活動記録その三「守りたかったもの」(1/2)

 この世には、生まれながらにして皆に愛される者がいるんだそうな。俺から言わせてみれば、そういう奴らがいてたまるか、といったところだが。


――こいつは化け物だ!


 記憶の奥底に埋めたはずの憎悪たちが、息苦しさとともに戻ってくる。憎い。憎い。すべてが憎い。俺は町をさまよう妖怪となり、人間を、すべてを呪った。

 でも一人だけ、違ったような。

俺はカミに祈るなんて事はしない。でも、もし一つ何かの間違いで願いが叶うとしたら……。



「部長、ぶ、ち、ょ、う!」

 私の声とカラン、という氷の音で、部長はようやくこちらに気がついたようだ。

「え、ああ……雨月君か」

 拳で勢いよくテーブルを叩いた成果もあり、彼はずっと目を見開いている。

「大丈夫ですか? ずいぶんとボーっとしてたみたいですけど」

「いや、少し考え事をしていただけだ」

 火曜日の放課後、私たちは気分転換ということで「モルガナ」にいた。

あの日、河童くんを見届けてからかなり時間は経過したものの、あれから鏡夜部長は、今のようにどこか一点を見つめていることが多くなった。今もそうだ。四人がけのボックス席についてからずっと、ガラス窓の向こうを見つめている。外には向かい側のパン屋くらいしか見るものはないはずなのだが、一体どうしてしまったんだろう。彼がとりわけパンに興味があると思えないし、前に米のほうが好きだと言っていたし。

 部長は今日もガムシロップたっぷりのアイスカフェオレを飲んでいる。淡々とガムシロップのふたを開けては投入する姿はいつも通りのはずなのに、何かが違う。それにいつもより二個くらい数が多いような気もするし。

「部長、しっかりしてくださいよ。今日はあの話するんじゃなかったんですか」

「そうだったな、そう。あれだ、あれ」

 そう言って、とたんにガムシロップを持つ手が止まった。

「……さて、なんだったかな」

私は隣でショートケーキの苺をいつ食べようか迷っている蜜弥子先輩と顔を見合わせ、ため息をついた。

「えええ、なんで忘れちゃったにゃん……」

「もう、あの二年生かどこかの人が言ってきたやつですよ!」

 私はあきれながらも丁寧に、依頼内容を繰り返した。

蜜弥子先輩が頬を膨らませた気持ちも理解できる。

水泳部の事件以来、私たちはというと……なんだかとっても知名度が上がっていたのだ。その理由はなんとなく見当がついていた。水泳部から広がった噂が噂を呼び、あの地下室には毎日誰かが必ず押しかけてくるのだ。もちろんこんなことはオカ研はじまって以来のことなので、部長はそれで疲労困憊しているのかもしれない。でも、部長はもっと深刻な顔をしていた。いつもなら依頼が舞い込んできたならば勝手にいなくなるくらいの勢いで調査に行くのに。

「でも、あれ本当なんでしょうかね」

 つい昨日、わざわざ私たちの部室にやってきて依頼を叫んでいった先輩が二人いた。

彼女らは図書委員会の委員長と副委員長と名乗っていったが、どうやら……夜に旧校舎に行くと、図書室の近くにある鏡の様子がいつもと違うらしい。

「図書委員は図書室に長い時間いることが多いゆえに、旧校舎の噂に詳しい。一般の生徒たちよりは敏感なんだろう」

「確かにそんな気がする。だってあの『イケニエさん』についても詳しかったし」

――「イケニエさん」?

「先輩、なんですそれ」

「ん、なにが?」

「いや、その今言った、何とかさんってやつですよ」

「あー、イケニエさんね。悠ちゃんは知らないよね、昔、応間学園で流行った遊びの名前にゃん」

 それはいわゆるコックリさんみたいなやつだろうか。先輩はフォークを天井のあるほうへ向けた。

「なんかね、紙に女とか男とか、五十音表書いて、上に十円玉乗せて『イケニエさん、イケニエさん』ってやるんだけど……当時の女の子たちはイケニエさんからのお告げを聞いて一喜一憂したんだって」

 ほう、やっぱりコックリさんとだいたいは同じだ。

「でもなんでイケニエさま、なんてブキミな名前つけたんだろうね? もっとかわいい名前でも――」

ドン!

……と細長いグラスがテーブルに叩きつけられる音がした。

「猫屋君」

何事かと思えば、部長がこちらをきつく睨みつけていたのだ。彼はただ、いつもの古めかしい口調で先輩を呼んだ。

「その事についてはこれ以上語ることはないだろう」

 さっきまでボーっとしていた彼が嘘みたいに、怖い顔をしていた。

「だって悠ちゃんはまだ一年生で、色々と知らないわけだし」

「しかし雨月君には関係ない、知らなくていいだろう」

え、もしかしてこれ、私だけ蚊帳の外? 

「でも、でもさぁ」

「いいから雑用にヘンなことを吹き込むな!」

 部長の大声によって、店内が一瞬静まり返った。客という客が皆、こちらをじっと見ている。

しばらくたつと、彼は辺りを見回してから気まずそうに再び席に腰かけた。頭を抱えるその姿は今まで見たことがないくらいに困窮しているようだった。

「やっぱり最近の師匠、おかしいよ」

 先輩が確かにそうつぶやいたのを、私は聞き逃さなかった。

いつのまにか、ショートケーキの苺のあった部分がポッカリと空洞になっている。それからは先輩も、部長も、私も、数分間何も発言することはなく、それぞれただ目の前のものに集中していた。私も様子をうかがうように黙々とスカッシュをすする。

 ボーっとしていたかと思えば怒ったり、部長がこうしておかしくなってしまったりしたのはいつ頃からだろうか。それでもなんとなく、原因は浮かび上がってくる。

あの女の人。目が赤くて白髪の、鏡夜部長と同じく一度見たら忘れられないような綺麗な妖怪。それに私のことを「アヤちゃん」と呼び、知っていたあの人。

 このオカルト研究部に入ってから私のことを知っている妖怪なんていなかったはずなのに。花子さんとも、河童のカンタ君とそのお母さん、そしてこの二人とも違う、何か。

 少なくとも、……他人事ではないらしい。私たちの目の前に突如現れた、とてつもなく異質な存在は心を大きく惑わせる。

「……依頼の話に戻るぞ」

小さな声で部長はそう言った。大きなため息が聞こえた。

「俺としてはこの依頼、依頼にしてはなんとも大雑把なのが気になるのだが」

夜、踊り場の鏡が何かおかしいんですけど、助けてください!

