首を吊った少女の物語
ノートルダム
それは、たぶんみんなが悪い。
普通の家庭、というものはどこにでもあるから普通の家庭なのだろう。
朝比奈健太の家庭もたぶんにもれず、普通の家庭だったと思う。家は中古で、それでも数年のローンを組んで父が購入した2階建て。駅には10分と遠いのだか近いのだかよくわからない距離。
健太には、両親と姉がいた。
健太は、その時中学二年生だった。
父は普通のサラリーマンをしており、通勤2時間近くかけて都内の会社に通っていた。一時期流行ったネット系の企業で只管ルーターを売る仕事をしているらしい。
元はエンジニアだったらしいが、家庭を持ち、子供ができた時点で営業に転向したらしい。この時代、エンジニアは25時間勤務が基本だった。
母も同じ会社で働いていた事務職だったらしいが、結婚を機に退職した。
その後、近所の介護施設でパートのヘルパーとして働き始めた。
姉は公立の高校に進学していた。資金的な理由も含め、健太が多分近所の公立校を受かる可能性が微妙で、私立への進学が想定されたから公立しか選択肢がなかったそうだともいう。
家庭内に、特に不和はなかったと思う。
ただ、これが普通かわからないけど、両親が共働きともなると、生活のリズムの不一致が目立つようになるのが現実だった。
父は、日勤とはいえ朝早く出勤し、帰りは相応に遅くなる。
母もヘルパーの仕事で夜勤もあり、場合によっては一日会わない日があるぐらいだった。
母は専業主婦になったことを今では愚痴るようになった。
大学卒で入社した元同期の給料が、ヘルパーの仕事より全然良いからだ。社会は途中で仕事を変えるような奴には冷たい。ましてやブランクがある元主婦にできることは限られてくる。キャリアとは積み重ねなのだ。
それでも、父がそれなりに稼げることもあって、希望すれば大学まではいけるような話にはなっていた。
それは姉もだった。
特に一度挫折している母は、進学に関してはそれなりに口うるさい。
とはいえ、家で両親になかなか会えないとなると、家事を担当するのは主に姉の莉乃だった。莉乃は自分の弁当や、あるいは朝食や夕食の準備、掃除に洗濯と家の手伝いを進んで行っていた。
莉乃は、特別美少女というわけではないけど、クラスの中では可愛い方と分類されるぐらいには整った容姿をしていた。比較的おとなしめの性格で、それでもいつもニコニコしていた。
家庭の事情もあり、部活はサッカー部のマネージャーをしていたものの、積極的に参加しているわけではなく、大きな大会や週末の練習の手伝いなどは行っていたようだった。
家では学校や友達の話などほとんど話すこともなかったが、健太は一度姉がつき合い始めたという、莉乃の同級生の男、大塚慎吾にあったことがある。
小学のおろからユースでサッカーをしているとのことで、それなりに体格もよかったが、かっこいいというほどでもない。普通の良い人だったように思う。
けれども変化があった。
莉乃の彼氏が、いつの間にか変わっていた。
健太にとっては衝撃の出来事だった。
家に帰ってくると、莉乃とその金髪の男が部屋でいたしていた。
直接見たわけではない。
ただ、そうはいっても中古で買った一軒家、それなりに壁が薄く、そういう声が漏れ聞こえるのだ。
思えば、確かにその傾向はあった。
今まで、スキンケア程度だった化粧が、妙に派手になっていったり、家に帰ってくるのが遅くなって夕食を作ってくれなくなったり、たまに無表情になったり、、
次第に、堂々と金髪の男、新井一輝は家に居座るようになっていった。
新井一輝は、莉乃の所属するサッカー部の先輩だという男だった。
慎吾と違って、体格も外面もよいが、どこか軽薄さを感じさせる風貌だった。
この頃から何かおかしかった。
でも現実では、何も気が付かないまま健太は中学三年になった。
莉乃が2年に進学したのちのゴールデンウィーク、彼女はとうとう金髪になって帰ってきた。
いつの間にか、ピアス穴なども開けている。
情緒もだんだん不安定になってきた。
けれども、姉は相変わらず優しく、穏やかにほほ笑む部分は変わっていなかった。
と、思う。
両親も、流石にその段階になると事態に気が付いた。
けれども何もしなかった。
