活動記録その三「守りたかったもの」(2/2)

「うーん……」


 先ほどから振動しているスマートフォンにも目をくれず、学習机に小さく折り畳まれた紙を広げる。遠目に見てみる。


「うーん?」

首をひねる。ここまで一連の動作だ。

「これは地図、じゃないのかなぁ」


 私の小さな独り言だけが部屋に響いた。

ただの薄い鉛筆で引かれた線の集まりのはずが、それが地図のように見えるというのは一番上に描かれた黒い丸に難解な漢字と「三上」という土地の名のせいだった。白く光る机のライトだけが静かな夜を照らす。私は両親が起きないように最小限の灯りだけで、今日部室から持ち出したものが気になったので広げていた。さすがに素手で直接触れる気にもならなかったのでピンセットで紙をつまむ。付着したこの汚れも気味が悪い。ちなみに、においは怖くてかいでいない。その赤いシミを必死にコーヒーのシミだと自分に言い聞かせている。そもそも時間が経ってそうだからにおいは消えていると思うが、何か危険物だったらと臆病になっていた。


「あーあ、わかんない」

 呟きながら多めのため息をつく。なんでこんなものが部室にあったのだろう。そもそも勢いで持って帰ってきてしまったのを後悔するばかりだ。

外から静かな雨音が聞こえてきたのと同時に、私はあの日のことを思い出した。

あれは雨の日、いつも何を考えているかわからない部長のことが、もっとも理解できなかったあの日。連れていかれた三上の北にある山の尖った石碑の文字は読めなかった。

「三上ノ山ノ人……」

ん? これ、山にあった石碑と同じ文字じゃ……。そこまで読んで、私の視界は一気に傾いた。

ドサドサッ!

――うわっ!

 思わず私は椅子から飛び降りた。それも、出来るだけ音を立てずに。どうやら椅子を傾けすぎたようだ。膝の傷をかばうようにして椅子を直していると、思いがけぬノックのあと部屋のドアが開いた。

「悠、こんな時間に何してるの」

「母さん、起こした? ごめん」

私はあわてて散らばった紙をかき集め、両手で隠した。

「ちょっと勉強してただけだから大丈夫。ほら、明日提出の課題終わらなくてさ」

「本当に? その手に持っていたのは何?」

「何、何のこと?」

「それよ」

 母さんが指をさした場所には、手で隠したはずの紙がわずかにはみ出ていた。汚いそれは、母さんにとって異様なものに見えているはずだった。

私は必死に課題のプリントだの、それを汚しただの訴えたがやがて回り込まれて取られてしまった。取り返そうとぴょんぴょん跳ねる私を横目に母さんはものすごく真剣に紙に目を通している。

無理矢理引っぱると紙なので、もちろん破けてしまう。私はただあきらめ、疲れから椅子の下に敷いてあるカーペットに座り込んだ。

「ちがうの、それは」

「この字は、ユキメ……」

 突然、母さんの動きが止まった。

「知ってるの?」

 四季島会長の話では二十年以上前とのことだった。今、母さんは四十二歳。ということは知っているのは不自然ではないという事実に気がついたのだった。

「あなたこそ、どうしてこれを持ってるの? どこにあったの?」

「えっと、部室、だけど」

 私がそう言った瞬間、母さんの手から紙が滑り落ちていった。

 明らかに変だ。母さんがここまで食いつくなんて。非常に迷ったが、話を訊いてみることを決めた。

「母さん、知ってるなら詳しく聞きたい」

その時、床に置かれた紙を拾い上げる手が震えているのを見た。そして私のほうをじっと見つめた。

「悠、よく聞いて。ユキメはね、私の大親友だった子の名前よ」

 それから母さんが語った話は悲劇と言い表すにはあまりに残酷なものだった。

人の心ににじんだまま永遠に消えない悔い。それがどれだけ苦しいものか思い知らされた。


***


 放課後、鏡夜は部室にあるだけのダンボールをひっくり返していた。そのたびに舞うホコリは彼の髪に付着してはすぐに滑り落ちていく。

「猫屋君。雨月君と連絡は取れたか」

彼はツンと高い鼻先についたホコリをはらいながら言った。

「ううん、応答なしにゃん。今日も来てないし。というか師匠、具合悪いんじゃなかったの。そこまでして、そんなに大事な探し物?」

振り返る先にはソファを鳴らす後輩にして同居人が雑誌を広げている。

「いや、どうしても確かめたいことがあってな。どうも怪しいんだ」

「ラスクなら、もう箱からバラしてそこの箱にまとめておいたけど」

彼はらすく? とまるで聞いたような顔をしたので蜜弥子はため息をついた。

「ほらランランたちが前に持ってきた、パン焼いたお菓子だよ。でも今はラスクなんて食べないでほしいにゃん。ゲロゲーになっちゃうよ」

「ああ、それもそうだな……しかし何だそのゲロゲーという表現は」

 鏡夜は眉をひそめて床に転がったダンボールの中をのぞきこんだ。まさか「これ」に手を出したとは思わないが、一応確認してみる。以前ひっくり返されたときには冷や汗ものだった。頬をふくらませている蜜弥子に気がつかれないようにさりげなく隙間から見てみると、どうしようもない違和感を覚えた。

ここに隠しておいた紙がない。ユキメの言ったとおりだ。

「まさか、雨月君があれを……」

「どうしたの師匠?」

「いや、なんでもない」

 その問いに、彼女は口元を雑誌で隠した。鏡夜がフラフラとソファに戻ると、こもった声が聞こえた。

「何でもないフリしてさ、らしくないよ」

鏡夜の指が茶を飲もうとして手に取った湯呑みにかかったまま、ピタリと止まる。

「そんな体なのに悠ちゃんやランランに元気だって嘘ついたんでしょ。あたし知ってるんだからね」

「お前、どうして」

「なんでもっとあたしたちを頼ってくれないの? やっぱりあのユキメって人と一緒のほうがよかったんだ!」

 声を張り上げる彼女の瞳は涙ぐんでいた。

「そんなことはない、俺は!」

「そんなことあるよ!」

立ち上がった蜜弥子の声に、鏡夜は似合わず飛び上がる。よろめく彼のことなどどうでもいいと言うように、じりじりと顔を近づけてきた。

「あたしも悠ちゃんもこんなに心配してるのにどうでもいいんだね! 師匠の嘘つき!」

「おい、猫屋君、いい加減にしろ」

「もういいもん! 師匠のバーカ!」

「待て!」

 蜜弥子は思いきり舌を出してそう言いきってから部室の外に出ていった。一人取り残された鏡夜は何にも届かなかった手を伸ばしたままその場に残っただけだった。よろめきながら再びソファに腰かけて、頭を抱える。