 二人の来客が言い放っていったのは、以上だ。なんの冗談かと笑いたいくらいだが、本当にそれしか言われなかったのだ。

「おかしい、とは具体的にどういった怪奇現象が起こっているんだ?」

「具体性に欠けますよね。でもそういったことはおっしゃっていませんでしたよ」

「困ったなぁ。うちは別になんでも屋さんじゃないのに!」

 そうだ。うちは別になんでも引き受けているわけじゃない。先輩によれば部長はまずはどういった事が起こっているのがある程度わかっているものから受けるそうだが、今回はそうではない。もしかしたら冷やかしかもしれないのに。

どうして部長は、こんな意味不明な依頼を引き受けたんだろう。

四季島会長のように依頼人が知り合いというわけでもないし、やはり最近の彼はおかしい。彼の行動が読めないのは今に始まったことではないが、いくらなんでも心配になる。

ふと、思う。


――私に今、何が出来るだろうか。


 いつのまにか、雑用という肩書きに似合わずそんな事を考えるようになった自分がいた。こんな部活やめてもっとマシな、母さんも文句を言わないような部に入ろうと何回も考えていたが、それはいつが最後だっただろうか。私は知らぬ間にこの人たちのペースにグイグイ飲み込まれていた。本来様子のおかしい部長のことなんてどうでもいいはずなのに、気がつけば部長のことばかり気にしている。もしかしたら私までおかしくなったのかもしれない。

 恒例の「とりあえず現地に赴こう」という流れになったところで、いったん頭をリセットする意味でレモンスカッシュを飲み干すことにする。はじけながら喉を通るそれは何だか、いつもより酸味が効いているように感じた。



 私たちが問題の場所に着いたのは十八時。そう、この前花子さんが出たのと同じ時間帯を狙った。旧校舎の階段はいつもじっとりと暗く、足元が不安だ。私たちは一列になって階段を駆け上がる。私と蜜弥子先輩、そして先頭には部長が――と思いきや、彼はゆっくりと一番後ろにくっついてきていた。

「師匠、はやくするにゃん! もしかしておじいちゃん妖怪だから階段きついの?」

先輩が上から叫んだ。

「違う」

「もームキになっちゃって、あたしみたいなナウいヤングがうらやましいにゃんね。わかるよその気持ち!」

「……」

そこで部長は何も言い返さずに黙ってしまった。同時に先輩のいわゆる「どや顔」がひきつる。

「いつも『うちから追い出すぞ』とか言うのに、ぜーったいおかしいにゃん」

先輩が私に耳打ちをしてきたので、こっそりと頷いておいた。ノロノロと一段一段登ってくる部長は、やはり浮かない表情をしている。足取りが重いというのはまさにこのことだ。そんな彼が上までたどり着くのを待っていると、二階の奥に位置する図書室の隣に、薄い鏡があるのが見えた。自分の身長よりも少し大きさのある四角い鏡が、図書室と生徒会室の間に貼りついていた。

「たぶん、これのことですね」

「うーん、当たり前だけどなんか普通にゃんね」

先輩の抱いた感想をそのまま返そう。その鏡は、壁の向こうに違う世界が広がっているのではないかというおとぎ話じみた思考を跳ね返すようなものだった。別に変なところはないし、何よりも、変なものなんて映っていない。

――私の顔だ。

 よく悪いといわれる目つきに、ふさふさの髪の毛。少しだけ治った顔の怪我。

 鏡に映る顔に手を触れると、私の頭より二つ分くらい高い位置に鏡夜部長の顔が映った。

「なにしてるんですか部長」

 どうしてそんな事を訊いたのかというと、彼が神妙な顔つきで鏡の中を覗き込みながら、あごを撫でていたからだ。彼が続けた。

「何もないではないか。きっと適当なことを言って、俺たちを惑わそうとしていたんだろう。まったく暇なやつらだな」

「暇……この部活にわざわざ来るくらいですからね、ありえます」

 なんだか思えば、あの人たちは一夜の台風か嵐みたいだったなぁと思った。ただ叫んでいったかと思えば、中身は本当に受けるべきものではなさそうな依頼。部長もさすがに呆れかえっているだろう、と思ったが彼はまだ鏡の中を見つめていた。すると波立ったみたいに鏡の表面が少し揺れ、彼がいる場所に大きな骸骨が映った。


 今のって、見間違い?


 人間の姿をしているはずなのに、がしゃどくろの姿になった。

 私はわざとらしすぎるんじゃないかという程しきりに目をこすってみたが、鏡の中のがしゃどくろが消えることはなかった。

当然、人間である私の姿が変わることはない。私の背後にあの姿の部長がいる……。

――おかしいな。

 もしかしたら鏡のほう問題があるのかもしれない。そう思った私はふたたび、軽く表面に触れてみた。すると、指にまとわりつくような感触がした。

 その冷たさに、全身が波立つ。

まるで水の膜をつついたみたいな、触れてはいけないものに触れた感じ。

「なに……?」

念のため色々な角度からのぞいてみたが、どこからどう見ても間違いなく鏡だ。

「どうしたの悠ちゃん」

「あ、この鏡、今触ったら……」

「触ったら?」

 震える指の先に、蜜弥子先輩の視線が動いた。

「気のせいか知らないんですけど、柔らかかったんです! それになんか部長が妖怪の姿で映ってて……」

「えーっ!」

 そう言って先輩はゆっくりと鏡を人さし指で軽くつついてみた。すると私のときと同じで、ポヨーン、という音が似合うように弾んだ。

「ほんとだ!」

「絶対おかしいですよね」

「うん、これ本当に鏡だよね?」

「そのはずなんですけどね」

 先輩は驚いて何も言えないようだった。猫又の彼女でも、さすがに初めて見たらしい。

 ちなみに鏡に映っている先輩の姿はというと、何度か見ているあの猫又姿ではなく頭の上に猫の耳が生えていた。その事にようやく気がついた彼女は慌てて頭をわしゃわしゃとかき乱していたが、隣にいた部長に腕をつかまれて静止する。

「雨月君。俺たちが妖怪の姿で映っていたと言ったな?」

「はい、確かに。それになんか、触ったら柔らかかったんです」

 ぎにゃー! と叫びながら暴れる蜜弥子先輩の頭を押さえながら、部長は首をかしげた。

「少し考えてみたまえ。ここはどこだ?」

「は」

 おかしくなったうえに、ついに記憶喪失にでもなったのだろうか。

「あのう、ついにボケました?」

きのう依頼を忘れていたのはそのせいだったのかもしれない、と彼ならあり得るケースを思い浮かべていると、頭を小突かれた。

「あいたっ」

 骨ばった拳は想像以上に痛かった。不意打ちをしかけてきた理由を聞くうちに、彼のほうだった。

「ここは旧校舎ですけど、ってさっき言ってませんでしたっけ」

「然り。ここは旧校舎。ありとあらゆる学校の怪談が集結する場だ」

 と残したまま、彼は細い指先を鏡に這わせた。

「そのありとあらゆる怪異は、普段どこに潜んで生活しているか……」

「普通には表に出てきませんね」

 花子さんも最初はトイレに身を潜めていたし、河童も山の小川に住んでいると聞いた。理由がないと人前には出てこないんだろう。花子さんは……少し違うけど。

「私立応間学園の中に構築された人間と妖怪の世界。どうやら、その境目を知ってしまったようだ」

「境目?」

 どういうわけか。

どんな原理がはたらいているのかは知らないが、部長の体が鏡の中にみるみるうちに吸い込まれていったのだ。例えるのなら、鏡の中が薄い膜で作られた水槽になっているように、彼のローファーに銀色の膜が吸いついている。

