走れ。万座温泉に向かって

新巻へもん

頑張ってね

 ミキの枕元でスマートフォンが振動する。タップして目覚ましを止めた。もう一度眠りに落ちそうになるのを我慢して、ベッドの上でストレッチを始める。あまり本格的なものではない。体を覚醒させるための軽いものだったが、それでも続けているうちにじわと体の芯から暖かくなる。


 だいぶ日の出の時間は早くなったけれど、まだカーテンの外は明るくなっていない。まだ道路を走る車の数も少なく、街はまだ半分眠ったように静かだった。ベッドから起き上がると大きく伸びをする。部屋の隅に巻いてあるヨガマットを広げるとミキはプランクを始めた。


 プッシュアップ、スクワットといつものメニューをこなしていく。すぐにじんわりと汗をかきはじめた。ミキは1セットこなす度に立ち上がってカーテンの隙間から外の様子を伺う。スクワットの3セット目を終えて外を見ると、向かいの通りを走って近づいてくる人影が見えた。


 ヒロだ。白を基調として黒いラインが入っただけのランニングウェアを着て走っている。マスクからは盛大に湯気が上がっていた。ミキの息で窓が曇る。今日は寒さがぶり返したらしい。走って近づいてきたヒロはチラリと通りの向かい側にあるミキの住むマンションを見上げる。


 視線からミキの部屋を探しているのは明らかだったが、ミキは敢えて反応を示さない。ヒロはそのまま自分の家の方に走っていった。ミキは手を振ってあげても良かったかなと思い、すぐに自分の考えを打ち消す。いやいや、あまり甘やかすのはよろしくない。


 ミキは運動メニューを全て終えるとクールダウンのストレッチをしてから部屋を出た。そのままバスルームに向かい、熱いシャワーを浴びる。体に薄く張り付いていた汗が流れて爽快だ。シャワーを止めると全身が写る鏡の前でボディチェックをする。出るところは出ていながらウェストラインは引き締まっていた。縦長のおへその周囲には腹直筋は浮き上がってはいないものの見事に締まっている。


 この姿の一部を見せたことのある唯一の男性ヒロのことを思い出す。髪の毛を洗いながらミキは唇を尖らせ心の中で呼びかけた。キミが幻滅しないように私がどれだけ体のメンテナンスに気を遣っているのか分かっているのかい? まあ、分かってないだろうなあ。


 変な行為を強要するわけでもないし、体を重ねている時もミキの体を気遣うことが分かる所作ではある。ただ、女の子がどれほど努力を重ねているかまでは想像のうちにはなさそうだ。女性の体はホルモンの関係でどうしても皮下脂肪を貯めこもうとしやすいし、周期的に肌荒れを起こす時期もある。


 そのことをヒロにアピールするつもりもないけれど、ちょっとはヒロも努力をして欲しい。ストレートに太ったと言われて、焦って運動を始めたようだけれど、そうなる前に自分でコントロールしてもいいのではないか。自分が努力しているのだからというのを他人にも強要するつもりもないけれど、仮にもお付き合いをしている相手が居るのだゾ。


 バスルームから出たミキは服を着て自室に戻り、スマートフォンで温泉の検索を始める。やっぱりお肌がすべすべになるところがいい。できれば乳白色の温泉がいいな。それならお湯につかってれば肝心なところは見えないので一緒に入っても……。ちょっと大胆過ぎるかな? お、万座温泉か。ここを提案してみよう。


 ヒロも目の前にご褒美をぶら下げておけば、必死に努力するでしょう。感染症の蔓延で当面は外出できそうにないし、早くても夏前までは温泉地まで出かけるのは無理なはずだ。抱き合った時にお腹の肉が余っていたら思いっきりつまんでやろう。そうならないように頑張って運動して走ってね。ミキは心の中で声援を送った。

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