 もっとあたしたちを頼って。


その言葉を受け、鏡夜は自身に蜜弥子にも悠にもきちんと頼っていたはずだと言い聞かせた。一体何が彼女を怒らせたのかわからない。あんな顔、見たことがなかった。

「あいつは、雨月君はどこにいる」

そこで悠が持ち去った地図の内容を思い出し、鏡夜は部室を飛びだした。



 ――ねぇ、知ってる? 聞いちゃったんだけどさ、「イケニエさん」のもう一つの遊び方があるんだって。それがね……。

 少女は交換日記に書かれたその一文に救われた気がした。

死ぬのは痛いから嫌だった。このまま耐えればあいつらはいずれ飽きるだろう、とか思っていた時期もあったが、とうとう自分の弱い心では耐えられなかった。そんな少女は痛みなしに楽になる方法を何度も調べたが、これはその中でもいちばん楽そうかもしれない。だって、鉛筆と自分の血。それさえあればもう何も考えなくてすむのだから。

 でもこんな方法、怪しいと思わないわけがない。学校で流行っているあの遊びも、本当は手の筋肉がどうとかいう説もあるし、教室棟三階で花子さんに会ったとかいう話も信じられない。

やっぱり学園祭の準備のときにアヤちゃんに相談してみようかな。少女は部員のひとりに当たり障りのない返事を記し、ノートを閉じた。



 私はというと、応間学園のはるか北にいた。

一度行ったとはいえ、きちんと道を覚えているだろうか。陽の光が見えないほどに生い茂る緑の中、立入禁止の看板を横目に掻き分けながら進む。じっとりとした土のにおいに不快感を抱きながら登っていくと、見覚えのあるトンネルのようになっている場所にたどり着いた。またここに、しかも自分一人で来るなんて思いもしなかったが、道は思ったより覚えていたものだった。


――よし。


 私は軽く拳を握りしめた。葉でできた壁に手をついて雨に濡れたまま乾ききっていないトンネルの中を進むのには苦労したけれど、たいしたことない。

それでも早く真相を確かめたかった。私をここまで突き動かしていたものはいまいち分からないけれど。

明るい光が見えた。

そこには私の記憶から何も変わらない石碑があった。

「ここで間違いないはず」

地図はやはりこの山を示していた。そして「三上ノ山ノ人身御供」紙に書かれたのと同じ文字。母さんの話が本当なら、乾ユキメはここに来たことがある。

そして悲しいことに、ここで……。

「ん?」

いきなり、足に何かが当たった。

最初は生えている葉が当たったのかと思ったが、振り返ってみるとやはり葉があるけれど、葉っぱの傘が足元でうごめいていた。

『よう!』

「ひゃあ!」

 苔むした地面の上に緑の丸いものが転がっている。どうやら私に声をかけてきた本人らしい。そういえばお母さんと一緒に、この山の川に住んでいるんだっけ。

丸いもの――河童君は葉の影から黒い目で私をじっと見つめていた。

「河童くんだ、ひさしぶり」

『悠ねーちゃん、こんなとこで何してんだ?』

 私は少ししゃがんで彼に目線を合わせた。

「うーんとね、ちょっと調べたいことがあって」

 彼はふーん、とだけ言って葉っぱの傘をまわした。よく見ると葉っぱに水滴がついていて、輝きながら飛び散った。川から離れた場所に来るために葉っぱに水をつけて持ち歩いているようだ。河童は水の周りに住んでいるからだ。でも、それならひとつ気になることがある。

「河童くんこそ、ここで何してるの?」

『モチのロン! オイラは今日も綺麗なねーちゃん探しだ!』

それは絶対に違うと思いますけど。あとあたしの胸をまじまじと見ないでください。

『……というのはウソで母ちゃんのおつかいだよ。母ちゃん、まだ調子悪いからさ』

「えらいね。今度は迷子にならないでね」

 私がそう言うと彼はもう平気だぜ! と満面の笑みを浮かべた。ここに河童くんがいたのは少し驚いたが、誰かに出会えたということが心強い。ちょっとだけ私の気分が軽くなった。心に余裕ができたところで、私は上を見上げる。そしてもう一度、石碑に彫られた文字を見つめた。

『なぁ、オマエほんとにあんなのに用があったのか?』

 河童くんがたずねてきた。

「あのね、少しいろいろあってこの山の調べものをしてるんだ。河童くんはここについて詳しく知らない?」

 すると彼は急にうつむいて黙ってしまった。さっきまでいつもの明るい表情をしていたのに、何も言葉にしなくなったのを見て心配になる。

『じつはここ、子どもの妖怪だけで近づいちゃいけないって言われてるんだ』

「そうなの?」

『母ちゃんも他のみんなも、ここは人間の血の匂いがする、って言うから。怖いよな』


 血の匂い。妖怪の中でも中堅の河童たちがそう言っているのなら、間違いなく怪しい。でもそんな危険な場所になぜ河童くんはここにいるのだろうか。

「河童くん、じゃあここにいるのって」

彼は再び黙った。もしかして……。

『ううう、わかるだろ! また迷っちまったんだよ!』

やっぱり! 方向オンチなのは治ってなかったんだ!

もう、迷子にならないでって言ったそばからしょうがないな。私は今にも泣きそうな顔の河童くんに両手を差し伸べると、私のほうに飛び込んできた。

「私でいいなら、一緒に川に帰ろうよ」

『本当か! やった!』

「うん、でもちょっと調べものが終わるまで待っててね」

 河童くんはそんなのいくらでも待つぜ! と私の腕の中で葉っぱの傘を揺らした。

しかし、だ。河童たちの中でささやかれているという嫌な噂も気になる。

「あれ、なんて読むんだろう」

『ここは怖くて近寄らなかったからわからないな』

それもそうだ。でも私が帰って辞書でも引いてみたらわかるはずだ。


「ひとみごくう、だ」


――え。

二人だけのはずの空間に知らぬ声が響いたと思えば、背後からいきなり強く手を掴まれた。

「登山日和というわけではないような気がするのだが。そうは思わないかね、雨月君」

 一気に背筋が凍る。

 その声の正体に気がついたとき、私はどうしても振り返りたくなかった。確認せずとも伝わってくる、ただならぬ気配に目をそむける。私はただ沈黙をつらぬこうとする。

『あ。あれ、あの時のにいちゃんだ。どうしたんだ?』

すると河童くんは途中で何かを察したのか、そこまで言って木の陰に身を潜めた。

「ぶ、部長。き、き、奇遇ですね」

「やっと見つけたぞ雑用。まさか本当にこんな場所で油を売っていたとは驚いた」

「どうして――ひゃあ!」

 次は視界に手が飛び込んできたかと思えば、腕をつかまれたままそこの木の幹に押しやられた。彼の顔が私の鼻先まで迫りくる。彼は不思議な表情をしていた。怒の表情の中に混ざった悲愴が青い光となり私に落とされる。