「待ってください、まだ終わってない――」

 そして、私がつかもうとした腕はあっけなく鏡の中に消えていったのだった。

「部長!」

 私は鏡の中に吸い込まれていった彼を追いかけるつもりで鏡を必死に叩いた。だんだんとかたい感触に戻っていくなかに、まだ柔らかさが残っている。

――部長が、消えた。

 これは普通の鏡、のはず。図書委員の二人からの依頼はいたずら、とも言っていたが。

 その時点で、私は昨日していた話の内容をふと浮かべた。

図書委員は、旧校舎と「イケニエさん」に詳しい……。

 はじめてあのアパートに行ったとき、鏡夜部長は言っていた。自分はとある事件を追っていると。それに、彼の様子がおかしくなったのは白髪の少女に出会ってからだ。これはどこかで関係がある、なんとなくそんな気がしたのだ。

 それにあんな調子の部長が、この中で無事でいられる確立はきっと――低い。

 私は鏡をじっと見つめた。鏡の中に入るなんてもちろんやったことがないし、怖い。失敗したら中に埋まったり、出られなくなったりするもしれない。だからこそ迷っている暇なんてない。

 部長たちは何度も私を助けてくれた。私のためにあんなに一生懸命で、不思議と、余計なおせっかいとは思わなくなっていたことに気がついた。

「蜜弥子先輩、追いかけましょう」

「ええ、正気にゃん?」

「でも、部長がこのまま帰ってこないほうが、私は嫌です。失敗は……怖い、怖いけど、部長を助けたい。私たちが行くしかないんです!」

 先輩はただ、大きな目を見開いていた。

正直、自分でもこんなことを言うなんてびっくりだ。似合わないことを言ってしまったかもしれない。だが、すぐに先輩の顔は灯がともったように明るくなった。

「うん、わかったよ。あたしも行くから!」

「ありがとうございます、先輩!」

 先輩は私の手を握った。

 私は念のため、ゆっくりと足を踏み入れる。まるで氷水に足を突っ込んだように全身を震え上がらせた。部長は、こんな冷たくて不気味な場所に一人で入っていったのか。

でも、なんのために?

「いくよ、キューティキャット探偵ズ!」

「前から気になってたんですけど、勝手に一員にされてるような……」

 そう言ってあきれながらも私は微笑んだ。なんだか悪い気はしなかったからだ。

「でもちょーっと、ほんのちょーっとだけ怖いから手つないでほしいにゃん」

「わかりました」

 わざとらしい泣きまねをする彼女の手を優しくにぎる。

そして、水の中にダイブする前だと思って、息をいっぱい吸った。

 銀色の世界に飛び込むと、体が空中に放り投げられたみたいに、フッと浮かんだ。そして一気に鼻の中に水が押し寄せて息が苦しくなる。

不思議だ。ここは鏡の中のはずなのに、まるで海のようだ。澄みきった水をたたえた美しい海だ。

 銀色の海で口から吐き出される泡を見ながら、沈んでいった。

自分の肉体がとろけるように、海をただよう。


――待っててください、部長。



 どれほど目を閉じていたんだろう。鏡の世界の中に入り込んだはいいものの、それからの記憶が抜け落ちていた。

誰かが私の体を揺さぶる。

「――ちゃん、悠ちゃんってばぁ!」

「ん、んん」

 私はまだ薄れた視界の中、あたりを見回した。すると、アルミホイルのような質感の床に誰かが座っていたのだ。

 ようやく体を起こしたかと思えば、目に飛び込んできたのはいつもいる学園の風景……のはずだったが、何かが違う。どこが違うのか説明しろと言われてもすぐには出来なかったが、見回している間にはっきりした。一見私たちが入ってきた図書室と生徒会室の場所と似ているが、「図書室」の文字が、反対になっていたからだ。

 それがわかった瞬間、体温が一気に下がった心地がした。

「な、なに、ここ……」

 私は辺りを見回した。さっきの鏡から入ってきたのまでは覚えているが、明らかにいつも見ているものとは違う。

夢を見ているのだろうか。それも、悪夢。空気もなんだか冷たくて、スカートの中に吹き込む風が寒い。それなのに空気が銀色で、キラキラと輝いていた。だからか、蛍光灯は全部消えているはずなのに、不思議と嫌な感じはしないのだ。

見れば見るほど、変な気分になる世界だ。蜜弥子先輩も驚いていた。

「あたしにもよくわからないにゃん! それより大変だよ! ここにいたら死んじゃう!」

 すぐ目の前に蜜弥子先輩がいた。先輩はなぜか、私の腕を引っ張って離さない。

「待ってください、どうしたんですか……」

「ほら早く逃げないと!」

「だから、どうして」

「眼鏡、かけてみて」

 急いでポケットから眼鏡を取り出し、装着した瞬間に私は、先輩の後ろを見て言葉を失った。

私たちを飲みこめそうな大きな物体が、こちらを見つめている。

――あれは。

 ただ黒く染まった巨大な影が、廊下の奥からこちらへとにじり寄ってくるのが見えた。

前に似たようなものを、見たような気がする。

 そう、あれは花子さんや白髪の少女がまとっていた嫌な影と同じものだ。ただそれが主人を失ったかのように、宙に浮いていた。


 怖い。

気持ち悪い。

異形のものそのものだった。


全身が、その場から離れろと伝えるように鳥肌を立たせた。

 私たちは、一目散に逃げ出した。

先輩は残念ながら、ああいった存在には太刀打ちできないそうだ。だから私たちには逃げるという道しかない。様子が変わってしまった校舎内はとても複雑だった。いつも見ている方向とは逆なので、たびたび行き止まりや東西逆方向に進んでしまうといったことが起きていた。気をつけなければいけない。

「さっき入ってきた場所はどうなったんですか? そこに出られたら……」

「なんかよくわからないけど、さっき閉じちゃった!」

「ええっ!」

 そんなぁ。

というか、ここはどういう場所なのだろうか。応間学園に似ているのがどうも気にかかる。似ているというか、ほぼ同じものなのだ。

しかし逆に、その考え方をするなら、もう一つの出口も見えてくる。

「一階に出られれば、あの昇降口から元の世界に出られるかもしれません!」

 がむしゃらに走りながら

「そうだ、そうだよ! 行ってみよう!」

 ちゃんと伝わっていたみたいでよかった。

「悠ちゃん、階段気をつけてね!」

「はい、わかりました!」

 先輩は私の手を握りながら階段を降りる。階段自体も銀色がかっていて、滑りそうだ。つい、あのとき落ちた痛みを思い出しそうになる。気をつけて降りなくちゃ、と一歩一歩的確に、同時に素早く駆け下りた。

 私は思わず上の階を確認した。それは確実に追ってきている。上に現れた黒く膨れ上がった物体が、そこにはあった。

『――』

 鳴き声のような音がフロアいっぱいに響き渡る。

彼らからは胸が締め付けられるような、嫌な感じがした。彼らは妖怪のようにも見えるがどちらかといえば映画に出てくるような怪物だ。

ズドン! 

