て、新たにもう一度、描く。

「違う」

 また一つ、破り捨てる。手が震えた。

「違う違う違う! 俺はもっと、もっと親父みたいに……」

 頭を抱えた僕の背中に柔らかい手が触れた。不安げにこちらを見るイリスの手を振り払い、僕はもう一度カンバスに向かい合う。

 頭が回らず、手が動かない。固く握りしめた拳に溢れてしまった雫が落ちた。

『お前には才能がない』

 そう言った父の言葉が頭に響く。苦しい。もういっその事全て無くなってしまえばいい。全てを焼き尽くして、何もかもが灰になってしまえば、こんな思いをしなくて済む。そう思った。そう願った。確かに僕は、そう願ったのだ。

「ちょうだい」

 イリスの顔が僕の顔の前にある。柔らかなその手が僕の頬をそっと撫でて、そして、彼女の唇が僕の唇と重なった。彼女の目が、紅く輝いているのがわかった。それが何を意味するのか、僕にはわからなかったけれど、それでいいと、そう思ったんだ。


 ――終わりが、始まる。

 

「動くな!」 

 朱く燃える小屋の前に、一人の男が立っていた。黒いローブを纏った男。私の言葉に少し驚いた様子だったが、こちらを向いた男の顔には、落ち着きがあった。

「お前がやったのか」

「まさか、俺が来た時にはもうこうなっていたよ。唄の魔女の所有者だな、噂はかねがね」

「魔女狩りか」

「君らには用は無いんだ。手を出すなとも言われているのでね、できればお引き取り願いたい」

 私の手には拳銃が握られていた。突きつけた銃口に臆することなく男はこちらを向いている。今にも崩れだしそうな小屋。おそらくまだ二人は中にいる。男は私の焦りに気が付いたのか「ふん」と鼻で笑い「助けるつもりか」と言った。

「だとしてもお前には関係がないだろう」

「それはもちろんだ。もとより私も処分する気ではなかったが」

 男の目線が小屋に向けられる。

「さすがにこれでは気も変わるというものだろう」

 そういって男は扉を蹴破り小屋の中へ消えていく。制止する間もなく消えた彼を追って私も火の海へ飛び込んだ。

 いるとすれば奥のアトリエとふんでいた私の予感の通り、彼らはアトリエにいた。眠る少年を抱きかかえ、紅く、煌々と瞳を輝かせた少女。黒いローブの男はその炎を前にしゆっくりと銃を構える。そして、男がこちらを向いた。

「これでもお前は助けると言い張るか? この後この男がどうなるか、お前は知っているはずだ」

「退け」

「ふん。まぁ好きにするといい。せいぜい苦しむことだ」

 男は銃を降ろし、倒壊した柱の陰に姿を消した。男のいた場所に向かうが、男の姿は何処にも無い。胸をなでおろすが、もう時間はあまり無いようだった。

「ディック」

 アトリエの入口に、ノアが立っていた。

「ちょうだい」

 私はそっと胸元のポケットに隠してあったナイフを指に当てる。血の滴る指を、私はノアに向かって差し出した。私の手に触れる小さな手。顔を近づけた彼女は舌を伸ばし、紅い雫を一滴飲み込んだ。彼女の瞳が紅く輝くとともに、彼女息を吸い込んで、歌い始める。

「―――――――――」

 どこの言葉かもわからないその歌声は、聞く人を癒し、聞く人を守る歌。倒壊する小屋の破片がまるで私たちを避けるかのように落ちてゆく。イリスの火が消え、眠るように倒れこんだ二人を抱え、私は唄い続けるノアと共に燃え盛る小屋を後にした。



 目を覚ましたイリスは隣で眠るユーリを見て静かに涙を流した。

「こんなつもりじゃなかったんです」

 そう言った彼女はただ静かにユーリの胸に手を置いて「ごめんなさい」と言った。

「どうするつもりだい?」

「全て、彼に返します。彼の願いは叶えました」

「それは……」

「いいんです。私はただ、彼と共にありたかっただけだから」

 彼女の目が、紅く輝きだす。彼女の姿がうっすらと透けていく。虹色の光が溢れ、彼と彼女を包み込んで、姿を隠していく。

「彼が起きたら、伝えてください。愛していたと」

「……わかった」

 光が消える。帳の落ちた世界で、彼はまだ、眠ったままだった。

  

「もう行くのかい」

「ええ、ここでの仕事はもう終わりましたから」

 馬車の手綱を握る。次の目的地まではかなりの距離がある。クレアさんは大きくため息をつきながら大き目の紙袋を手渡してきた。中からは甘い香りが漂い、ほのかに暖かかった。

「アップルパイだよ。ノアちゃんとあんたに。またいつでもおいで」

「仕事が回ってくれば、また伺いますよ」

 ノアは少し、寂しそうに手を振り「また」と言った。


 ――村の病院のある方から、騒ぎ声が聞こえた。少年が一人、首を吊ったらしかった。胸元のナイフにそっと手を伸ばした私を制止し、ノアは悲しそうに微笑んで歌いだす。

 魔力も何もない、ただの歌声は、伸びやかに美しく響く。


 この歌声がどうか、救いでありますように。それだけを願った。

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それでもただ魔女は唄う 希望ヶ丘 希鳳 @kihou777

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