「部長、なんでここにいるんですか」

「お前、部室からあれを持ち出したんだろう。何をするつもりだ!」

私の目は無意識にポケットをとらえていた。

「俺の集めた証拠品で何をしようとした、言え!」

痛い。爪が食い込むまで私の手首をきつく掴まれていた。ああ、あれは、彼が集めたという事件の証拠品だったんだ。

「いたた、お願いします、離してください」

「あれはこの学園で起きた事件の重要な手がかりだ。あんな危険な遊びに使われたものを悪用していいわけなかろう!」

「わ、私はただ!」

「では、その手に持っているものは何だ」

あ……。

 私の手からは勢いよく紙が抜き取られた。部長は何かを誤解しているらしい。

ただ、部長のお力になりたかったんです。そう言うことさえできればよかったのに、なぜかとても怖くて言えなかった。私の悪い癖だ。迷惑だとか言われるのが怖くて、様子をうかがってしまう臆病さ。

「そうか、お前はそういう奴だったんだな」

 吐き捨てる部長に対して、私は何も言えなかった。

「お前には失望した」

 空が厚い雲に覆われて、顔に冷たいものが当たる。降りていく部長の背中を追いかけることなく、ただその場に崩れ落ちた。手首残る赤い痕を片方の手で押さえる。

――そういえば、今日も降るって言ってたっけ。

雨が冷たい。もちろん傘なんて持ってないし、差し伸べてくれる人だっていない。

『悠ねーちゃん……』

震える腕をさすると、河童くんが陰で悲しそうな目で見つめているのに気がついた。



 今日も雨音が遠くで聞こえる。目を閉じ、見開けばあの青い眼差しを思い出す。今日食べた夕飯のことを考えたりプレイリストのわりと明るめな曲を聴いたりして気を紛らわそうとしてみたが、何をしても部長のあの冷えきった視線ばかりがちらつく。

「私は違うのに……」

 私は結局のところ、何も変わっていなかったのだろうか。臆病で、自信がなくて、人に否定されるのが怖くて本当のことが言えなかった。それが鏡夜部長だとしても。両頬をつねった。痛い。たった一言だけなのに言えなかった口がただ憎くて涙がこぼれた。それが痛みのせいなのかもしれないけれど。

接続が悪くなったイヤホンをしたまま、ベッドから机を見た。冴えない灯りに照らされた眼鏡が白く光っている。

重い体を起こして私は眼鏡を手に取った。

――これも、もういらないかな。

「あっ」

丁寧に手に取ったつもりだったが、気を抜いていたのか滑らせて床に落としてしまった。

あわてて拾うと眼鏡の右レンズの端が欠けてしまっていた。

これを直してくれる人も、もういないんだ。

 私の心までが砕けて割れてしまった心地だった。


***


 俺は、生まれてから一度も空というものを見たことがなかった。

その瞳の色と同じで美しいものなのよ、と彼女が教えてくれるまでは、どういうものなのかだって知らなかった。彼女がこっそりと用意してくれた抜け道を通り抜け見た空は、本当に美しいものだった。彼女は白い髪を揺らして笑い、水たまりに手をかざし、水をすくい取る。

――こうすると、空をすくい取ったみたいで綺麗ね。まだ、私たちは生きていたんだわ。

 しかし、それは永遠には続かない。

彼女はその日、首を落とされた。

逃げ出そうとしたのが見つかって村の奴らに捕まったのだ。

――叶わない夢でしょうけど、もし次出会うことがあったなら。

憎い、憎い、憎い。壊れそうなほどに人間が憎い。

 その言葉を最後まで思い出すこともなく、視界が赤く塗りつぶされたその瞬間。己の中の憎悪が一気に溢れだした。


***


 行くつもりはなかったが、私の足は無意識のうちに部室に向かっていた。部長がいたらすぐにでも教室に戻ろうと思ったが幸い、いないみたいだ。昼休みだからかもしれない。

入るとすぐにソファに座る蜜弥子先輩の姿があった。

誰もこないと思っていたのだろう。先輩は非常に驚いたようで「うにゃあ!」と鳴き声のような叫び声をあげた。

「ゆ、悠ちゃん、やっほー」

「やっほー、です」

 私はぎこちない挨拶をすますと先輩の隣に座った。

「はぁ……」

「はぁー」

 蜜弥子先輩とため息が重なる。思わず隣を見ると先輩もこちらを見ながらまつ毛をパチパチとはためかせていた。

「どうしたんですか、先輩」

「悠ちゃんこそ」

「私は、別に……」

「あたしも別にー。別に師匠とケンカして一日口きいてなくて気まずいとか、とか思ってないしー」

「え、先輩も鏡夜部長とケンカしたんですか?」

 先輩が飛び上がった。本当に猫みたいな人だ。いや猫なんだけど。

「『も』? ってことは悠ちゃんも?」

「私はケンカしたというか、なんというか……」

「あっ。もしかして昨日の話?」

「えっ」

「師匠、悠ちゃんが証拠品盗んだって疑ってたんだよ。まったく悠ちゃんがそんことする訳ないのにさ、師匠はやっぱりおバカだよねー!」

 先輩はどんなことがあっても絶対に部長のひどい悪口なんて言わないはずなのに、頬杖をついた彼女はやけに機嫌を悪くしていた。

「何考えてるかわからないもんあいつ。ほんとムカつくっ! だから今日のお弁当に師匠の嫌いなピーマンばっかり入れてやったもんね! きっと今ごろフタ開けて悲鳴あげてるよ、ざまぁみろにゃん!」

 そう言って律儀に教室棟のある方角を向いてあっかんべーをした。私も本当はそうやって言ってもおかしくはないのだが、どうも心の底からそうは思えなかったのだ。というかピーマン嫌いなんだ、意外。

「あっそうだ。悠ちゃんお昼まだ? お昼一緒に食べよう?」

 こんなモヤモヤしているのにここでご飯を食べるわけにもいかないか、と私たちは食堂に移動した。



「うん、たまにはこういうのもいいね!」

 先輩の言葉に、私は甘くない卵焼きを箸でつかんだままそうですね、と頷いた。

先輩はというと買ってきたたこ焼きパンに舌鼓を打っている。昼休みが始まってしばらく経っていたので完売間近だったが、無事購入できた喜びからかとても嬉しそうだ。

 なんだろう。気分転換をしに来たはずなのに、気持ちが晴れない。母さんが作ってくれたお弁当も相変わらずおいしいし、蜜弥子先輩と一緒にいるのは楽しいことに間違いはない。でもなんだか落ち着いて座っていられなかった。微妙な気持ちだ。