父はますます帰ってくるのが遅くなり、母も家にいる時間より職場にいる時間が長くなっていった。以前は会えば小言があったものの、母は莉乃を次第に無視するようになった。
莉乃の様子が更におかしくなっていったのは、それからだった。そんなに食が太くなかったはずの莉乃が、よく食べるようになっていた。
間食も増え、一回の食事の量は二、三人前を当たり前にように消費した。
最初のころは食べた分、体が受け付けないのか吐いていたりしたようだが、徐々に太っていった。2年に進学したころは標準体型だったのに、最近はどうみても小太り、或いは肥満とよばれる体格になりつつあった。
ただ、それでも姉は変わらないように努力していたのかもしれない。
「姉ちゃん、大丈夫かよ。最近なんか変だよ」
「え?何が?」
莉乃は健太の問いの意味が解ってないように返答した。
……どうやら、本当にわかっていないようだった。
「大丈夫、ちゃんと運動もしてるんだから」
夏ごろになると、新井も家に寄り付かなくなっていった。
そのころには、姉の体格も完全に変わっていた。
家族で話し合うことになったのは、夏休みも開けた日、二学期の中間テストを終えたころだった。その頃には姉の成績が明らかに悪化していた。
話し合いは、ハナから険悪な雰囲気だった。
母は、太った姉の体格が気に入らないのか、忌々し気に睨んでいた。
「アンタね。家を食い潰す気?こっちは必至で働いているのにバクバク食べてばっかりで」
母の怒りの声に姉は悲しそうに目を伏せた。
その様子に母の怒りはますますヒートアップした。
「それ以上、無駄飯食べ続けるなら家を出ていきなさい!」
父は、姉をかばうことなく、返ってきたテストの結果を指しながら姉に問うた。
「大学に行きたかったんじゃなかったのか?」
淡々と、でも非難めいた言い方だった。
「お前が行きたいといった大学は、私立の大学だ。父さんと母さんはお前の希望を叶えたいと思っていた。食べることが悪いとは言わない。だけど、生活が乱れている。そういう自覚はあるね?」
そういって、次に机の上にだしたのは、コンドームの箱だった。
「もう別れたようだから特に何もいわない。友達は選びなさい。後悔するのはお前なのだから」
一方的な父のいいようにも、姉は何も言い返さなかった。
ただ、一言謝った。
「ごめんなさい」
誰も、姉の寂しそうな笑顔に疑問を覚えなかった。
次の日から莉乃は、普通の生活態度に戻った。
以前のように積極的に家事を行い、間食をすることもなく、三食も普通の量を食べるようになった。
はじめは心配でみていた健太だったが、ほんとうに以前のような振る舞いに戻った姉をみて安心していた。
もともと、生活が荒れていた時でも、性格は以前のままだったのだ。
医者には、行かなかった。
健太としては、過食症ってこんなにあっさり治るのかな、とも思うところがないわけではなかったが、家族はあの頃の話を腫物のように触れることなく、表面上は穏やかな日常を取り戻していった。
姉も新井とはすっぱり切れたようだったが、結局サッカー部のマネージャーは辞めたようだ。後で知ったことだけど、新井もサッカー部だったらしく、彼はレギュラーだった。
サッカー部の大会でいいところまで勝ち進んだ打ち上げに、カラオケに行ってその場で酔い潰されて、関係に至ったらしい。
しばらく、当時の彼氏だった慎吾には内緒でつき合っていたらしいけど、結局ばれて慎吾と別れることになったとか。
莉乃が過食するようになったのは、そのころからだろうか。
少し、時系列がズレているような気もするが、今が平和だし、ということで健太は深く考えるのをやめた。
中学三年の二学期は長いようで短い。
健太は高校への受験勉強に追われていた。
夏休み中は莉乃のゴタゴタがあり、正直勉強が手につかず、ただでさえよくない成績がしっかりと悪い方へと転がったからだ。
その日も、結構遅くまで健太は勉強していたと思う。
深夜といっていい時間帯に、麦茶でも飲もうかと健太は自分の部屋がある二階から、キッチンのある一階に音を立てないように降りてきた。
……そして、妙な音が聞こえた気がした。
どうやら、今から向かおうとしているキッチンの方からの物音だった。
泥棒か?
