波に乗って走れ、未来へ

みかんの木

海と私と未来

バキバキバキバキ、ゴオオオオオ


地震発生から五分。遠くでそんな音が聞こえた。

「ねえ、何の音?」

まだ落ち着かない心臓を抑えて、キッチンに散乱したお皿を拾い集めていた時のことだ。

「やあね、津波かしら、、、海の近くの人無事だといいのだけどねえ。」

お母さんがそう言った。


私もお母さんも、どこか他人事だった。友達は多少心配だったけれど、いつも訓練ばかりで本当に津波が来たことはなかったから。大したことないと思っていた。それに、地震が起きたばかりだったし、遠くで津波が、なんて考えている場合ではなかった。その時の私は知る由もなかったのだ。この後自分に起こることなど。

「ねえ、なんかさっきより音大きくなってない?」

最初に気づいたのは私だった。

「そうかしら?」

「もういいよ、老人が。」


お母さんはまだ40代なのに耳が遠かった。その頃は、事あるごとに怒るお母さんが嫌いだったし、反抗もしていた。大好きなんて伝えたことはなかった。でも本当は優しくて、暖かくて、柔軟剤のいい香りがして、大好きだった。




あれから10年。中学生だった私は、大人になった。仕事もしているし、彼もいる。毎日充実してる。でも心のどこかは今も傷ついたままだ。

「楠本さんってさ、なんか人生楽しそうだよねー。」

お昼休み。同僚の榎本が、急に話しかけて来てそう言った。

「そうだよ~ん、もう人生超楽しい!毎日ハッピー♪」

人生楽しそう。色々な人に言われる言葉。別に、

「人生楽しくなんかないよ!!震災で唯一血縁関係があるお母さん亡くして、今も一人になるとパニックになる時があって精神安定剤処方されてるんだよ!?あんたの方がよほど人生楽しいんでしょうね!」

と言っても良い。むしろそう言ってしまった方が楽だろう。みんなきっと私に同情して、

「かわいそうだったね。」「辛かっっただろ?」「話聞こうか?」

なんて言うに違いない。でも嫌だった。表面だけでも幸せな女でいたかった。表面も不幸だったら、私に生きる意味はない。私が生きているのは、表面の幸せな私のためだ。私は人生楽しいんだから。


「疲れた…」

私は家に帰ったとたん、ボソッとそう呟いた。幸せなフリってすごく体力を使う。ふと、カレンダーを見た。

ーーー明日で10年か。

テレビを付けてみる。テレビからは、ビリビリマシーンにかかった芸人が、叫び声を上げてのたうち回る映像が流れてきた。

なんて呑気なんだろうか。こっちは今も苦しんでいるというのに。そのうち11日の2時46分にすら何もやらなくなるのだろう。こうして忘れられていくんだろうな。ふとそう思った。

ブルルルル

たっくんからだった。

「もしもし、どうしたの突然」

「ねえ、今からデートしない?」

「今から?なんで?もう夜の8時だよ?」

「いいからいいから」

「いいけどさ…どこ行くの?」

「海」

え?

「たっくん、私海は無理だって言ってるじゃん…」

「でも俺は海に行きたいんだよ。いいじゃねえか、何がダメなんだよ」

なぜ今日なのだろうか。よりによってなぜ今日なのだろうか。たっくんは何も気づいていないのだろうか。被災したとは言ったものの、お母さんを亡くしたなんて話はしていない。してはないけど、そういうのって察してくれるものじゃないのか。

「でも…」

「でも何?」

今ここで断ったらたっくんに嫌われる。たっくんに嫌われたら、私は本当に独りになってしまう。

「ううん、なんでもない。いいよ、いこ」

「やった!じゃあすぐ俺の家来てよ。一泊する予定だから寝巻とか必要なもん持ってきてね〜」

泊まる?どこに?明日まで?なんで?

「明日土曜日だしいいだろ?」

「え、うん…」

「よし決まりな!すぐ来て!」


「おまたせ」

「よっしゃ、行くか!」

夜の街を二人で歩く。

「ねえ、海ってさ、どこ行くの?」

名取なとり

「え?」

名取は私が被災…お母さんが…

名取には二度と行かないと決めていたのに、名取の情報は全部シャットアウトして来たのになんで今更名取に行かなきゃならないの?