「あの、先輩。先輩は部長と何があったんですか」

彼女はパンを喉に詰まらせそうになりながらも話した。

「うー。あのね、師匠は実はまだ体調が万全じゃなくて、それを黙ってたのが許せなかったの」

「え、そうだったんですね」

 驚いた。部長はまだあのダメージが残っていたんだ。寝たら治ったと言っていたはずなのにどうしてそんな嘘をついたんだろう。

「一緒に住んでるあたしにまで内緒にしてたなんて、そんなのあたしがいる意味ないじゃん」

 私はあの時に見た記憶を思い出し、先輩の気持ちを察した。信用されていないかもしれない、とかそういう事を思っても無理はない。怒っているみたいだったが、その裏でとても落ち込んでいるようだった。

「悠ちゃんは?」

「……私は、ユキメの挑戦を受けた部長の力になりたくて色々調べていたんです。なのに、疑われちゃいまして」

「それであのメモと地図を持ち出したんだ! それならちゃんと誤解を解かないとだめだよ」

「それが言おうとしたんですが、言えなかったんです」

「そうかぁ、難しいね。……悠ちゃん、前に鏡の中に行こうとしたとき、たくましくなったなぁって思ったのにな」

「えっ」

 私は心当たりがなかったので別にどこも変わってないですってば、と言うと、彼女は首を振った。

「ううん、会ったときはあたしたちのこと鬱陶しがってたし、夜の学校も怖がってたでしょ? でも今はすごいしっかりしたというか」

 ハッとした。今までの私なら絶対に怖がって、部長に対してこんなに必死にならない。わからないけれど、それが先輩の言う、変わったということなのだろうか。いつも勝手で、変で、何考えてるかわからなくて一度何か興味を持つと誰にも止められないあの人は、正直いつも嫌だった。でも、今は違う。行動しなければ大変なことになってしまうような気がする。根拠のない雑用のカンだ。

「そうですかね。私は部長を助けたくて……」

「……あ、やばっ」

 先輩が耳打ちしてきたので何事かと思い顔をあげれば、料理の渡し口に部長が並んでいた。袖を通さずにブレザーを肩にかけてスカしているあの姿は、やはり彼だ。

 四季島会長とも一緒ではない。

「あっ、ピーマンだらけのお弁当で何も食べられなかったからここ来たのかも。うわぁ、おとなしく部室にいるべきだったにゃん……」

ピーマン弁当はもう作るのやめる! という彼女の声が聞こえていたのか、一瞬こっちを見たような気がするのだが気のせいだった。向こうは無表情で目をそらした。その時、胸が一気に苦しくなった。と同時に、先ほどから渦巻く違和感の正体に気がついたかもしれない。

「こんなのだめ、ですよね」

「うん……」

 いつもなら、私たちに気づけば雨月君に猫屋君じゃないか! とでも叫んでこちらに飛びついてくるのに。とたんにそんな彼に会いたくなった。それなら、きちんと言わなくてはならない。

謝って、説明しよう。



 その時、予期せぬ連絡が来たのは、私が図書室に来ていたときだった。

部長の読み方が正しいのなら、あの文字はひとみごくう、と読むらしい。薄暗くなった窓際に座り調べを進めていくと、同時にあの石碑が何のためにあるのかが出てきた。表紙に『三上地域史』と記された厚い本をめくる。古さからか本の表紙が痛んでいるので、なるべく慎重に扱うことにした。それによると、

『この町では百年ほど前まで、人間を神への生贄として捧げる文化があった』

だそうだ。なんでもあの石碑のある三上山には強い山岳信仰の傾向があり、ミカミ様と呼ばれた神様がいたらしい。たちまち天災が起これば神が怒ったとされ生贄が捧げられた。

 捧げられたのは主に動物、子ども、女性たち。そして

さらに彼らは山に集められて首を落とされた、と知りたくなかったことまで記されていた。私は、そこまで読んでハッとした。部長の言っていたことを思い出したのだ。

かつて彼はユキメの中にいるあの少女とともにある場所に閉じ込められていたこと、そして「ここは終わりにして始まりの場所」というあの意味深な言葉、そして首まわりの傷。生贄が当たり前とされていた時代、二人の見た目は間違いなく異質だったはずだ。

あの石碑には神の名のもとに殺戮を行った事実を謝罪する、または記録の目的があるらしい。そのはずだが、事実、殺された魂たちが鎮まることはなかったのだ。

――こんな恐ろしい歴史があったなんて。

私は震える手で本を閉じた。石碑や生贄を閉じ込めていた場所の写真も掲載されていたが、具合が悪くなってしまいそうだった。この学園での事件もそうだが、人を見た目で判断して死に追いやるなんて、昔も今も残酷なことだ。

部長が石碑で手を合わせていた理由もイケニエさんの話に怒っていた理由も、今となって納得がいった。

 本から目をそらして落ち着こうとしていたとき、とたんに机の上にほうっておいたスマートフォンが振動しはじめた。

電話だ。私は着信音が切れてしまう前にあわてて廊下に出た。

「もしもし、蜜弥子先輩ですか」

末尾が二だらけの番号から、間髪いれずに彼女の声が聞こえた。

「師匠が、師匠が……!」

声に混じった涙をすする音。嫌な予感、というやつがした。

「先輩、落ち着いてください。部長がどうかしたんですか」

「あたしがおつかいでスーパーから帰ってきたらね、師匠がいなくなってたの……」

 部長が、消えた。そんな。せっかく謝ろうとしていたのにこんな事あっていいはずがない。私の嫌な予感はだんだんと強くなるばかりだ。

「そんな、どこに行ったかわかりますか?」

「あのね、手紙がおいてあったんだ、えっと」

――あいつのところへ行く。お前は一人でやっていけ。

手紙にはたったそれだけ書かれていたそうだ。

「あいつってまさか……」

「ユキメ、だと思う。どうしよう悠ちゃん、あたしがひどいこと言っちゃったからだ!」

 ついに先輩は向こう側でわんわん泣き出してしまった。二人の背景を見てしまった今だからこそ、その声にこちらまで苦しくなってしまった。

私は涙をもらいそうなのをこらえ、ちょうど隣にあった鏡の前に立った。

「私、いま調べものをしていてまだ学校にいるんです。いま鏡の前にいますけど」

「う、師匠はいない?」

「まさかもう、中にいるんじゃないですか」

 もう私に残された選択はひとつ。蜜弥子先輩が来るには時間がかかるだろう。ならば自分ひとりでこの中へ進むしかない。

 私は図書室に一度戻り、壊れかけた眼鏡とあるものを取ってから鏡に向かった。少し早いけど、事件についてはおおよそ握っている。バラバラのピースを合わせ、完成させるだけだ。それにこのまま私が止めないと、部長が本当にユキメのところに行ってしまう。迷っていられない。

