化け物バックパッカー、川の守り神を見る。

オロボ46

ずっと屋根を見ていても息がつまる。時にはうまい空気を吸いたい。




 川の底から見える太陽は、まぶしくない。


 ゆらゆらと揺れる空には、雲の変わりにボートの船腹が浮かんでいる。


 ただじっと同じ場所にとどまっているものもいれば、


 ボートの横を通り過ぎていくものもある。




 雲を眺めるように見つめる子供は、


 退屈混じりの泡を出した。











 鋭い日差しの下、川沿いの桟橋に置かれたボートの前に、男性は体を伸ばしていた。


「ちょっといいか?」


 肩を下ろす男性が顔を上げると、そこにはふたりの人影があった。

「市場を見に来たのか?」

 男性は声をかけてきた老人に目を向けながら、近くに建てられた看板を指さす。その看板はボートの料金が書かれていた。

「ああ、ふたり分頼む」


 財布から小銭を取り出すこの老人、顔が怖い。

 派手なサイケデリック柄のシャツに黄色のデニムジャケット、青色のデニムズボン、頭にはショッキングピンクのヘアバンドの独特なファッション。

 その背中には、黒いバックパックが背負われていた。


 男性は渡された小銭を手のひらに乗せて、一差し指で1枚1枚確認した。

「……よし、ふたり分だな。それじゃあ、乗ってくれ」


 男性がボートに乗ると、続いて老人が乗り込む。


 最後にもうひとりの人影がボートに乗り込んだのを確認して、男性はオールを手に握った。


 もうひとりの人影は、全身を黒いローブで身に包んでいた。

 顔はローブのフードを深く被っているため見えないが、体つきや座り方は女性に近い。興味深そうにボートを眺めるその様子は幼い少女のような反応だ。






 ボートは川を下る。


 その先には、屋台を乗せたたくさんのボートが川に浮いている。


 3人を乗せたボートは水上に浮かぶ市場を横切っていく。




「あんたたち、観光か?」

 オールでこいでいる男性に話しかけられた老人は、市場を眺めているローブの少女をちらりと見た。

「観光というか、旅をしている最中だ」

「どこかに向かっているとか?」

「特に目的地は決めてない」

「ふうん……じいさんが孫を連れて余生を旅で過ごすか……うらやましいな」

 目を細める男性に対して、老人は頭をかいた。

「……いや、この子とは別に血がつながっているわけじゃないが……」

「オイラはとてもそんなことを想像出来ないよなあ。なんせ、結婚しないままもうすぐ30なんだぜ? あ-、早く彼女できないかなあ……」

「……」

 男性は老人のことばを聞かず、ため息をついた。




 その時、ローブの少女が何も言わずに川の底を指さした。


 その様子に気づいた老人は、その指さす方向を眺めた。




 ボートの下を、巨大な魚影が通過した。


 クジラほどの大きさの魚影は、水面に上がることもなくボートの進行方向へと泳いでいった。




 老人は横にいる男性に目を向けた。

 男性は確かに魚影を目で追っていたが、特に驚いている様子はなかった。むしろ、いつでも説明できると言わんばかりに口を閉じている。

「なんだ? さっきの魚影は」

「ああ、それはここの守り神だ」

 その説明に老人とローブの少女は互いに顔を合わせて、首をかしげた。

「守り神ぃ? 本当にそんなものがあるのか?」

「そんなドン引きしているような言い方はよしてくれ。あくまで通称だ通称。オイラの父ちゃんが観光客には守り神と紹介しろって言われているから、そう言っているだけだよ」

 先に納得したようにうなずいたのは、ローブの少女の方だった。頭を男性から川に向け、魚影がまだ近くにいないかを探すように眺めていた。

 老人は何かを考えるようにあごひげをなで、男性に向かって再び口を開ける。

「守り神って言い方は、なにやら伝承があるように感じるが、そういうのはないのか?」

「あるにはあるけど……オイラもよくわかっていないんだよな。なにやら、昔は川の上流に都市を建てようとしたけど、洪水で沈んだとかなんとか……」

「ということは、上流には沈んだビルとかがあるわけだな」

「それは間違いないな。一部の人はあの魚が変異体だとか言っているけど……調査する時に限って姿が消えるから、よくわかっていないんだ」


 ふと老人が川の中を眺めようとした時、ローブの少女の視線のようなものを感じた。


 ローブの少女は、老人のズボンをじっと見つめていた。


「どうかしたか、“タビアゲハ”」


 タビアゲハと呼ばれたローブの少女は何かを言いたそうに口を開けたが、男性の方に顔を向けると首を振ってしまった。











 その夜、川にはボートは浮かんでいなかった。


