芋切干一切れ

増田朋美

芋切干一切れ

芋切干一切れ

春が間近と言っても、まだまだ寒い日が続いている。静岡県は雪が降らないというが、それでもまだ寒い日が続いているのだった。

そんな寒い中でも製鉄所では、杉ちゃんとジョチさんが、水穂さんの世話を続けていたのであるが、

「水穂さん悪くなったな。」

と、杉ちゃんがはっきり言うくらい、水穂さんの容体は芳しくなかった。ご飯だって、大好物と言われている芋切干や、たくあんを一切れ食べるともういらないと言って、何もたべなくなってしまうのであった。

「一体僕たちは、どうしたらいいのでしょうかね。」

ジョチさんがそういうほど、水穂さんは弱弱しかった。やつれた姿というか、げっそりと痩せていた。

「とにかくね。僕たちがすべきことは、どうやったらご飯をたべてくれるようになるか、それだよな。もうたくあん一切れしか食べないんじゃ、どうしようもないよ。」

杉ちゃんは大きなため息をついた。

ちょうどその時、インターフォンのない玄関がガラガラっと開いて、誰かが来たことが分かった。

「僕、一寸見てきます。」

ジョチさんは急いで立ち上がり、玄関へ歩いていった。

「一体、どなたですか?」

「はい、水穂さんの事が心配で来させてもらいました。」

やってきたのは、由紀子であった。

「ああ、由紀子さん、いつも来ていただけるのはありがたいんですが、今日はお帰り願えませんでしょうか。」

ジョチさんは申し訳なさそうに言った。

「何かあったんですか?」

由紀子は急いでそう聞いてみる。

「ええ、水穂さん、昨日から何も食べてくれないんですよね。もう、僕たちもどうしたらいいのか、わからなくなっています。」

「そ、そんなに!」

由紀子は水穂さんの事が心配になった。

「おい、一寸来てくれ!水穂さんの体を押さえてやってくれるか。薬飲まさなきゃいけないから!」

四畳半から杉ちゃんのでかい声が聞こえてきた。ジョチさんは今行きますと言って四畳半へ戻った。

由紀子も急いで四畳半へ行った。来ないでと言われても、由紀子は、入ってしまうのであった。中へ入ると、水穂さんがつらそうにせき込んでいて、畳が吐いたもので汚れていた。ジョチさんが水穂さんの体を支えてやった。杉ちゃんのほうは、急いで薬を飲ませようとすると、

「私にやらせてください!」

と、由紀子は、その吸い飲みをむしり取った。吸い飲みの飲み口を、せき込んでいる水穂さんの口元へ無理やり押しこみ、何とかして薬を飲ませてあげた。

「一寸由紀子さん。変なことしないでくれる?誰があげるなんて、全く関係ないことじゃないかよ。人の邪魔をするようなことはしないでくれよな。」

杉ちゃんにそういわれて、由紀子ははいと杉ちゃんの言う通りにする気にはなれなかった。何だか水穂さんに何かしてやりたいという気持ちが強すぎたせいか、自分が悪いことをしているとは思えなかったのだ。

水穂さんは、薬に眠気を催す成分があったのだろう。静かに眠っている。ジョチさんは、急いで汚れた畳を拭きながら、やれやれ、これではなとつぶやいていた。

「杉ちゃん悪いけど、畳屋さんへ連絡してもらえますか。畳を張り替えてもらうために。」

「おう、わかったよ。」

杉ちゃんとジョチさんは、そういうことを言い合っている。何回それを言い合っているのだろう。畳屋さんだって、こんなに何回も張替えを頼まれては、儲かるかもしれないけど、嬉しくないだろうなと由紀子は思った。

「本当に、何とかしてやれないものでしょうか。」

と、由紀子は、べそをかきながらそういうと、

「まあ、無理だね。こうなっちまったら、もう直しようが無いと思うよ。とりあえずは、畳を張り替えてもらうことと、そうだなあ、そろそろ布団も新しいのに変えような。僕たちができるのはそれだけの事。」

杉ちゃんに即答されてしまった。ジョチさんが畳屋さんへ電話をかけているのを見て、畳屋さんではなく、お医者さんへ連絡すべきなのではないかと由紀子は思った。

「まあ、これからはあったかくなるから、布団も、一寸軽いものを用意して、静かに眠れるようにしてあげような。ただ、春は朝晩で寒暖差があるから、厚い布団をまだ持っていた方が良いかな。」