思いっきり息を吸い私は再び、鏡の世界に飛び込んだ。



 遠くからうめき声のような風の音が聞こえる。目を開けると、あの時と同じ輝く一面銀色の世界が広がっていた。

「また来ちゃったんだ……」

 息を吐きながら床に仰向けに倒れていた私は、さっそく起き上がる。

今にも滑りそうな廊下を歩き出した。あたりは耳がおかしくなりそうなほどに静かだ。でも、なんだか以前と様子が違う。説明しにくいが、息を吸っただけで肺が痛くなるような邪悪な空気だ。今回は一人だから怖く感じているのかもしれない。前に来たときは先輩と一緒だったから、どうすればいいのかわからない。だが私は首を振った。

 ううん、私は一人でも進むんだ。眠気を覚ますように、頬を叩く。

 しかし、ユキメと部長はどこにいるんだろう。またあの影が追いかけてくるかもしれないので廊下に置かれた掃除ロッカーの物陰に隠れて二人を探す。さいわいあの影はいなかったが、影の存在よりも、嫌な空気が流れているように感じるのだ。とにかく部長が行く場所を考えてみて、ひらめいた。

――ああ、あそこだ。

 左右反転した旧校舎を抜け、敷地の奥へと走りその場所へと急ぐ。たどり着いた先はオンボロのソファに、反対になった貼り紙――オカルト研究部の部室だった。

戸を閉めると、私はおもむろに貼り紙を手に取った。よく言えば達筆、悪く言えば汚いといった風な文字を指でなぞると部長の顔を思い出してしまった。今となっては懐かしいけれどここ、最初は迷って入ってきちゃったんだっけ。でも不思議なことに部室で過ごしているうちに楽しいと感じるようになった。思い出しただけでまた息が苦しくなった。

絶対にここだと踏んでいたのだが、彼の姿はここにもない。

『よくここがわかったわね』

これ以上彼のことを思い出していてもつらいが、聞きたくなかった声に思考が遮られた。

顔に白い髪が垂れ下がっているのに気がつき、とっさに払いのける。

「ユキメ……!」

部長のかわりにいたのは白い少女だった。相変わらず不快な笑い声が、この思い出の場所に響くのが嫌だった。

「部長、いるんですよね? いるならどこにいるのか教えて!」

『ここまで追いかけてくるなんてお疲れ様。でもざーんねん。鏡夜はもう私のものだから』

「え?」

 ユキメは宙に浮いたまま、部室の奥のほうを見た。

 私は目を見開く。腕を組み、壁にもたれかかっていたのは鏡夜部長だった。

「部長、いたんですね! ごめんなさい、私」

「裏切り者がいまさら何の用だ」

 すがるように彼のもとに歩み寄ったが、その一言だけで私は引き下がってしまった。普段は宝石のような輝きをたたえている瞳が私を冷たく映す。

「そんな、もう……」

『あら、かわいそう。ふふ』

もう、遅かったというの?

私は銀色の床に座り込んでしまって、そしてそのまま立ち上がることはできなかった。

 結局、部長はユキメのほうにつくという選択をしたのだ。

ならば私が今までやっていたことは無駄だったという事になる。

――こんな、こんなことないよ。

頬を涙が伝った。

「もっと早く部長に調べたことを報告してれば、それに、持ち出したことをちゃんと言ってればこんなことにはならなかったのに!」

 私が叫ぶと、険しい顔をした部長の眉がかすかに動いた。

「待て。お前、いつの間に事件について調べていたんだ」

「えっ、あ。実はその」

 つい口を滑らせてしまったが、部長には秘密にしていたんだった。でも今となっては無駄だ。彼がユキメ側についたことで、あの事件を解き明かすというのは無意味なものに変わってしまったからだ。

「どうしても部長のお力になりたくて、それでいろいろ聞いたり、調べたりしていたんですが、この通り間に合いませんでした」

私は無理やりおどけようとして笑顔を作った。彼はそこまで聞くと組んでいた腕を崩して、何か考えているようだった。

「ふん。聞くだけ聞いてやろう」

『は、何を言っているの?』

 私にとっても意外だった。これはもう意味のないものなのに、部長は何を聞きたいのだろうか。ひどく怒っているようなユキメだったが、部長は腕で静止する。冷たい眼差しの中に、何か強いものを見出したような気がした。

 ――そうだ。今の私に出来ることをやろう。

「じゃあ、語ってみせましょう。私が突き止めた真実を」

私は己に言い聞かせるように、力いっぱい拳を握りしめた。

「ユキメ……その体の本当の名前は乾ユキメさんです」

 彼女はただ単に頷いた。

「二十年ほど前に学園で起こったあの事件の被害者で、屋上から飛び降りて亡くなった。でもその死体は見つからなかった。違いますか?」

『そう。まったく哀れな体よね。美しく死なせてもくれないなんて』

 私はそのまま続けた。

「家庭科部の二年生である乾ユキメさんは、ひどいいじめに遭っていました。容姿をからかわれたせいで自殺しました。でもこれには続きがあったんです」

その死に方はあまりにも残酷だったと聞いた。しかしなぜか死体は二十年以上経った今でも見つからない。

「彼女が死んだ本当の理由がわかりました。……それはイケニエさんという遊びです」

 蜜弥子先輩が教えてくれたイケニエさん。私は母さんが涙ながらに語った話を思い出しながら、ユキメへと伝える。今まで親友が亡くなったことで私に過保護になっていた母さんの想いを、私は無駄にしたくなかった。

「二十年前、学園祭の日に乾ユキメさんは飛び降りて亡くなったそうですね」

『正解。そこまでわかっているのね』

「その前日、家庭科部で出展する衣装を製作していた彼女のもとにいじめグループがやって来て、ユキメさんの作品を裁ちバサミで切り裂いたそうですが」

部室のダンボールに隠されていた衣装が裂かれたマネキン。部長はそこまでは掴んでいたのだ。

「容姿と周囲からの妬みからいじめられていた彼女は、所属していた家庭科部だけが心の拠り所だったのではないでしょうか。その場所までもが壊され自殺した。そうですよね?」