 店を構えていたボートでさえ、姿は見えない。


 その川沿いを、老人は懐中電灯で足元を照らして歩いていた。


 やがて、老人の後ろから足音が聞こえてきた。




「“坂春サカハル”サン、ドウシタノ?」


 奇妙な声が聞こえてきて、老人は後ろに懐中電灯を向けた。

「ああ、びっくりした……タビアゲハか」

 坂春と呼ばれた老人は、光に照らされるタビアゲハを見てほっと胸をなで下ろすと、続けて「おまえは夜の散歩か?」とたずねる。

「ウン。昼間ノ守リ神ノ話ガ印象ニ残ッチャッテ。坂春サン、モシカシテ落トシ物?」

「わかるか? 実はスマホのひとつが見当たらなくてな……どこかに落としたのかもしれない。川に落ちたことは考えたくないが……」


 近くの足元を懐中電灯の光で照らす老人に対して、タビアゲハは光に頼らずに川の前に立つ。


「探ス必要ハナイミタイ。スマホハ守リ神ガ持ッテイルンダッテ」


 坂春はその言葉の意味が理解できないように首をかしげると、川に懐中電灯を向けた。




 昼間に見た巨大な魚影が、川沿い近くで浮いていた。


「キット、スマホヲ返シニ来タンダヨ」

 タビアゲハはその場に座り込んで魚影を眺めている。

「本当か? 顔を出す気配は見せないが……」


 坂春はゆっくりと魚影に手を差し伸べる。


 魚影が動くことは、なかった。


「姿ハ見セタクナイト思ウ。騒ギヲ起コシタクナインダヨ、キット」

「面倒くさいやつだな……」

 坂春が頭を一差し指でつついている横で、タビアゲハはローブを止める胸のボタンに手を触れていた。


「ダッダラ、私ガ潜ッテ取リニ行コウカ?」


 タビアゲハの提案に、坂春は目を丸くした。

「いや、それは危険だろ」

「デモ、スマホガナイト困ルデショ?」

 なんともないように答えるタビアゲハに、坂春は考えるように頭をかいた。

「深さはどのくらいあるかわかるか?」

「見タ感ジ、足ガツクグライ浅イ」

 この暗さ、普通の人間は見ただけで深さなどわかるはずがない。

 しかし、タビアゲハははっきりと見たように自信のある言い方だった。




 川の前で、タビアゲハは背中のバックパックを下ろした。


 続いて、着ているローブをその場に脱ぎ捨てた。


 表われたのは、影のように黒い女性の体。


 ミディアムウルフの髪形から、青い触覚のようなものがある。

 まばたきをすると出し入れするその触覚は、本来は眼球が収められるべき場所から生えていた。


 タビアゲハは川にゆっくりと足を入れると、その勢いのまま体を沈ませた。






 川の中、タビアゲハは魚影の下に潜り込んだ。


 魚影の正体は、黒い魚。


 横から見ると、まるでヒラメのように平べったい。


 下から見ると、人の形をしたワカメが張り付いていた。


 その中で、背の低いワカメの手元が光っていた。




 タビアゲハが近づき、その光るものに手を触れようとした。


 それに気づいた背の低いワカメは、光るものを取られないように手の内に隠した。


 取り損ねた手を眺めて、タビアゲハは困ったように触覚を出し入れする。


 背の低いワカメはひとつの黒い目玉でタビアゲハをにらんだ。




 その時、隣のワカメが背の低いワカメの手をたたいた。


 手から落ちていった光を、タビアゲハは見逃さずキャッチする。




 タビアゲハはワカメの大群にお辞儀をすると、水面へ上がっていった。


 それを見送るかのように、ワカメの大群が手を振った。


 ……背の低いワカメだけは、悔しそうに手を伸ばしていたが。






「ハイ、返シテモラエタ」


 びしょぬれのまま、タビアゲハは坂春にスマホを渡した。

「ああ、わざわざ取りに行ってすまなかったな。それよりも早く着替えてくれ」

 目を背けながら坂春がスマホを受け取ると、タビアゲハは置いていたバックパックの横にあるタオルで体を拭き始めた。


「タビアゲハ、さっき思い出したんだが……昼間、俺を不思議そうに見ていただろ? あの時なにかあったのか?」


「……アア、アノ時ハ隣ニ人ガイタカラ後デ言オウト思ッテタケド……川カラ緑色ノ手ガ伸ビテキテ、坂春サンノポケットノ中カラナニカ取リダシテイタ」


「そうか。それであの守り神が持っているって言っていたんだな」


「ソレニシテモ、チョット悪イコトシチャッタナ。アノ子、トテモ大切ソウニ持ッテタカラ」


「だからといって、返さなくていいとはとても言えないものだがな」




 タビアゲハが体を拭き、畳まれたローブに手を伸ばす。


 その瞬間、タビアゲハの触覚が左右に揺れた。





 まるで、先ほどまでいた魚影を探すように。

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