杉ちゃんはそうつぶやいている。

「そうじゃないでしょう。水穂さんに一番必要なのは、お医者さんなんではないですか。畳とか、布団の事で、どうのこうのと言っている場合じゃないわ。」

由紀子は杉ちゃんに言われたことを打ち消すようにそういったのであるが、

「まあ、そう言えるのは、普通のひとじゃないとできませんな。芋切干が何よりのごちそうだと言っているやつには無理だねえ。」

と、馬鹿にされたように言われてしまった。

「なら、あたしが呼んでみる。」

由紀子は急いで医療関係のサイトを調べ始めた。でも、今時水穂さんの訪問診療をしてくれるような医者はほとんどない。帝大さんこと沖田眞穂先生を呼び出してみようかと思ったが、電話してみると、帝大さんは学会で東京に行ってしまっていると言われた。医者というものはどうしてもえらいせいか、身勝手な人が多いものだ。ほかの診療所に何軒も電話を掛けたが、うちは受け付けないとか、救急車で搬送できないのかとか言われたりして、話にならなかった。搬送しようなんてことになったら、大きな病院ほど水穂さんを受け入れてくれないのは、由紀子もよく知っている。ようやく一軒、富士市内で活動している女医と電話がつながって、見てもらうことになった。由紀子は喜んだが、杉ちゃんたちは、どうせだめだろうというような顔をしていた。数分後に、まだ30代くらいの若い女性医師がやってきてくれて、水穂さんを見てくれることになったのだが、、、。確かに来てくれたのであるが、

ここまで重大な人は見たことはないとあっけにとられてしまうだけで、由紀子が望んでいることは何一つしてくれなかった。明治とか大正くらいの人であれば、こうなったかもしれないがとか、そういうことしか言わないようにできているらしい。それは、杉ちゃんもジョチさんもしっかり予測していたようで、先生が驚いているのを、やれやれという顔をして、眺めていた。

「由紀子さん、こんな無駄骨折りはやめようぜ。どうせ、こういうやつらは、無駄なことしか言わないよ。きっと、水穂さんの事なんて、信用する気にもならないだろう。」

と、杉ちゃんが言うと、女性医師はそういうことだったんだという顔をした。その顔は、そういうところのひとと、関わりたくないという気持ちが見え見え。杉ちゃんとジョチさんが、

「もう帰ってもらおうぜ。」

「そうですね。」

なんて言っている始末である。

「待ってください。薬はもらえないのでしょうか。症状を何とかしてくれるとか、そういうことは、してくださらないのですか?」

由紀子だけが一人必死になっていた。

「まあ、ここまでひどいなら、なにをやっても無駄よ。それに、こんな人には、」

「ちょっと待ってください。医者というのは、命が平等だとか、そういうことを思って、やってくださるんじゃないんですか?」

医者がそう言いかけて、由紀子は思わずそういってしまったが、

「ああ、無理無理。こういうね、エリート意識の強い奴には、水穂さんの事なんて絶対わかんないよ。さ、帰んな帰んな。」

と、杉ちゃんに言われて、何も言えなくなってしまった。確かに杉ちゃんの言う通りなのは、その女医の顔が示している通りである。ああどうして、こういう風に扱われなければならないんだろうな、と由紀子は水穂さんがかわいそうになった。でも、そういう風になってしまうのが日本の制度だ。ここで暮らしていくには、そういう風に言われないと、ダメなのだから。

女性医師が、薬も何も出さずに、得意げな顔して帰っていくのを見て、由紀子はどうしてこういう不条理が起きてしまうのだろうかと、思ってしまった。同時に、自分がこの企画を企ててしまったことを、すごく後悔した。

「まあ、えらい奴はわからなくて結構だよ。そういうやつがかかわると、こっちも困ったことになる。世のなかってのは、そういうもんだよな。」

「ええ、それは僕も知っています。資本主義社会とはそういう人たちを締め出してしまう社会なのでね。」

杉ちゃんとジョチさんは、二人とも気にしない様子で、カラカラと笑っているが、由紀子は穴があったら入りたいほどであった。

「さて、僕、晩御飯つくってくるよ。製鉄所の利用者さんたちも、宅配弁当ばかりでは、飽きちまうだろうからな。」

杉ちゃんという人は、気持ちを切り替えるという面では達人だ。ジョチさんも、僕も五時から会食がありますのでと言って、帰ってしまったのである。なんで水穂さんの事を皆放置しているんだろう。いくら手の施しようがないと言われたって、しっかりみてやるのが、介護人の務めではないか。由紀子はそう思ってしまったが、それはよほどのことが無いとできないということは、由紀子は知らないのだった。