『でもそれは憶測に過ぎないじゃない』

 私は首を振り、二枚の紙を取り出した。

「いえ、ここからです。この紙。何に使われたか、あなたならわかるはずです」

そこに記されたのは五十音表のようなものと手書きの地図。ここまで綺麗な状態で残っていたのが奇跡のようだ。

『イケニエさんに使われたものと、三上山への地図ね』

あの日、母さんは言った。

イケニエさんにはね、裏の遊びがあるの。それを知ってしまったユキメは、実行してしまった。

「イケニエさんはただの占いという要素が主ですが、実はその人の生き血を使うことで裏の遊びができるんです。その内容は……占った自らを楽に死なせるというものでした。三上山の石碑はかつてこの町で行われていた人身御供の文化を証明するもので、それがイケニエさんのルーツにもなりました。彼女は楽に死にたいと石碑で願ったあと、屋上から飛び降ります。すると彼女の肉体は生贄の力により消滅しました。これが私の答えです」


 私を見つめる二人の目は驚きを隠せないでいた。ユキメにおいては何も言葉にできないようだった。

少しして、部長が拍手した。

「その通りだ。乾ユキメはここにいる通り妖怪となった。同じ境遇だったからか、肉体と少女の魂が結びついたから死んでも死体がなかったのだ。裏の遊びについては俺も詳しく知らなかった。楽に死ぬとはそういうことだったのだな」

 彼の口元がかすかに微笑む。そのとき私の体の力が一気に抜けた。

よかった。今まで会長に母さんと、色々なところを当たったかいがあったというものだ。私に出来ることはすべて尽くしたつもりだ。

「しかしお前、どうして俺の知らないことまで調べられたんだ?」

「お渡しした入部届に書いたはずです。だって私は、ユキメさんの大親友の一人娘だから」

 そう、私の母さんがいなければここまでわからなかった。それも、今までの関係だったら何も発展しなかったかもしれない。

「まさかとは思ったが、お前は本当に雨月亜矢の娘だったのか……」

 ユキメの表情が確信したように見えた。

『やっぱり。その顔、アヤちゃんに似てると思ったの。そう。乾ユキメのことを裏切った親友でしょ?』

「そんな、裏切ってなんかいません。母さんは……」

『嘘よ』

「え?」

『ああ、そんなの嘘よ! だってあの子、見て見ぬふりをしたのよ!』

ユキメは抜けそうなほどに髪を引っぱって喚いた。

本当に母さんはそんなことするつもりなんてなかった。私にはそれを証明する手段がある。

「ならユキメさん、この手紙を読んでください」

私は母さんから渡されていた一通の手紙を差し出した。母さんは私が持っていたほうがいいと言ってこのレースのついた可愛らしい封筒を手渡してくれた。これは、当時母さんがしたためたという手紙らしい。ここに来る前に取ってきたものというのはこれだ。

『なによこれ』

「これで、わかりますから」

彼女は粘着力を失ったハートのシールをゆっくりとはがし、封を開けた。



――せっかくの学園祭の日にこんなしんみりとしたの、ごめんね。

私、あなたが傷ついてるのに見てみぬふりをしてたの、わかってた。今まで悪い事をしていたわ。怖かったの。たった一言いえればよかったのに、あなたを守りたいという気持ちがあったのに行動に移せなかった。こんなの、いけないよね。私、今度はちゃんとユキメに手を差し伸べるって約束する。あなたを守りたい。だってあなたは素敵な私の親友だから。ずっと一緒にいてくれるよね? 

昨日起きたことは、ちゃんと先生にも言っておいたから安心して。もう学園祭にば間に合わないけど、もう一度いっしょに、作品縫いなおそうよ。

アヤより



 それは雨月亜矢の叶うことのなかった願い。一緒にいたいと願うのは簡単だ。母さんはいじめという難しい問題に立ち向かおうとしたが、当然リスクが大きく怖くなってしまった。学園祭と書いてあるから、それでも戦おうと決意したその直後に彼女は亡くなったのだろう。後悔が今でも母さんの中で渦巻いていたのだ。なんて残酷なのだろう。こんな悲しいすれ違いなんて起きてほしくない。

「全部、あなたの誤解だったんですよ」

『そんな、ばかな』

ユキメは唖然としていたのと同時に、私が突きつけたものを認めたくないようにも見えた。

「私の母が学園祭の日に渡そうとして、あなたの肉体となった彼女はそのまま亡くなったんです。まるで学園の皆に知らしめるように……母は見てみぬふりをしたのではなく、怖かったんですよ」

もし嘘だというのなら、こんな手紙なんて残さない。ほんの少しだけ渡すタイミングがずれただけだったのだ。

「母は二十年以上経った今でも、あなたに何も出来なかったのを悔やんでいるんです」

 睨む彼女に、私は封筒を裏返すようにうながした。端に記された、ちょうど二十五年前の九月十七日という日付。毎年ズレはあるものの、学園祭を行う期間はだい決まっている。たとえそれがずいぶんと昔でも、変わらなかったはずだ。

『な、あんたが書き足したんじゃないの?』

そう言ったユキメの手がふと止まった。

「いいえ。その字、見覚えがあるはずです」

その字は、間違いなく彼女の記憶のなかにあるはずだ。

「母から聞いたのですが、その交換日記から裏の遊びを知ったそうですね」

 当時の家庭科部では、数人で日誌という名の交換日記をしていたそうだ。そこに乾ユキメさんと母も参加していて、オカルトに詳しい部員の書き込みから裏の遊びの存在を知ったらしい。証拠となる交換日記の行方は不明だが、母さんはきちんと語ってくれた。

 彼女が息を飲む。

『まさか、アヤちゃんがこんな風に思っていたなんて、そんなの知らなかったわ』

ユキメは初めて床に降り立ち、座り込んでしまった。そして手紙を封筒にしまって胸に抱えた。

『私は一人じゃなかったのね……』

やがてユキメは座りこんだまま、わんわんと泣きだした。

 母さんが伝えられなかったことを、きちんと伝えられただろうか。共に手を取りあうことは叶わなかったが、こうして気持ちを知ってくれたのなら良かった。私は涙を流す彼女の姿を見て、昔の母さんと乾ユキメさんが手を繋いで笑いあっている姿を想像した。

そして、もうひとつやらなければいけない事がある。私は部長のほうへ向かって歩いた。

「雨月君、お前」

「部長、ごめんなさい。私がちゃんと言わなかったから悪いんです。部長は私を何度も助けてくれたから、気づかれないようにそのお礼をしたかっただけだったんですけど、だんだんと悪いほうに向かっていっちゃって」