そんなことを思いながらも、健太は警戒しつつ、そろりそろーりとキッチンへ近づいた。
キッチンの手前、ダイニングのある部屋のドアをこっそり開ける。
そうすると、やはりカウンターの向こうのキッチンスペースに人の気配を感じる。実際物音もそこから聞こえてくるようだ。
健太はおそるおそる、キッチンの方へと近づいてゆく。
ナニカ、いる。
ガサガサ
……ガサガサ
袋の擦れる音。そして何かの咀嚼音。
そこにいたのは、莉乃だった。
莉乃は、開けっ放しにした冷蔵の前に座り込んでいる。姉の周りには冷蔵庫の中にあったと思わしきもの、夕食の残り物や、生野菜、いや野菜だけでなくよく見ると、生肉なども散らばっている。
吐き出したと思わしき嘔吐物の中に……。
散乱する調味料が、吐しゃ物の臭いと混ざりあって、異臭を放っていた。
ぐちゃぐちゃになった食品、吐き出されたと思えるその残骸、莉乃はそのなかで、いつものように健太に話しかけてきた。
「あれ?健太。まだ勉強してたの?頑張ってるねぇ」
そこにいたのは普段の姉だった。
優しい姉。笑顔を浮かべたままの姉。
莉乃は、声も出せない健太に更に言葉をつづける。
「でも、あんまり無理しちゃあだめよ?体を壊したら元も子もないんだから」
やっと健太は状況を飲み込んだ。
「って、違うだろ。姉ちゃん。どうしたんだよ。いやいや、ちがうだろ」
まだ、何かを食べようとする莉乃の手を必死に抑えながら、健太は叫ぶようにいった。
「ん?あー、大丈夫。ちょっとお腹が減っただけ」
姉は、いつもの優しい表情で健太に告げる。
「だから母さんたちには、内緒。ね?」
いつもと同じ、何気ない返事。だからこそ異常だった。
「大丈夫。大丈夫」
姉が壊れた。
健太は、その状況に耐えきれず、両親を大声で呼んだ。
「父さん!母さん!、姉ちゃんがなんか、変。変だよ!」
夜中の静まったところに、鳴り響いた健太の叫び声に、両親も慌てて起きてくる。
「おい、どうした」
「なに……これ?莉乃!何やってんの!」
約束を破った健太を、莉乃は悲しそうにみつめるだけだった。
結局、莉乃が直後にまた吐いたことから救急車を呼ぶことになった。
そしてそのまま、地元の救急病院に運ばれ、胃の中の洗浄や検査などで数日入院することになった。莉乃は生肉なども口にしていたことから食中毒を起こしており、また過度のストレスで胃が非常に荒れていたとのことだった。
病院に入っても莉乃は普段と変わることなく、穏やかなまま両親や健太に謝り続けた。
「ごめんね。心配かけちゃったね」
そこにあったのはいつもの笑顔だった。
ここにきてようやっと両親も、莉乃の異常を認識した。
両親は、退院してきた姉を面倒をちゃんと見るようになった。
いままでの放任主義はなんだったのかというぐらいには、莉乃や健太のことを気に賭けるようになった。
家族の会話も増えた。
どんなことでも話し合うようになった。
健太としては多少煩わしいなと思うところもあったけれども、以前の関係よりずっとよいなと思うようになった。
莉乃も、
「自分でもおかしいと思ってたんだけど。。ごめんね。心配かけて」
いつものやさしい表情で謝っていた。
それから1年。
何事もなく、日々は過ぎていった。
健太は高校1年になり、地元公立高校は予定通り滑って、滑り止めに受けた私立高校に潜り込んだ。姉も、目標としていた大学の推薦入試を受け、既に進路は決まっていた。
その間へんな問題も起こらず、姉の体型も昔の体格に戻りつつあった。
途中、昔の体つきに戻りつつあった姉に、新井が近づいてくる事件もあったが、その時は健太がなんとか未然に防いだ。
莉乃は、自殺した。
平凡な日常が続いていたはずだった。莉乃の受験も推薦で決まり、受験前のギスギスも特になく、父は以前より早く家に帰ってくるようになり、母も夜勤のある現場から日勤だけの現場への異動して、家の中に家族四人がそろうことが多くなっていた。
二学期も無事に終わり、冬休みになった。
あの件から両親も少しだけ姉弟に向き合うようになったと思う。
ありふれた、穏やかな日々だったと思う。
「姉ちゃん、昨日だしておいたユニフォームは?」
健太は高校ではバスケを始めていた。
莉乃とは違う高校だし、新井も卒業している。
新井は県内の大学に通っているというが、同じ公立校の学区内とはいえ、きんじょというわけではないので、あうことはなかった。
それでもなんか、サッカー部は避けたい気分になり、身長が伸びたことを理由にバスケを始めていた。
毎日のように練習もあり、相当量の洗濯物を量産していた。
「洗って畳んであるわ。ベッドの上に置いておいたから」
普通の会話だった。
莉乃も今は部活はしておらず、たまに出かけることはあっても家にいることが多くなっていた。
この時点で、出かけてから五時間近くになるのだという。