とりあえず、由紀子は今日は自宅にかえらないことに決めた。水穂さんのそばにいてやらないと、水穂さんが、かわいそうな気がしてきたのだった。幸い、住み込みの利用者は少なかったので、居室のひとつを貸してもらうことにして、由紀子はそこで過ごすことにした。杉ちゃんたちが、夕食を食べて、とりあえず帰っていく利用者たちを見送っている間、水穂さんは静かに眠っていたのであった。結局晩御飯は何も食べなかった。

ところがその真夜中ごろ。水穂さんがまたせき込み始めた。由紀子が御不浄に行きたくなって起きると、四畳半からせき込んでいる声がしてきたので、急いで四畳半に飛び込んだ。畳はまた汚れていた。

水穂さん大丈夫と声をかけても、反応はなかった。ただ、胸を押さえて、せき込んで苦しがるだけである。急いで由紀子は、枕元に置いてあった吸い飲みの中身を飲ませたが、落ち着きそうになかった。ああどうしようと由紀子は思ってしまう。ほかの利用者は誰もおらず、誰か呼んで来ようと思っても、誰もいない。救急車を呼ぼうと思ったって、それより大変であることは、由紀子も知っていた。其れだけは、水穂さんの事を想うなら、絶対してはいけないと思われることだ。

ずいぶん長い時間であったような気がした。何をしようか考えて、あれもこれもできないと悩んでいる間が、とにかく、長い時間だった。よし、こうなったら、あたしが何とかするしかないわ!と決断した彼女は、水穂さんを背中に背負った。其れは、人間の男性の体重にしては、信じられないほど軽い重さだった。

「おい、どこに行くんだよ!」

と、誰かが言った。由紀子にはそんなことは聞こえなかった。ただ、背中の上で、せき込んでいる水穂さんの重さがあるだけだった。由紀子は急いで製鉄所を飛び出して、真っ暗な道路を走っていった。

春が間近と言っても、それは大嘘のような寒さだった。まだ、遅霜というか、道路の水たまりが凍っていた。由紀子はそれも気にしないで走った。なぜか、靴を履くのも忘れていた。

真っ暗な夜道の中、やっと、病院であることを示すマークがみえてくる。其れがなんという医療機関名であるかを確認している暇はない。由紀子は急いでその建物の入り口の引き戸に手をかけるが、しっかり施錠されていた。呼び鈴を鳴らそうと思ったが、呼び鈴らしきものもない。とにかく、この引き戸があくまで、一生懸命たたきまくる。引き戸が壊れるとか、そういうことは関係ない。どうしてこの戸は開かないんだ!と思いながら、由紀子は戸を叩きまくった。硝子戸でも木製でもなんでも関係なかった。病院なら、ほかの入り口があったりするはずなのだが、そこには入り口は一つしかなかった。とにかく、戸がはがれてしまいそうなほど、由紀子は、引き戸の取っ手を引っ張りまくったのであった、、、。

突然、すっと戸が緩んだ。

「一体どうしたんですか。」

いきなりそう冷静な声がして、由紀子は思わず全身が冷たくなった。中から出てきたのは、影浦千代吉である。涙のほうが声より先に出て、何か起こったのか言えなくなっている由紀子を、影浦は一通り観察し、

「こちらにいらしてください。」

と言って、由紀子を処置室に連れて行った。とりあえず、水穂さんの体を開いているベッドに寝かせてあげて、一寸隣の部屋で待っていてくれますかといった。由紀子はできることなら、水穂さんのそばにいたいと言いたかったが、影浦にそれはダメだと言われた。

とりあえず、待合室で待っている間、由紀子は自分が寝間着のままでここへ来てしまった事と、氷が足にかみついて、足の指にけがをしていることに初めて気が付いた。

「由紀子さん終わりました。もう、眠っていらっしゃるから、来てくださって大丈夫ですよ。」

と、影浦に言われて、由紀子は処置室に言った。水穂さんは影浦に処置してもらって、もうせき込むことなく、静かに眠っている。由紀子は水穂さんの手を、泣きながら握りしめた。

「理事長さんには僕が連絡しておきました。目が覚めたら、迎えに来てくれるように言ってあります。」

影浦が冷静に言ったので、由紀子は、

「影浦先生も、何もしてくださらないのですか。」

とたまっていた涙がいっきに流れてしまったような気がした。

「正確に言ったら、呼吸器外科の医者に見せるのが、一番なんですが、水穂さんの立場を考えると、それはできないと思います。其れは、仕方ありません。僕は、専門外なので正直あまり詳しくありませんが、かなり肺が損傷していることは間違いないと思います。今回の事もそのせいでしょう。でも、それだけではないと思いますよ。水穂さんはかなり、疲労していらっしゃる。働きすぎて疲れたというのとは、また違う疲労でね。」