一言さえ言えていれば、こんなことにはならなかったのに、今、たった一言の重みを知った。

「そうだったのか。……俺はなんてことをしたんだ」

部長は思いつめたような顔をしていた。

「あの、部長」

 彼の瞳だけがこちらを向く。

「今さらですが、私は部長を繋ぎ止めようとかそんなこと考えていません。部長の選択であるならそっち側に行っても私はいいと思ってます。でも、でも……」

私は思っていることを言うのをためらった。とても私らしくないからだ。

「いいですか。今から言うのは、最初で最後の、ほんの雑用のわがままです」

それでも、言おうと決めた。

「あなたともっと、一緒にいたかった。もっと早く謝りたかった! 本当にごめんなさい……!」

ああ、変だ。人前で泣くなんて今までの私らしくないのに、なぜか涙が止まらない。私は両手で顔を覆った。すると、冷たい手が私の頭に置かれた。

「俺からも謝罪していいだろうか」

それはとても小さな声だった。

「俺がユキメの味方につこうと決めたのには間違いはない」

「それじゃあ」

「違う。話はここからだ。俺がここにいるのは単に俺がこいつのもとへ行けば、お前たちが危険にさらされることはないと考えたからだ」

「え」

 という事は、部長は私たちを守るためにここに来たとでも言うのだろうか。

「雨月君は、最後まで俺のため、部活のために尽くしてくれた。俺は人間が嫌いだったはずなのに変だな。このままお前の想いを無駄にしたくないと思ったんだ!」

 彼は、私たちを裏切ったわけではなかったんだ。むしろその逆だった。その事実がただ嬉しくて私は部長の手を握った。だんだんとあたたかくなっていくその手に、また涙があふれ出す。

『……は、なによそれ、意味わからない』

ただ一人、それを不愉快だと感じている者がいた。ユキメは泣きはらした目をひんむき、こちらを睨んでいた。


「ユキメ、お前はうちの部員に何をするかわからないからこういった選択を取った。        確かに生まれ変わったらまた共にいようという約束はした。そして、この町の人間に 復讐することも。でも俺はたった今、私立応間学園オカルト研究部の部長・髑髏ヶ城 鏡夜として生きることを決めたんだ。お前に俺の新たな生き方を否定する権利などない!」

 その声はただ私の胸に響いた。

――部長!


 嬉しい。こんなに嬉しいことはない。

ユキメはアハハ、と絞り出すような声で笑った。

『そう。結局そうして嘘をつくのね。知ってる? 今まで雑魚の妖怪から貴方まで、力を吸い取ったおかげで今の私は強いのよ』

「やめろ、何をするつもりだ」

彼女が手が挙げると、どこからともなく召使いだというあの気味悪い影たちが二体、三体と集まってきた。

『アヤちゃんの気持ちがわかったところで、まだ裏切った貴方を赦したわけじゃない。いなくなればいいのよ!』

すぐ目の前で、視界が爆発した。

 死ぬ――きつく目をつむったその時、私に大きい何かが覆いかぶさった。それが、がしゃどくろの姿になった部長であったことに気がつくまでそうかからなかった。

「なにしてるんですか部長!」

『なにって、部員を守るのは部長の役目だろう』

「でも……!」

 ゆっくり目を開けると、いつの間にか部室棟の外にいて、彼が大きな腕で影が振り下ろした拳を受け止めているのが見えた。その骨の腕には、切り裂かれたような傷が刻まれていたのだ。

 痛そうに声をあげる部長の声に、全身が震える。

『……はるか昔、俺はこの瞳の色が理由で人身御供として殺された。首の傷の理由がわかっただろう』

「はい、首を落とされたって」

 私は床に捨てられたネクタイを見つけた。

『俺の死体は他と融合して、この三上町の呪いの歴史を背負う妖怪がしゃどくろとなったのだ。そんな時とある猫又と出会って俺は変わった。人間のぬくもりに触れ、俺の考えが愚かと知った』 

彼の脚に、胸に、頭に、影の立てた爪が突き刺さる。

『……それでも俺は、その呪わしい歴史を忘れないために学園で起きた人身御供絡みの事件を解決しようとしたのだ。その拠点というというのがな』

――オカルト研究部だったんだ。

 語る彼はとても苦しそうだった。このままじゃ部長の力は持たない。

『私との約束を破るからこうなるのよ』

私にはどうにもできないの? 私は二人で無事に帰れるようただ祈った。

「悠ちゃーん、応援を連れてきたにゃん!」

 焦る声が聞こえた。この声は、蜜弥子先輩だ。

『ユキメ、またやってんの? ふざけないで』

『オイラも手伝うー!』

  聞いたことがある声ばかりだった。心強い、仲間たちの声に自然と励まされる。私はその声たちに向かってめいっぱい叫んだ。

「花子さん、河童くん、お願いします、部長を助けてください!」

『任せなさい、まだ通販で注文した爆弾、残ってるから!』

『おうよ! ってオイラなにが出来るんだ?』

『このアホ河童、どこの誰だか知らないけど足引っぱったら許さないからね』

 目を閉じ、手を合わせてただ祈った。お願い、お願い。私は部長と一緒に元の世界へ帰るんだから。

 部長へと襲いかかる影たちが一つ、そしてまた一つと燃やされていく。飛び散る火花が銀色の景色をだんだんと赤く染め上げていった。

それでも花子さんほどの力を持っても全てには対応しきれないようで、部長は全身に傷を負っていた。頭上からときおり聞こえる悲痛なうめき声に耳をふさぐ。最後の一人、ユキメが残ったときには、彼の体は砕け散ってしまいそうだった。

『なんで、どうして。私のどこがいけないの。私は間違ってないでしょ!』

 狂気を含んだ叫びに、自らの体をかばいながら部長が答えた。

『どんなことがあっても、こいつらを傷つけるなど俺が許さん。絶対にお前の好きにはさせない!』

瞬間、ユキメの足元が弾け飛んで、思わず身構えた。

『私だって、もっと一緒にいたいと願ってたわ。でも、どうしても私は耐えられなかったの』

二人の少女の声が重なるように響く。この二人は、もしかして――。

『だって、こんな若くして死ぬなんて嫌なはずでしょ。まして痛い思いして死ぬなんてバカみたい。でも、アヤちゃんの気持ちを知らないままでいる事なんてできなかった。よかった。あの子は乾ユキメを裏切ったわけじゃなかったって知れたのだから』