「他のところじゃだめなの?」

「名取がいい」

「…分かった。」


私たちはその後、東京から最終の新幹線に乗って仙台へと向かった。夜だし貸し切り状態かと思っていたけれど、中はやつれたサラリーマンでいっぱいだった。きっとこの人たちも、疲れを悟られないよう、営業先でお偉いさんにニコニコペコペコしてきたのだろう。規模は違えど私と同じだ。その夜は、

「もうどこも空いてないだろうしあそこのホテルでいっか」

という彼の提案で、駅前の廃れたホテルに泊まった。


翌朝になっても、たっくんはどこにも出かけそうになかった。

「ねえ、どこもいかないなら帰ろうよ」

嫌われたくなくて来てみたけど、やっぱり怖い。海を見たらパニックを起こすかも。そんなことしたら余計たっくんに嫌われてしまう。

「2時に出るから、それまではゆっくりしようよ」

たっくんはunoやトランプに誘って来たけれど、私にはそんな余裕はなかった。


ザアアアア、ザザアア

そして私は今海にいる。あの後結局、

「ごめん、やっぱ夜にしよ、2時46分にはちゃんと座って祈ろう」

と意味のわからないことを言い出して、海についたのは8時。足が震える。今にも、今にも地震が来てあの時みたいになってしまうんじゃないか。そう思うと怖くて怖くて、手が冷たくなっていった。

ギュッ、とたっくんが私の手を握ってくれたけど、それでも怖い。


「やっぱり帰ろうよ!たっくん気づいてないの!?私津波で親を亡くしたんだよ!なんでこんなとこ連れてくるの!?」

思わず叫んでしまった。

もう、終わったな。そう思った。津波は、親だけでなく彼もさらっていくのか。どうにでもなれ。もう嫌だ。

「ごめん、俺知ってた」

ーーーえ?

「前に海デートに誘った時の断り方が異常で、親に合わせてって言った時も濁されて、そうなのかなって思って。机に置いてあった保険証見たら宮城県名取市になってて、調べたら津波が凄かった所で。知ってた。」

「じゃあなんで海になんか連れてくるの!?何?嫌がらせ!?」

「違う、ほら、見て」

空には、無数のランタンが浮かんでいた。ふわり、ふわりと空に浮かぶランタンの数はどんどん増えていった。星のかけらのように眩しくて、綺麗だった。


何分見つめていただろうか。

「ねえ、広場行こ」

私はいわれるがまま広場に行った。


そこには、大きな慰霊碑があった。まさに今、町の人が汗と涙を流しながら、ランタンをあげていた。

「やったら?」

たっくんがそう言った。私は、震える手でペンをとり、ランタンに未だ見つからないお母さんへ手紙を書いた。


お母さん

元気ですか、なんて聞くのも変な話ですが、元気ですか。

私はずっと、海が怖かったです。あの時、私は自分が助かる事に精一杯で、お母さんのことを考えていませんでした。

「人が流されてるぞ!!」

という町の人の声に振り返ると、お母さんが

「助けて!!」

と声にならない声をあげていました。あの時、どうして助けに行かなかったんだろう。私はずっとそのことばかり考えていました。何度も死のうと思いました。でも結局勇気がなくて、自分を偽って生きてきました。

でも、今日からは偽らずに生きていきます。私は今日初めて慰霊碑と灯籠の存在を知りました。ずっと名取を避けてきました。でももう大丈夫です。お母さんは昔よく、

「もし私がいなくなってもあんたが一人で生きていけるように厳しくそだてとん!!」

と言っていましたね。あの頃は意味がわかりませんでした。でも今日分かりました。お母さん、育ててくれてありがとう。未来に向かって走ります。もう、立ち止まったりしません。


もっと書きたかったけれど、ランタンは既に文字で埋まっていた。お母さん、の文字の上に何かが降って、文字が滲んだ。それが自分の涙だということに気づいたのは、たっくんにティッシュを差し出されてからだった。


ふわり、ふわりと私のランタンが空にあがった。お母さんが、笑っている気がした。

『走ろう、共に未来へ』

と書かれている旗が、風に吹かれてゆらりと揺れている。


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