「!」

 すぐ耳元で大きな音がしたかと思えば、地面が揺れた。すぐ後ろにいた影が、自身の大きな拳で階段を叩き割ろうとしていたのだ。

 どっ、と変な汗が出た。

「もういやだー!」

 妖怪であるはずの彼女がなさけなく叫ぶ。

「先輩、あれはなんなんですか……」

「あたしもわからないって! 師匠なら知ってるかもだけど、あたしはわからないにゃん!」

 部長……。

 彼は間違いなくここへ入ってきたはずだが、そういえばどこにも姿がない。そろそろ出会ってもおかしくないはずなのに、どこにもいない。私はただ、あの瞳がたたえる青だけを思い浮かべた。知的で、変だけど美しいあの人を追い求める。走る。走る。変に悲しくなって息が苦しくなる。心に押し込めたはずの涙が戻ってきそうだ。

あの異形のものから逃げるために、歪んだ校舎を走り抜けた。

 この階段を下っていけば、もうすぐ現実の応間学園でいう旧校舎の昇降口にたどり着く。でも、たどり着くまでにあれに捕まってしまうかもしれないという不安が私にまとわりついていた。もしあれに捕まったら、私はどうなるのだろう。きっと一生、ここから出られないんだろう。先輩にも部長にも、四季島会長にも母さんにも出会えず、みんなに忘れられてしまうのか。

 思わず後ろ向きなことばかりが、泡のようにとめどなく湧き出てくる。そんな未来を否定したいはずなのに、また弱い自分が出て来た。

 帰りたい、部長に会いたい……。

――お前にしかできないことだ。しっかりやれよ。

 ふと頭の中にいつかの言葉が響き渡った。私の足が止まる。

――そうだ。私は誰かがいないと何もできないの? 

 私は、ふと眼鏡に触れた。

 思い出せ。青い星の飾りのように見えるこれの機能は何だった? そう、これは彼が施してくれた録画機能で、部長に直接連絡がいく。このボタンを押せば部長は気がついてくれるかもしれない。これで彼が確実に反応するのかは試してみるまでわからないが、今はやってみるしかないのだ。

息を吸って、吐いて。そこにあった掃除用具ロッカーの横に目をひそめた。そして震える指先で押し込んだ。私は人間で戦えない。おまけに部では雑用。でも、そんな私が何もできないなんて誰も決めてない……!

 レンズが淡く光り、影がうごめく様子が記録される。同時に私は必死に祈った。

どうか、部長に届きますように。

 うめき声をあげる影の、ないはずの目が私をとらえていたような気がした。

影は簡単に階段を駆け下り、だんだんと私のほうへ向かい、そして……再び拳をあげた。

拳を突き上げた瞬間、私は一歩退いたが、校舎が大きな音をたてて揺れる。

ひどい地響きに、足がもつれて床に倒れてしまう。影は、それをいいことにだんだんと距離を詰めてきた。

 やばい、こっちに来る!

『はぁっ!』

 息を止めたその時に、視界が赤色にはじけ飛んだ。振り返ったその瞬間、爆発音を背後に立っていたのは……。

『はー、せっかく妖闇通販で取り寄せたばっかりだったのにもう使っちゃったわ。マジもったいない』

「花子さん!」

 真っ赤な口紅に、首筋からする粉っぽい香り。それを私は全部覚えていた。あの彼女だ。

『人んちの前であんま暴れんなし。前からメーワクしてんのよ!』

それは私に向かって言ったのか、影に向かって言ったのかわからなかったが彼女は私と蜜弥子先輩の肩をつかんで素早く昇降口のほうへと走っていった。あがった煙は、香ばしさを残して銀色の空気の中へ消えていく。

『あいつら、マジで見境ないんだから。人間まであんな執拗に襲うなんてね』

 彼女は私たちを手離し、ケッ、とわざとらしく言った。

「ああ、助けてくれたにゃんね!」

『助けた? べ、べつにアタシがうざかったから追い払っただけだし、そうアタシがね!』

 なぜか彼女の顔は真っ赤だった。なんともわかりやすい反応をありがとうございます。

 ここに彼女がいるとは思わなかったが、また会えたのが嬉しかった。

「ありがとうございます、それと、お久しぶり」

『あんなのまぐれだし! だいたいアンタらのこと完全に許したわけじゃないんだから! なぜかあの後ずっと体が痛かったのよ! それにクッキー忘れていっちゃったしめちゃくちゃ後悔してるんだからね!』

「あれは、何者なんですか?」

 心なしか口元をニヤニヤさせていたように見えた彼女に投げかける。一瞬戸惑ったが、急に真顔になった。

『ああ、この学園の裏世界にうろついてる召使いよ。そう、あいつのね』

 あいつ、と言うのと同時には彼女は顎で廊下の先を示した。

「!」

 細くからまる絹糸が浮かんでいると思えば、それは髪の毛だということに気がつくのにそう時間はかからなかった。

 いつからそこにいたのか。音もなく、彼女は現れたのだった。

『やっほー。どうだった? 楽しかったでしょ?』

 相変わらず宙に浮かぶ彼女は、空に頬杖をして笑った。

「楽しくなーい! こっちは死にそうだったにゃん!」

 少女は腕を突き上げた先輩をニヤニヤとして見つめている。

『ほら、アンタらが探してたのもいるわよ』

「へ」

 つい、口を手で押さえてしまった。

冷たい床に横たわるのは、力なく目を閉じた部長だった。

――そんな。

 私は彼のもとへと走った。

「あ、あまつき、く……」

部長は片手を伸ばし、いまにも消えそうな声で私の名を呼んだ。その手をつかむと、いつにも増して冷たかった。

『ここは妖怪が身を潜める世界。貴方もおとなしくここにいればよかったのに、変な部活つくったり猫又の女に浮気したりするからこうなるのよ』

「浮気? 勝手なこと言うな」

 彼との連絡は取れなかったことの意味をようやくここで胸を突き刺す。部長はこの世界に入ってからあの人に、もしくは追いかけてきたのと同じ影に捕まったのだろう。

私は少女をきつく睨んだ。

「なんでこんなこと」

『だって私のこと敵だとかふざけたこと言うんですもの。私と誓い合った仲でしょう? ほらあの依頼してきた二人いたじゃない。あれ、私が遣わせた妖怪だから』

 私は思い出した。あのなんとも適当な依頼をしてきたあの二人の存在に、震えた。

――あの依頼は、罠だったんだ!