昨日は普通だった。
今汗まみれにして持って帰ってきたこのユニフォームだって、莉乃が洗ってくれたものだった。
昨夜は家族四人で夕食も食べた。
姉が、将来福祉関係の仕事をしたいような話をしていたのも覚えている。
新井の指示で入れられた卑猥なタトゥーの除去手術も、この冬休みに予定していた。
父が帰ってくる時間になっても、姉は戻ってこなかった。
流石に不信に思った両親は、知りうる限りの姉の友人関係に連絡を取ることにした。
健太も、友人たちに確認しながら、実際近所を探し回ることにした。
結局、日付も変わるころに父は警察に届けた。
そのせいで、起こりうる不利益を考えるような両親ではなくなっていた。
家族の絆は、埋められているはずだった。
莉乃はあのトラブルを経て、より優しくなった。
人当たりもよくなり、以前より友人も増えていた。
明るくなったし、なにより綺麗になった。
告白も何度かされるようになったという。
そんな自慢の姉になっていた莉乃が発見されたのは、家から少し歩いたところにある神社の境内で、木にロープをくくり、首を吊って死んでいるところだった。
足台には、神社の用具置き場から持ち出された脚立が用いられたようだった。
綺麗だったはずの姉は、見る影もなく、無残に舌がはみ出したまま、顔は死後硬直でシワシワに固まり、誰だか分らなかった。
体も、温かみの感じさせない青白さで、出来のよいマネキンでも見ているような気分になった。
吐き気がする。
遺書はあったという。ぶら下がっていた木の根元に置かれていた遺書には。『ごめんなさい』とだけ記述があった。
莉乃は、家を二度目に出てからすぐ自殺をしたようだった。
普段、無人のこの神社は訪ねるひともほとんどなく、莉乃の遺体は翌朝散歩に来た近所の老人が見つけたようだ。
莉乃の葬儀は、直ぐに行われた。
検死等も行われたようだが、事件性はなく、自殺ということで対応されたようだった。
葬式には、大塚や新井も来た。
新井は妙に青い顔をしていたが、なにをするわけでもなく、何をいうわけでもなく、頭を下げて帰って行った。
葬式が終わって数日たっても、残された健太たちは脱力感に襲われたまま、何することなく日々が過ぎていった。
ようやっと、落ち着きを取り戻し、莉乃の部屋の片づけをしようという話になったのは、三学期に入った最初の週末だった。
最初は母一人で行うとのことだったのだが、かさばる大きい荷物や本などのそこそこ重い荷物のこともあり、健太も手伝うことになった。
処分しなければならないものは、父が車を出してくれて処理場に持ってゆくことになる。
「なんだ、これ」
健太が押し入れの中身を出していると、衣類箱の隙間からノートが数冊出てきた。
それは普通の大学ノートで、莉乃が勉強などに使っていたものと同じメーカーの物だった。
特にノートの表紙には何も、名前すら書いてなかった。
健太はなんとなく、ノートをめくってしまった。
その内容に、目を見開いた。
そこには、『悪意』があった。
そこには、莉乃が新井にナニをされたのか、いまなおナニをされていたのか、詳細に書かれていた。
莉乃は新井にレイプされ、写真を撮られた挙句それを使って脅されていた。
「あのクズがまた吐き出してきた。キモチワルイ。シネ」
「ゴミが今日もワタシのなかにゴミを吐き出す、キモイ」
ノートには、助けてくれない家族への訴えから、やがて憎しみに代わってゆく行程が書かれていた。
「バカどもがまた私の話を無視する。ニタニタ呑気にワライやがって、シネ」
「意味のない話をマイニチマイニチ、シネシネ、シンジマエ」
ノートには、莉乃が食べていたものが全部書かれていた。口にしたものが詳細、全部書かれていた。
「うすらバカが高校受かったとかでハシャイデル。シンデクレナイカナ」
「なにが助けたダ。ゴミはまだそこにあるじゃない。ゴミカスしね」
「アタリマエのように雑用押し付けやがって、クソガキ、ゴミ、シネ」
ノートには、写真が挟まっていた。ひどい写真だった。
赤いペンで、まっかに真っ赤に書かれていた。
ノートには莉乃がナニかを口に詰め込まれたり、ゲスにおもちゃのように扱われた痕跡が事細かに書かれていた。
家族だけじゃない。学校の関係者、友人、知り合い、見ていただけの人、すべてに悪意を持った記述が詳細に書かれていた。
話した内容も、会話も、全て書いてある。
日付の古い数冊は、まだ理性があった。
けれど後半に近づくにつれて、だんだんオカシクなってゆく。
姉がなくなった日。律儀に日付を振ったそのページには、絵が描いてあった。
雑に書かれた少女のような絵の中で、首を吊って微笑んでいる姉がいた。
首を吊った少女の物語 ノートルダム @nostredame
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