きみが初めて聴いた音

汐凪 霖 (しおなぎ ながめ)

駆けていく、喜びの日に

 ──幸せだ。


 そう強く思ったことは、何度もある。


 小さな子どものころ。

 自分だけのための楽器を持たせてもらったとき。

 やっと綺麗な音階が吹けるようになったとき。

 ルートヴィッヒ・ヴィーデマンの練習曲エチュードを通して奏でることが楽しいと感じられたと気づいたとき。

 初めて自分ひとりだけでオーボエのためのリードを作れたとき。

 コンクール初出場にして、優勝したとき。


 子どもながらに未来を信じて闘っていたころ。

 ヴェネツィア音楽院の威厳に満ちた、ピサーニ館と呼ばれる美しい建物の入り口に立ったとき。

 かつて貴族の歩いた廊下で耳にした透明で清雅な歌声と自分の歌う声とが甘くけて馴染み、その優美な響きが永遠を知ったのだと思ったとき。


 そして、大人になって。

 サン・ゼーノ・マッジョーレ聖堂の前で、思わぬ邂逅に胸が震えたとき。

 薄暮になりかけた空の下、夏の宵の風を頬に受けながら、はじめて彼女の身体の儚げな柔らかさと確かな温かさを知った、あの瞬間。


 結架ゆいかとともに、さまざまな思い出を重ね、過酷な運命と呼ばれるような出来事を乗り越え、音楽を分かち合い、人生を寄り添わせていくことを誓って、そして、いまがある。


 苦しく辛く、悲しく悔しいことも、たくさんあった。

 走りつづけるような人生を嘆いたことも。

 怒りに我を忘れた。

 憎しみに我を失った。

 それでも、いつも救いがあった。

 音楽が。そして、情愛が。

 全身を震わせるほどの痛憤に、自分も他者も関係なく呪詛するほどの激昂に、堕ちそうになったとき。

 守りたい存在があったから。

 自分自身も、その存在があることで、守られてきた。


 そして、守りたい者が、増える。


 両親に報告に行ったのは、木枯らしが吹きはじめて数日が経った、快晴の日だった。ちょうど年末年始にかけての、出席要請が強まるパーティーがいくつか立て込む時期で、結婚後は結架に会わせろと五月蝿い知人が多いこともあり、仕方なく面倒この上ない準備や打ち合わせにも二人で顔を出していた。結架に知っておいて欲しい出席者のあれこれや、仕事上の予備知識、留意すべきこと。衣装合わせなども含めて、煩わしくて仕方ないことばかりだったが、結架は嫌な顔一つしなかった。

 もともと世界的指揮者とピアニストである両親の愛娘という立場に生まれ、師事した教師たちも皆、欧州の上流社会に属する者たちで、こうした華美な催しに慣れている。加えて彼女自身の性質なのだろう、意外と物怖じせず、自然体で振る舞うのに気品に満ちていて、危うさなど微塵もない。マルガリータに鍛えられたおかげか、あの、可憐ではあるが無防備だった未熟な対応は、もうほぼ見られない。動揺を見せても、そこに現れる隙は作為のものだ。これまで生きてきた時間に指標とされた根幹たるものを完全に失って、けれどそこに新しい支柱を見出せたのだと説明した彼女は微笑った。


 愛し、恨み、憎み、呪い、そして許した、愛欲に堕ちた守護天使。

 そのすべてを忘れずに、けれど、もう責めない。

 ──許すことは、受け容れること。それをいつか、自分でも望むようになれると信じることにするわ。

 さざ波に震えながらも穏やかだった、結架の声。

 その微笑に、いまでは心からの歓びと幸福が輝くようになった。


「あのね、集一しゅういち。私たちの唯一無二を授かったわ」


 その一言を聞いてから、しばらくの間。

 夢中になって、いろいろなことを話し合った。

 予定日。用意するもの。誰に、いつ、報告するか。

 結架はまず鞍木に電話で伝え、エアメールを三通、書き送った。

 集一のほうはジャーコモの直通アドレスに電子メールを送ると、鞍木との電話に途中から加わった。そして、結架のようにエアメールを何枚か書いて投函した。


 鞍木くらき曰く、安定期に入るまで集一の両親に報せるのは控えてもいいだろうとのことだったが、彼女は目を伏せつつも、ゆっくりと反意を告げた。

「お二人とも、私が流産して帰国したことを、とても悲しまれて。でも、本当に思いやってくださって、嬉しかったの。私には、もう日本で頼れる両親といえば、集一を介して、お義父とうさまとお義母かあさましかいないわ。この子を守ってくださる手を、ひとりでも多く望んでしまうの。だめかしら」

 集一は勿論、鞍木に否があるはずもない。ということで、体調次第ではパーティーに参加できない可能性も高いし、中座することも想定していなければならないし、不安要素がないわけではないが、結局、打ち合わせ兼夕食会で集まった席で報告しようということになった。


 もともと必要な情報交換や打ち合わせを終え、お抱えシェフの久しぶりの和食を堪能し、食後の和菓子と煎茶が出されたところで、若い夫婦は同時に気合を入れた。姿勢を正し、向かいに座る当主夫妻に生き生きと緊張した目を向ける。