『こんなにもまんまと引っかかるなんて、面白すぎるわ』

「……、今のお前はただ、学園に災厄をまき散らそうとしているだけだろう!」

『貴方、人間に恨みがあってここにいるはずよね。なら私と同じはずなのに』

ねぇ、どうして私のもとへ来てくれないの?

 そう言いながら、少女は部長の頬を指でいやらしくなぞった。彼にはもはや抵抗する力も残っておらず、ただ表情をゆがめている。

 その仕草に、私の拳が震えた。

部長がこの少女といたほうがふさわしいなんて、馬鹿げている。こんなひどいことする人と一緒にいさせたくない。

『なんなわけ。ヤンデレとかキモいにも程があるわよ』

 花子さんが一歩出てきた。そういうあなたはツンデレですよね、というのは言わないでおく。

『なんにせよ、そうやって自分勝手なの、気持ち悪いからやめてくれる?』

『あら、人間といるより私と一緒にいるのがいちばん幸せなはずよ。当たり前でしょ』

とんでもない人――いや妖怪だ。そう思った瞬間、少女は不気味にほほ笑んだ。

『何なら見せて差し上げましょう、彼女の記憶。これを私と一緒にいるのがふさわしいっていうのがわかるから』

「やめろ、ふざけるな!」

 ――彼女の、記憶?

『ここはすべての記憶をよみがえらせる鏡の世界でもあるの。で、私がこの世界の主。そんなこと簡単よ』

 先輩が隣で地団駄を踏んでいたが、少女は見る気も起きないらしい。悪趣味だ。人の記憶を勝手にのぞき見るなんて。それは彼女――蜜弥子先輩も同じようだった。

『申し遅れたわ。私、ユキメ。よろしくね。ってそれはこの体の名前だけど』

 ユキメと名乗った彼女をふたたびにらみつけようとすると、彼女が人差し指を振った時、一面銀色に光って、頭の中に映画みたいなものが流れ込んできたのだった。



***



 気がつくと、あたしはよくわからない場所にいたんだっけな。

よくわからない、というのは、今まで見たことがないという意味だ。暗い。物がバラバラに散らばっていて、かすかな衣擦れの音以外は響かない静かな場所だった。それになんか、さっきから世界が小さく見えるような。

不思議に思い起き上がってみると、そこにあるはずのあたしの手が、人間の手になっていた。

(え?)

「にゃ、にゃ、んにゃバカなー!!」

「やかましいわ、この猫!」

「ハッ! あ、あんたは!」

あたしの目の前にいたのは、さっきの人だ。目つきが悪いけど青いビー玉をはめ込んだみたいに綺麗な目に、対照的な痛ましい首の傷。あの彼が学校の制服のままそこにいた。

「やっと気がついたか。まったく、手間をかけさせるな」

 そこはとても古いアパートのようだった。前に自分が飼われていた家とはぜんぜん違う、壁と畳にはカビが生えていて汚いし、なによりも、部屋が小さい。足がちゃんと伸ばせないくらいだ。

「にゃ、にゃにがどうなってるにゃん? あんた、教えてにゃん!」

あたしが腕を掴むと、その袖はするりと抜け落ちた。

「貴様は、人間の姿を得たのだ」

な――

あたしはじっと手を見つめる。

「あたしは、猫又になって、それで……」

 あたしは高校生の女の子と、その家族に飼われていた。その時の名前はあまり覚えていないけど、いつも楽しかったのはちゃんと覚えてる。最初にあたしを拾ってきて、 親に猛反対されながらも可愛がってくれたミヤコって子の名前も。

 でもある日を境に、彼女はいなくなってしまった。悲しくて悲しくて、きっと妖怪になっちゃったんだ。たぶんだけど、ミヤコちゃんのぶんも生きようって思って。そうしたらこの目の前の男の人と会って、それで……。

どこかで聞いたことがある。ニンゲンに強い念や思い入れがあると、ニンゲンの姿になれるって。誰かが悪ふざけで広めた噂だと思ってたのに、真実であることが身を持って証明された。じゃあ、もしかしてこの人も?


寝ていたからかわからないが、じとりとヘンなものが首筋につたった。

「一つ聞こう。どうして、俺を止めた?」

 腕を組んで眉間にしわを寄せた彼は、たずねてきた。

どうしてって……。

「だって、なにも悪くないニンゲンをいじめるから」

 あたしは素直にそう伝えた。ミヤコちゃんもその家族も、みんな優しいヒトたちばかりだったからあんなことする人を直接みたのは初めてだ。それが許せなかった。

「人間がそんなにいいものか? 俺は嫌いなんだ」

「んにゃ、そんなことないよ! だとしても暴力なんてやめて!」

「何も知らないくせに命令するな! この下等妖怪!」

 男は耳元で思いっきり怒鳴ってきた。猫の耳は敏感だ。すぐに耳に手を当てずにはいられない。自慢の耳が壊れるところだった。

 ひどい。あたしの中で、なにかがちぎれた音がした。

「もーいいよ! いいにゃん!」

 彼は、は? と声をもらしたが、あたしはかまわず続けた。

「ニンゲンが悪いのばっかりじゃないってこと、わかってくれるまでここを離れないから!」

 実際のとこ、ちょっと困らせてみたかっただけだった。こう言ったらどういう反応するのか気になっただけだったのに、彼の顔はいっそう険しくなった。

「馬鹿げたことを。俺の言葉を忘れたのか?」

「そのかわり、ここに住ませてくださいっ! ミヤコちゃんのおうちに戻ったって変な顔されるだけだし、それに!」

 あたしの今の姿は、ちょっとだけミヤコちゃんに似ている。理由はわかっていたが、この姿で家族のもとへ帰っても混乱させるだけだ。まったくやることがないくらいなら、この男をどうか納得させてみたいと、なぜかそう考えた自分がいた。