ちょっとは感謝してあげるけど、やっぱり許さない。

そう聞こえたとき、彼女はすでに消滅していた。塵一つ残さず、夢のように立ち去っていたあとだった。 

「あれ、いない」

「ああ。あいつはとうとう昇っていったんだ……よかったな」

部長の優しい声音に、私はめいっぱい息を吐く。

よかった。本当によかった。ここまではさすがに私ひとりじゃ成し遂げられなかったはずだ。今すぐにでも花子さんたちに感謝したい。そして、帰ったら母さんや四季島会長にも会いに行かなくては。

安堵からその場に座り込むと、べしゃ、と太ももに気味の悪い感触が伝わってきた。

「な……」

鮮烈な鉄の匂いに安堵は恐怖へと変わる。銀の床が、一面赤色に濡れていた。

人間の姿に戻った部長の体には制服の上からもわかる大きな傷が刻まれていた。傷は先ほど攻撃を受けたのと同じ場所にあり、そこからとめどなく血が流れていた。

「師匠!」

背後に隠れていた蜜弥子先輩が飛び出してきたのに続いて、私も彼のもとへ寄った。

「部長、しっかりしてください!」

「ああ、俺はへいき、だ」

「平気なわけないよ。こんなときまで何でもないフリして、師匠は本当におバカなんだから!」

 部長の顔は異常に青くなり今にも消えそうだった。私は血にまみれた彼の手を取る。

「ごめんなさい、私が何もできなかったからこんなことになったんです……。そうだ。いつもみたいにふざけてるんですよね、そうですよね。それに妖怪なら、傷だってすぐ治るって言ってたじゃないですか。きっと、助かりますよね?」

答えは返ってこなかった。私の言葉もむなしいことに、握った手はしだいにぬくもりを失っていく。隣で先輩が枯れる勢いで泣いている声を聞いて、私もこらえられなくなってしまった。

「嫌です、こんなの」

 やっと、仲直りできたと思ったのに。

「……もう俺がいなくてもお前たちは平気だ」

青い瞳からだんだんと光が失われていくのがわかる。

「よく、やったな、雑用」

そう残して目を閉じた部長は、今まででいちばん優しい笑みを浮かべていた。



オカルト研究部 活動記録日誌

記録者・雨月 悠(一年一組)


 あの。これ、本当に一年生の私が書いてよかったんでしょうか。こういうの、なんだか緊張しちゃいますね。

 私は今でもたまに迷います。これでよかったのか、みんな幸せだったのだろうか、と、これが本当にいい終わり方だったのでしょうか。でも最近気がついたんです。部長が選んだこの選択が正しかったのかどうかなんて、私たちに決める権利はないという事に。誰も邪魔してはいけないと思いました。それでも不思議ですね。こんな私を受け入れてくれた二人が大好きだと、今なら胸を張って言えるようになったんですから。

これからもずっとずっと、私たちはひとつです。


***


 窓から優しい光が差し込むなか、彼はベッドの上で楽しそうにノートをめくっていた。その音が次第に早まり、読み終わったことを告げる。

「うむ。初めてにしてはよく書けている」

 私はノートを受け取った。彼は寝たまま私をじっと見つめているがとても恥ずかしい。窓のほうに顔を動かしてしばらく空を眺めてから、赤く傷が残った唇を動かした。

「お前には感謝してもしきれんな」

「いえ。いいんですよ。気にしないでください」

「そうか。いや、しかしまったく不便だな。傷がこうも痛いとは思わなかった」

彼は微笑みながら目線の先で腕を振った。

 部長がようやく深い眠りから目を覚ましたと病院から連絡があったのは、今朝のことだった。放課後になり、私は蜜弥子先輩とともに電車に飛び乗ってそのまま隣町の総合病院まで駆けつけたのだった。彼の話によると、ユキメに吸い取られていたこともあって妖怪としての力が従来の三分の一になってしまったらしい。あと、全身の包帯を取ろうとして暴れたとか看護師さんが言っていたが、聞かなかったことにしておこう。

「しかしまぁ、本当に死んだと思っていたのか。俺を勝手に殺すな」

「当たり前ですっ。あんなに血を流してたら普通の人間なら死にますし! というより殺すって、あなたもう死んでるじゃないですか」

「はは。お前もずいぶんと口が達者になったものだ」

歯を見せて笑う彼は完全回復にはまだほど遠いらしいが、変わらない様子で安心した。

部長は頭を押さえて起き上がると、イスに座っていた私を抱きしめた。

「うわ、ちょ、なんですかいきなり!」

腕を必死にはがそうとしたが、あまりにいきなりのことだったので手に力が入らない。私の顔は成すすべなく部長の胸に埋まった。

「俺がいなくてさみしかったんじゃないのか?」

「そんなわけないです。むしろ静かでちょうどよかったですよ」

「本当は?」

 口を閉ざした私を黙って見つめる瞳はとても悲しそうだった。

「うう。当たり前じゃないですか。さみしかったですよ!」

 やけくそに本当の気もちを答えると、部長はその答えを待ってましたと言わんばかりに私の頭をなでた。包帯のごわごわした感触が伝わってくる。

「お前はよくやった、本当によくやった。優秀な雑用だな」

「……部長こそ!」

 そんなこと言って、一番苦しかったのは貴方のはず。こちら側を選んだのと引き換えに妖怪としての力をほとんど失ってしまったのに、どうしてそんなに笑っていられるのだろう。涙が止まらない。私は部長が着ているパジャマの裾元に鼻水が垂れそうになっているのを必死にこらえた。

「ひとつ、いいですか」

 私は顔をうずめたまま話した。

「私、みんなが、オカルト研究部が好きです」

 一度バラバラになってしまったあの時、ようやく気がついた。いつの間にかこの部活が私のかけがえのない居場所になっていたこと。そして、これからもここにいたいという誰のものでもない、私の気持ちに。

心臓の脈打つ音がよく聞こえた。正真正銘、彼が人間らしく生きている証だ。私はまだここにいたいと、切に願った。

「いっけないにゃーん! 遅刻ちこく……って、あれ。二人とも何してるの?」

背後から先輩の声がした。頭だけで振り返ると、自動販売機に飲み物を買いに行っていたはずの彼女が目を見開いていた。

「あ、先輩。違いますからね。これは部長のほうからやってきたんですっ!」

「ずるいずるーい、あたしも入れて!」

「しかたないな。猫屋君もこっちに来い」



 これから先のことなんて誰にもわからない。だからこそ私たちで決めていく。たとえ繋いだ手が離れたとしても、こうして再び繋ぎなおせるのだから。これからは皆でしっかりと歩んでいこう。

いつかの彼女たちも、見ているんだろうか。どこまでも三人を見守る青い空は、今日も美しかった。

 


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秘密のオカルト研究部! すいすい @Suisui41

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