影浦に説明されて、由紀子は、

「じゃあ、どうしたらいいんですか。私は、どうしたら、水穂さんを楽にしてあげることができますか?」

と言ってしまった。

「そうですね。まずは、水穂さんが、疲労しないで生活させてあげることだと思いますよ。でもですね、日本にいる限りそれはできませんよね。それを実現させるのなら、日本以外の国家に出ることでしょう。水穂さん、またヨーロッパに行ったらどうですか?向こうでは、同和問題で差別されることはまずないでしょうし、医療体制だって、こっちよりちゃんとしているでしょうから、そのほうがより楽になれるんじゃないかと思います。」

「そんなこと、、、。」

と、由紀子は悲しくなってしまうのだった。そうなってしまったら一番悲しいのは自分だ。水穂さんの世話をすることで、私はどんなに救われているのだろうかと思うのに、日本から出ていくしかないなんて、、、。せめて私も、外国で暮らせればいいと思うのであるが、自分は海外の言語も文化も知っているわけでもないし、そこで生活するなんて、とてもできそうになかった。

「まあねえ。どこの国でも、そういうひとっているんですよね。ヨーロッパでも、ユダヤ人とか、そういう立場的に弱い人はいますからね。でも、それを放置しない人もいるってことが、大きな違いかもしれませんね。日本とは違って、放置しっぱなしにしないというところは、西洋のすごいところなんじゃないかな。」

影浦先生にそういわれて、由紀子は、

「じゃあ私は、水穂さんに何かしてあげることは何もないのでしょうか?」

と、小さな声で言った。

「いや、何も無いってことはないと思いますが、水穂さんに通じてくれるかのほうが問題じゃないかな。そうやって、自分を愛してくれる人が一人いるってことに、水穂さんが気が付いてくれれば、又変わると思います。ただ、それは非常に難しいとは思いますけど。だって同和問題の垣根を打ち破るというのは、なかなかできないことでもありますし。水穂さんもすごい人ですよね。こうして、人ひとり動かせるんだから。其れができるってことは、なかなか大変なことですしね。そういう細かいところに気が付いてくれれば、幸せになれるのになってことは、よくあるんですけど、大概の人は気が付かないで終わってしまうんですよ。」

影浦は、泣いている由紀子を励ますように言った。

「残念ながら、口でいくら愛していると言っても、通じない人のほうが多いです。そういうのに過敏な人もいますが、水穂さんの場合、他人を動かしていることをいけないことだと思い込んで、自分を責めているので、余計にそれで疲労してしまうのかも。」

「あたしは、そんなこと、態度で示したことはありません。ただ、水穂さんの事が好きで、心配しているんです。水穂さんもその通りにしてくれればいいのに、なんでこうなってしまうのでしょうか。あたしには分かりません。ただ、その通りに受け取ってくれればいいのに。なんで、そうならないんだろうって、あたしの方が逆につらくなるくらいです。それに関係なく、水穂さんのほうが、どんどん悪くなってしまうんです。もし、水穂さんが、精神的に疲労しているだけだったら、なんで私のいうことを素直に聞いてくれないんでしょうか。あたしは、そこがどうしてもわからないんです。」

由紀子は、思わず自分の思っていることを寝底から言ってしまったような気がした。其れは、ずっと頭の中にあって、口にしたい言葉だった。でも、それを口にしたら、いけないような気がしてしまうのも確かで、ずっと口にすることができなかった言葉でもあった。

「そうですね。言葉というのは、不完全ですからね。なかなかその通りにうごくというのは、人間、出来ないものですよ。もし、由紀子さんが、水穂さんの事をずっと思い続けるのであれば、口でどうのではなくて、芋切干を一切れ食べさせることを、目標にしていったらいかがでしょうか?」

由紀子は影浦の言葉を聞いて、そうするしかないと思った。

「影浦先生、ご連絡ありがとうございます。御迷惑おかけしてしまって失礼いたしました。水穂さんは大丈夫ですか?」

不意に影浦医院の入り口からそういう声が聞こえてきた。多分、理事長さんたちが到着したのだろう。

由紀子は、まだ涙を拭こうという気にならないまま、眠っている水穂さんの右手をしっかり握りしめた。其れに、自分の想いが通じてほしいと思った。





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芋切干一切れ 増田朋美 @masubuchi4996

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