「まて、話を聞け、俺はまだ……」

「ごはん作るし洗濯もやるし、ニンゲンに必要なことできてないみたいだしさ! ちゃんとできるかわからないけど……」

あたしは小さな部屋を見回した。ちっちゃな台所も、あまり使っていないようだ。もったいないように感じる。

彼も同じほうを見てからしばらくして、言った。

「では俺のことを鏡夜様と敬い、手足となって働く覚悟があるのなら雇ってやろう」

「えー。様付けはちょっとなぁ」

 あたしは冗談のつもりでニコニコ笑ってみせたが、彼は口すらかたく結んで動かさない。

「あっ。し、師匠はどうかにゃ! ししょー、いい響きじゃん!」

 あせって提案してみると、少し間があったものの、彼はしぶしぶ頷いた。

「俺が気に入らないことをしたら即刻退去願うぞ」

「ひー! それだけは!」

 その後、あたしはしつこいというほどに「師匠」の世話をした。

 彼の名は髑髏ヶ城 鏡夜。妖怪『がしゃどくろ』だ。と聞かされても。どうしてあたしはこんなにも師匠のためになりたいんだろう。胸に秘めた知らない感情の名を知るのには、まだまだ時間がかかりそうだった。



***



『こんなのただの泥棒猫じゃない』

 ユキメの声で、記憶が途切れたのに気がついた。目の前でサラサラと音をたてて映像が崩れ落ち、そこには銀色に輝く砂がつもった。

 鏡夜部長と蜜弥子先輩が、こうやって一緒に暮らすようになったなんて知らなかった。というか、部長は先輩のことを殴るような人だったんですか。と、そこで前にニンゲン嫌いだったと言っていたのを思い出す。

「ちがうにゃん。これが全部じゃないし、ちゃんと続きがあるんだよ! 今の師匠はあたしのおかげで出来上がったんだもんね!」

「その通りだ。今の俺はこいつがあってこそだ。悪いが、俺はお前の正体は突き止めたくても、お前のところには決して戻らない」

 部長は横で、ひどくうなだれながらこめかみのあたりを押さえていた。それは自分の閉ざした過去を見られてしまったからか、それとも先輩の記憶を勝手にのぞかれてしまったからか。

 それを聞いたユキメは髪の毛をかき乱した。

『どうしても私は嫌ってことね。何が不満なの?』

「たしかにかつて、二人で約束を交わしたのはおぼえている。ただそれは、俺とお前も生きていたころの話。お互いに今の自分があるはずだ」

 彼女は親指の爪を噛んで、私たちを睨みつけた。学校の上にあるあの石碑に行った以来、部長には何が言いたくない過去があるのはわかっていた。でも私は何も知らない。だって部長は何も教えてくれなかったからだ。それでもわかる。ふざけて私をワカメって呼んだり、眼鏡を直してくれたりしたのは間違いなく今を生きる人間としての彼の姿だと。

「……ひどいです」

 勝手に、私の口が動いた。

「今の部長は今の部長です。なのに、どうしてそれを邪魔するんですか!」

『なんですって? というかあなたが一番気に喰わないのよ。あんた人間なんでしょ? 妖怪の味方をして何になるの』

「何になるとかならないとか、そういうのじゃないです。部長はあなたのような妖怪ひとには惑わされません!」

 私が叫ぶと、あたりはしんと静まり返った。そこでハッとした。どうしてこんなにムキになっているんだろうか。少し冷たい空気を吸って落ち着くと、静寂のなかでユキメだけが舌打ちをしてみせた。

『なにも知らないくせに。いいわ。だったら貴方がずっと追ってきた事件、出来るものだったら解決してみせなさい』

 彼女が指さした先には、部長がいた。

「は……」

それは、突如として突き出された宣戦布告。部長が何か言おうとしたようだが、すぐに花子さんが叫んだ。

『この裏世界の主だっていうアンタが何考えてんの? 意味わからないんだけど!』

『ここでの名前は鏡夜……だったかしら。いい? 今から二十年以上前。この学園で起きたあの事件の真実を掴んでみなさい。ずっと出来なかったことでしょう。この機会だからちょうどいいじゃない』

 ユキメは花子さんを無視して笑った。

『突き止めることができたら貴方の生きたいとおりに生かしてあげる。でも、もし失敗したら……貴方と貴方の新しいお仲間がどうなるかわからないわよ?』

「おい、お前、嘘だろ……」

 きっと、ユキメは本気だ。生きたいとおりに生かしてあげる。その言葉に含んだ思惑は読めていた。彼女は恐ろしい。部長と対の赤い瞳が光る。

『いいわね。どうなの? ちなみに引き受けないとかナシよ』

 部長はずっと肯定も否定もせずに動かないでいた。それでも絞りだすような声で確かにわかった、と言った。

こんなの危険すぎる。ユキメはあんな影に命令して私たちを追いかけてきたし、この世界の主だとも言っていた。もし失敗したらと思うと、とたんに怖くなってきた。

――だめだ。また自信のない自分が出て来た。

『せいぜい頑張りなさいな』

 ユキメの笑い声が聞こえて目の前がまばゆく光ったと思えば、四角い小窓のようなものが宙に現れた。すこし覗いてみると暗い校舎の景色がゆらゆらと揺れている。時間が経って、帰れるようになったのだ。

 ユキメの姿はもう、そこにはなかった。

「部長!」

 私は彼の肩をつかんだ。

「ああ二人とも、無事でよかった」

「部長こそ! どこに行ってたんですか!」

 彼の手には何かに縛られていたようなヒモのあとがあった。ユキメに捕まってしまっていたのだろう。彼の力でさえ及ばないというのに、よく私たちは逃げきれたものだ。

「あのヒトやっぱりひどいよ。自分は事件について全部知ってるからって!」

蜜弥子先輩も泣きそうになりながらこちらへやって来る。部長は激しくせき込んでから言った。

「まさかこんな場所で、またあいつに会うとはな」

「あの、前から思ってたんですけど、あのユキメさんって何者なんですか?」

「あいつは、俺の知り合いだ。ユキメと名乗っていたが、それは恐らく借りているというあの体の名前だろう」

 ユキメと名乗る前は部長と同じで、名前という名前はなかったのだろう。それでも体を借りているというのはどういった意味だろうか。

「というのも、一時期に一緒の場所にいただけなんだがな。が、とてもじゃないが今は、話す気分ではない」

 そこまで言って、彼は顔をそむける。

「どうするんですか、あの挑戦」

「……受けるしかないだろう」

 そう残して部長はよろめきながら立ち上がった。そして、決して振り返らなかった。

 彼女は私たちが成功しようが失敗しようが、危険な思考をしているのは間違いない。

部長をひとりで悩ませることなんてさせない。

 ――そうだ、私も協力するんだ。

私にもできることがあれば、と不確かな手のひらを握りしめた。



 無事に帰ってこられたのはいいものの、その晩はというとすぐには眠れなかった。私の中でさまざまな不安が複雑に混じりあって落ち着かない。掛け布団の中で丸くなって無理やり寝ようと試みたが、結局目を閉じることはなくあっという間に夜が開けたのだった。