 手にした茶碗から上がる湯気から漂う、いつもより淡い茶の香りを嗅いでいた当主夫人が、ふんわりと微笑みを浮かべて息子夫婦を見た。

「あの、お母さん。実は僕たちから報告があるのですが」

 思いきり父を除外するかのような集一の言葉だったが、誰も咎めない。

 それどころか。


「ええ、そうね。おめでとう、結架さん、集一さん。それで、出産予定日を教えてくださる?」

「お母さん⁉︎」

「ご存知でいらしたのですか」

「おまえ、いつから気づいてた?」

 最後の夫からの問いかけに、彼女は片眉を上げたが、機嫌を損なうまでではなかったらしく、笑顔を保ったまま澄ました声で律儀に答えてくれたものだ。


「結架さんがパンツスタイルで出歩くなんて、はじめてでしょう。パーティーでの衣装への要望が集一さんからのものが多かったことも、そもそも試着の部屋にはこれまで立ち入らなかったのに、今回は夫だからと居座りましたね。結架さんが恥じらって困惑しているはずなのに、時々目に毒なほど幸せそうな笑顔になるって、お針子の真規子まきこさんと装飾小物職人の留美るみさんが見惚れて仕事を忘れてしまうのだと、デザイナーでオーナーの弥生やよいさんが楽しげに言ってましたわ。

 体を冷やさないデザインにしろとか、胴回りにクッション材をつけろとか、これで気づかない女性がいるはずありませんよ」

 つまりは、この家で、ばればれの態度と言行であったと。

 若夫婦が赤面して俯いたが、すぐに話に戻るべく顔を上げた。そして、停止する。


 誠一せいいちが、鼻より上にハンカチをあてて上を向いていた。

「お父さん……まさか……泣いてます?」

 呆れ声で疑い深い響きの質問に、彼はびくりと肩を揺らした。

「馬鹿を言うんじゃない。……茶を、口から鼻に吸ってしまっただけだ」

「まあ、大丈夫ですか。痛そうですわ」

「いやいや、痛みは殆どないから。すまないね、結架さん。見苦しい姿を見せてしまって」

「そんなこと。お義父さまが落ちつかれるまで、お話は後にいたしましょう」

 すると誠一がパッとハンカチをとって、真正面から結架を見た。息子と似た眼には、まだ涙が浮かんでいる。

「いや、大丈夫だよ、結架さん。大事な話だ。聞かせなさい」

 妻の弦子ふさこと息子の集一は呆れ顔を隠すこともなく、白っぽい目を向けたが、初孫の感動にうち震えている彼が結架の前でカッコつける様子は今までで一番好感度の良いものだったので、ツッコむのは止めた。


 それから、結架のスケジュールは録音の仕事以外は中止か延期にすること。集一も出来るだけ仕事の内容を抑制して、結架の生活を最優先させることなどを話す。

「あら、でも、相馬さん一家がいてくれるでしょう」

 弦子の尤もな質問は、既に集一もしてしまっていた。

「彼らと働いてくれている娘さんは、ひとりにはできない障碍を抱えているのです。ほぼ毎日の決まった行動から外れるのは彼女にとって大きな負担で、苦しませてしまいます。少なくとも、両親のうち、どちらかは、彼女から目を離せません。私も以前はご一緒することがありましたが……」

 言い淀んだ結架の言葉を集一が引き継ぐ。

「いつ、どんな変化があるか分からないという妊娠中の女性と、無理に深く関わるのをお願いするのは避けたほうがいい」

 ただ、昔から、相馬一家の働きぶりには多く助けられていると聞く。

「そうなのね。それなら、里帰り出産だと思って、こちらに滞在することも考えてみてくれる? ああ、もしそうするなら、集一さんも一緒でないと許さないわよ」

 朗らかな提案に三人とも絶句したが、すぐに結架が目を輝かせた。

「お世話になってもいいのですか?」

「あなたたちのお世話をしたくてたまらない人間が、ここには大勢いるのよ。私も含めてね」

 母が楽しげに笑うと、結架は嬉しそうに感謝の言葉を両親に向けて伝えた。父がそこで近所の産科のある病院のリストを出してきて引いたのは結架には打ち明けていない。母も呆れ顔だったので知らなかったのだろう。

 初産に不安があるのは男性側も同じなので、周囲が手厚いのはありがたい。結架に精神的負担を強いるような同居になるなら避けるべきだが、寧ろ彼女は集一の実家に移る日を楽しみにしていた。


 準備万端で予定日が近づくのを待っていた日。

 同門で、世話になったことも多い先輩奏者からの紹介で、演奏会に代役で出演することになった。突然で都合の合う奏者が見つからず、また実力的にも知名度でも相応しい人間が他におらず、仕方がなかった。

「まだ気配がないから大丈夫よ」

 言われて演奏会場に向かったが、楽器を手にしていないと気が気じゃなく、集中できなかった。演奏自体は賞賛されたものの、とても満足はできない。先輩に謝っていると、報せが来た。


 顔色を変えて会場を飛び出して、気がつくと、燕尾服のまま電車に乗っていた。手にはオーボエを持ったまま。

 我に返ったが、それどころじゃない。ただ、とりあえず、リードは外してポケットのケースに収めた。

 駅に着くと、また走り出す。


 分娩室で演奏したら怒られるな。

 笑いながら集一は走った。

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きみが初めて聴いた音 汐凪 霖 (しおなぎ ながめ) @Akiko-Albinoni

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