「あれ、誰もいないのかな」

昼休み、うす暗い部室前で眠気を必死にこらえていた私は、ドアについた小窓をのぞいてみた。しかし中に人の気配は感じられなかった。部長たちはもはや部室にいるのがデフォルトなのだが、おかしい。蜜弥子先輩さえいれば部長の行方も聞けたのに。でも昨日あんなことがあったのだ、しょうがない。

 ドアに手をかけると、部室は開いていた。といってもここはいつだって鍵なんてかかっていない。私はいつかと同じように、吸い寄せられるように中へ侵入した。

隠れて驚かそうとしているのではないかとソファの裏にまわってみたが、本当に誰もいない。中にはただ掃除したばかりなのにまたダンボールが増えている。

「うーん、掃除だけでもして帰ろうっと」

 せっかくだし、と私は入部したばかりのころを思い出してホウキとチリトリを持ってきた。ただホコリと一緒に不安が床に積もっていく。こんなにも素晴らしい雑用っぷりを見てほしかったが、部室の静けさにホウキを握りしめる力を強めた。考え事をしていると、ホウキの先がガムテープで補強されたダンボールにあたる。そこに横倒しで転がっていたのは、眼鏡が入っていたあのダンボールだった。

 そういえば、きちんとこの中身を見たことがなかった気がする。前に中身が散らばったときはとくに見ていなかったので、つい、興味があって手を伸ばしてしまった。とても重かったような気がするが、何が入っているのだろう。

その興味を後悔したのは、すぐだった。


 私は言葉を失った。


 箱の中に詰まっていたのは、ジッパーつき袋に包まれている赤黒い紙片が二枚と、マネキンの上半身が二体。マネキンは衣装を着ていたが、それはずたずたに裂かれていた。

「そん、な」

 こんなものがここに平然と置かれていたなんて、恐怖におびえた。呪いの七つ道具のようなラインナップに、私は一歩引き下がる。床で偶然広がっていた紙片には、五十音表のようなものと見覚えのあるような地図が手書きされていた。

 イケニエさん。私はふとその名前を思い出した。これを見つけてしまったことは、誰にも言ってはいけない。でも、部長に聞いたら何かわかるかもしれない。次に会ったときもしも決心が出来たのなら、聞いてみよう。

「ごめんなさい、いつかちゃんと返しに行きますから」

私は紙切れが入った袋を拾い上げた。罪悪感が生んだであろう冷や汗をかきながらも、私はふたたび部長を探しに教室棟へと移動する。いない理由はなんとなくわかってはいたものの心配になって三年一組の扉を叩いた。もしかしたら教室にいるのかもしれない。すると四季島会長がすぐに気がついて、こちらに来てくれた。

「あれ、雨月さんだ」

ドアの隙間からくりくりした目がのぞく。私はとっさに先ほどの袋を背に隠した。

「えっと四季島会長。お久しぶりです」

「珍しいね、ここに来るなんて。どうしたのかな」

彼は自分でそうたずねておきながら、あっ、という声をもらした。

「もしかして、鏡夜に用だった?」

 さすがだ。天下の生徒会長様は察しが早い。部長とはまた種類の違う天才だ。とはいえ私がここに来る理由なんてそれくらいしかないことに気がついた。

「そ、そうです」

 すると会長は振り返って教室じゅうを見渡した。そのすきに、袋をポケットに隠す。

「うーん。実はね、今日は彼、どこにもいないんだよね。休みだと思うなぁ。猫屋さんも見なかったし」

 彼が休むのはそう珍しいことではないのか、四季島会長はそう驚いていないようだった。まぁ確かにあれは教室でじっとしているような男ではないが、本当にどこにもいないようだ。

「ありがとうございました。ちょっと髑髏ヶ城部長に聞きたいことがあっただけなので」

「もしかして、部活でなにか大変なことでもあった?」

 どこまでお見通しなのだろう、この人。さっき嫌なことがあったのにも気がついていたらどうしよう。と不安になった。

「え? なんでわかるんですか」

「まず一つ目。まず雨月さんがここに来る目的は鏡夜以外ないよね。僕に用がある可能性も考えられるけどそれは低い。二つ目。そんな雨月さんが頼るのは部長の鏡夜だ。それに三つ目。彼自身がいないのが何よりの証拠だね」

 もう一人の探偵が誕生したような気分だった。手を腰に当てている会長は推理というか、わりと当たり前のことを言っているような気もするけれど、心強い。

「どうかな、鏡夜に似てた? 生徒会長と探偵って両立できたりするかな」

「はい、とても似てました」

 それでも私は無邪気な彼を見て、なんだか安心できた。

「僕がかわりでいいなら、悩み聞くよ」

突然の提案に驚くも、私は相当追い詰められていたのか、気がついたらはっきりと頷いていた。

「結局あの水質調査って何やってたの? あ、都市伝説系ならネッシーとか?」

「いや……まぁ多分そうです」

「へー、そうだったんだ。確かに鏡夜『プールでネッシーを飼いたいのだが』って僕に相談してきたことあったし」

 この人、絶対あれ嘘だったってわかってるよね。でも信じているようにも見えるし、会長もなかなか読めない人だなと思った。

昼休みはどこも人でごった返しているのに、教室棟の裏はそれが嘘みたいに静かだった。私はなんの目的で置かれているかもわからない石のベンチに会長と並んで腰かけた。

「で、どうしたの?」

 腰かけるなり会長は優しく微笑む。私は少し言うのをためらいながらも、口を開いた。

「部長が窮地に立たされているときに、本当に私ができることって何でしょうか」

「君が?」

「はい。……私たち、特に部長が重要な選択を迫られていて、どうすればいいのかわからないんです」

 さすがに詳しくは事情を言えなかったので遠まわしに言った。これで伝わっているのか不安になってチラリと会長のほうを見ると、しきりに頷いている彼がいた。

「それは、雨月さんにかかってると思うよ」

「私にかかってる?」

彼はうんうん、となぜか二回言った。

「君が手助けしてあげればいいんだ。彼に解決できないことがあるのは珍しいけど、だからこそ導いてあげるんだよ。鏡夜は悩んでいないように見えてすごく悩んでいることもあるからね。手を差し伸べてあげるといいよ」

私は気がついた。

 ――そうだ。私が事件について調べればいい。部長のことを何も知らないし誰も教えてくれないというのなら、自分で調べてみよう。失敗は怖い。でもずっとそう言っていられるわけではないのだ。今までの自分は捨てる覚悟でいかなくてはならない。行動するしかないのだ。……それに、会長なら学園について何か知っているかもしれない。

「ありがとうございます、会長」

「とんでもない。他には?」

「会長は、知りませんよね」

会長は私のほうを見つめたまま、少しだけ首をかしげる。

「この学園で昔、すごい事件があったっていうの、知りませんか?」

おそるおそるたずねると、彼はそう聞いて上のほうを見つめて記憶をたどっているようだった。

「それはいつくらい前かな」

――知ってるの?

「二十年前くらい、らしいです」

 そのくらいといったら、母さんがここに通っていたころだ。でもこんな話聞いたことがない。たしかにユキメと名乗った少女は同じ制服を着ていた。

一瞬だけ、会長の目が光ったような気がした。そしてその目が、私を離しはしないとずっと見つめてくる。

「いい? 今から言うことは僕から聞いたって言わないでね」

私はそのまなざしの力強さに動けない。

「……そんな聞かれたらまずいようなこと、喋っていいんですか?」

「だって、雨月さんには絶対の信頼を置いているからね。君はあの鏡夜の助手なんだからさ!」

 その言葉は、やけに私の心を動かした。雑用から助手。部室のダンボールをひっくり返していたころがなんだか、近いようで遠い日のように感じる。そうだ、あのダンボール。あそこに置いてあるということはオカ研の所有物だが、そうとは限らない。あれは何のためのものだろうか。というのはあとで調べよう。今は会長の話を聞くことにする。

「僕もね、何代か前にここの生徒会長をやってた人から聞いただけだから詳しくはないんだけど、部を救ってくれた君のことだ。話すよ」

すると、彼はあたりを見回してから、ただ淡々と話しはじめた。

「もう二十年も前の話、この学園で不可解な事件があったんだ」

会長が言うには、こうだ。

 そのころにひどいいじめがあってね。それが原因である一人の女子生徒が亡くなった。彼女がいじめられた理由はただ、容姿が他と少し違ったというだけ。そういうものだよ、いじめって。学校という場は退屈だ。って別に僕がそう思うわけじゃないけどさ。僕は楽しいよ? でも彼女をいじめていた人たちは違ったんだろうね。学力の差でクラスが分けられて、二組だからといって教師にまで差別されて。二十年前だというから、今以上に劣悪な環境だっただろうね。

 その女子……彼女はたしか一組の非常に優秀な生徒だったんだ。家庭部にも入っていて、一見充実しているようだけど、彼女の容姿を悪く言う女子が表れていじめが始まった。ひどくなるいじめに耐えられなくなった彼女は、旧校舎の屋上から身を投げたんだって。自殺、なんだろうけど、と不確かなのはね、なんと彼女、死体が見つかってないんだ。

 それには瞬く間に学園を恐怖に染め上げた。誰かが片づけたという噂もあったけど、血痕がきれいさっぱり見つからないからそれはない。そう、彼女の名は乾(いぬい)ユキメ。家庭科部の二年生だった。

「そんな、ひどいこと」

「ひどいよね。もう昔のことだから知っている人は少ないんだよ」

私はポケットを押さえた。くしゃ、という軽い音が今までより重く聞こえる。

ユキメ、彼女と同じ名だ。いじめというのは二十年経った今でも世の中からなくなることのない、酷いものだ。優秀な生徒だったはずの乾さんは、なぜこの学園で犠牲にならければいけなかったのだろう。実際に会ったこともないのに、彼女を想うと胸が苦しくなった。


「おい、お前たち」

――え。


 いつからだろうか、足元に第三者の影が伸びていた。

もとより丸い目をさらに丸くした会長の視線をたどると、だんだん細長いシルエットが見えてくる。私はその正体に息をのんだ。

「鏡夜!」

今日はいないはずの部長がそこにはいた。部長が行きそうな場所は全部探したのだが冗談抜きで、まるでどこかから湧いてきたように彼が立っていた。まさに神出鬼没という言葉がよくあてはまる。

「こんな誰もいないような場所で何をしている、しかし珍しい組み合わせだな」

「部長、どこにいたんですか! 探したんですよ!」

「すまん、少し体調がすぐれなくてな。さきほどから来た」

 やれやれ、と言いながら首を振る彼はまぎれもない本物だった。もともと肌が白いので元気な風には見えないが表情はいつも通りに戻っていた。

「しかしお前たちは何を話していたんだ」

不思議そうに眉をしかめる部長を前に、私は口をつぐんだ。さっき四季島会長から聞いたことは言っちゃいけないのに。

「まぁ、嵐君のことだ。大した話はしてなかったということだな?」

「あ、はい!」

 助かった、と思った。つい反射で答えてしまったが私の中でもやもやとするものが渦巻いているように感じたのだった。でもこれは部長のため、みんなのためなのだと無理やり肯定する。私はごめんなさい、と小さく唱えた。

「あの、体調のほうは」

 部長があまりにもケロリとしていたので逆に心配になって訊いた。本当は話題をそらしたかっただけだけれど、まさかそれには気づかまい。

「寝たら治った」

――そんなもんなんですか!

「そこまで驚くな。俺は普通の人間とは違うのだぞ」

そりゃそうですけど、そんな真顔で言われても困ります。

「いや猫屋君が必死に看病してくれたおかげでもある。ずいぶんと疲れていたようでな、寝たら体が軽くなった」

肩をぐるぐると回す彼は確かに生き生きとしていた。でもあまり回すと骨が折れますよ。

「ああ猫屋君も一緒に来たぞ。先に教室に行くように言っておいた」

蜜弥子先輩も無事だったことを知って安心した。いろいろ引っかかる部分はあるが良かった。

ふと鳴る昼休みの終わりを告げる鐘に顔を上げる。と同時に、こんな場所にいる場合ではないことを思い出した。

「ああっ、次の授業、体育でした!」

「それは大変だ。早く行くといい」

「鏡夜、僕たちも戻ろう」

四季島会長は少し先に行った場所で振り返ったが、部長はその場にとどまった。

「いや、俺はあとでゆっくり向かうとする」

「すみません、では!」

 私は飛び跳ねるように教室棟のほうへと走った。そのせいで、小さく手を振る彼の、ふらりとその場に倒れこむ姿を知る由もなかったのだった。



 暑くもないのに、嫌な汗が大量に出てくる。

最悪だ。薄らぐ視界の中で自らの手を見つめる。呼吸というものがこんなにも苦しいだなんて何百年ぶりだろうか。

『どう? ってだいぶ体にキてるみたいね』

 体全体を舐めとるような声が全身を震え上がらせた。目に映る光景が、頭痛を余計ひどくさせる。

「今はお前の姿を見たくない」

何をするつもりか、どこからか現れたユキメは相変わらず妖怪や霊の類らしく浮遊していた。

『そんなこと言っていいのかしら。あのアヤちゃんに似てる女の子、何するかわからないわよ』

彼女はやけに上機嫌に言った。

『私さっき見ちゃった。あの子、貴方たちの部室から何か持っていったわ』

そこまで聞いて鏡夜は我に返った。部室に何を置いていたのかを思い出そうとするが、謎は深まるばかりだ。ホラー映画のDVDの中に彼女好みのものがあるとも思えない。あまり考えたくはないが、まさか彼女は……。


 瞬間、鏡夜は青ざめた。

 


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