絶対に負けられない闘い

薮坂

不退転の意思


 ──走るのが正解か、それとも走らないのが正解か。

 僕は逡巡して、結果足を止めた。それくらいに慎重にならなくっちゃあいけない。事態はそれほどまでに切迫しているのだ。

 僅かな判断ミスが死を招くこの問題。僕が直面している闘いは、非常にシビアなそれだった。


 昼に食べた恵来庵メグライアンの胡麻味噌つけ麺が原因か、いやそうに違いない。僕の大好物のそれを糧に、あの魔物は成長を遂げ今にも飛び出そうとしている。

 誰しもが一度は命のやり取りをしたであろう、その手強い相手。自身の腹の中に巣食う魔物──、つまりは便。僕の相手はそいつなのだ。



 穏やかな春風に包まれているのにもかかわらず、僕の額には脂汗が伝っている。これはまずい。決して短くはない僕の人生経験からして、腹の中のブラック・デビルは、間違いなく液状のそれだった。液状の悪魔リキッド・デビルは油断ならない存在である。固形の悪魔ソリッド・デビルと違い、ヤツはフタの役目を果たさない。どれだけ出口を固く絞ろうと、ヤツは僅かな隙間を見つけて侵入(いや侵出か)を試みてくるのだ。


 ──まずい。絶対防衛ラインの崩壊はもう目前である。敵前逃亡は許されない。それは社会的な死を意味するからだ。

 肉体的な死ならどれほどマシだろう。負けて死ねば、恥は現世に掻き捨てられる。もちろん汚名(文字通りである)は免れないが、死にゆく僕にはノーダメだ。しかし。だがしかし。

 社会的な死は、どこまでも続いていく。ライフ・ゴウズ・オン。「悲しいことや落胆することがあっても、今まで通りの生活を続けなければならない」という、本当に正しい意味でのイディオムだチクショウめ。


 ──クソ。いやクソの話には違いないのだが、とにかく。とにかくまずい。ここで立ち止まることは本当に死を意味する。とにかくセーフポイント便所に辿り着かねばならない。これ以上ない急務である。しかし焦りは禁物だ。

 時間を稼ごうと走れば、その振動がヤツを刺激する。今にも爆発寸前のトリニトロトルエンにうっかり触れるバカなんていやしない。いたとして、そんなヤツはもうこの世とサヨナラしているだろう。まだ世捨て人にはなりたくない。社会人の僕には、次のアポだってあるのだ。


 ええと、次の予定は二時からだっけ。あと三十分以上もある。時間までこの大きな公園で休憩しようとしたのがそもそもの間違いだったのだ。

 これは絶対に負けられないビジターゲーム。ホームゲームでの失点など笑い話で済ますことができるが(今年は既にホームで二失点している)、ビジターゲームに負けは許されない。まして次のアポの前なのだ。

 生き恥をさらして他社に訪問などできるものか。こんなクソみたいな僕でも、社の代表として先方に訪問するのだ。「クソみたいな僕」ではなく「クソと僕」が訪問などできるハズがない。


 ──まずは落ち着け。心はホットに、頭はクールに。思考は柔らかに、そしてケツは固く締めていく。僕はその呪文めいた言葉を心の中で呟いて、意を決して歩を進めた。


 大丈夫だ、自分のバイオリズムは読めている。あらゆる事物に波があるように、便意にももちろん波がある。要は、その波形がフラットな時を狙って走ればいいのだ。もちろん輝かしい未来──つまりはトイレへと向かって。


 自分との闘いが始まる。絶対に負けられない。絶対にだ。僕はキューピー人形よろしく不自然な格好になりながら、頭の中で弾き出した一番近くのトイレへと向かう。

 公園の中のトイレはダメだ。ここからなら奥へ奥へと向かわなければならないし、ここは大きな公園だからそれなりに距離がある。それに勾配によるアップダウンが激しい。なによりも注意しなければならないことは、腸の上下運動だ。


 つまり。この場合の最適解は、公園入口付近に存在するコンビニなのである。素晴らしい、素晴らしいぞコンビニ!

 「便利」という意味のコンビニエンスを、これほど体感しているのは世界広しといえ僕くらいだろう。一歩間違えれば「便意」とも聞こえかねない言葉だが、そんなことは今どうだっていい。というかそろそろうまく頭が回らなくなってきた。


 危機を察知して呼吸を止めると、「ぐるるるる」と猛獣が哭くような音が腹から聞こえた。ヤバイ。ヤバイぞこれは。バイオリズムの波形が急降下している。ストップ安まっしぐら。この状態で下手に動けばジ・エンドは免れない。しかし動かなければセーフポイントには辿り着けない。


 なんて悲しい二律背反。もうどちらかしかない。

 走るか、それとも走らないか。結局はこの二択に尽きるのだ。



 瞬間、覚悟を決めて。僕は走り出した。緑あふれる公園の中を、一陣の風となって駆けていく。

 ──三分だ。それがリミット。子供の頃あこがれたウルトラマンも、三分で数々の勝負に勝ってきている。僕はウルトラ警備隊。僕が負ければ世界が終わる。その気概で駆け続ける。


 間に合え。間に合ってくれぇぇ!





 世界新記録間違いなしのスピードで、僕は目標のコンビニに到着した。しかしここが勝負所。トイレを目視した瞬間、溢れ出る安心感を無情の心で黙殺しなければならない。じゃないと別のものが漏れ出るのは必死。安心できるのは便座の上だけだ。


 あああ! 声にならない叫びと共に奥のトイレへと向かう。ライク・ア・ゾンビ。僕はドアノブに手をかける。もう少し。もう少しだ……!




 ──ガチャリ。

 目の前に飛び込んできた「使用中」の赤文字。

 

 あああああ!


 僕は踵を返すと、再び春の風の中を走り出した。となりのコンビニへと向けて。




 その闘いの結果は、もちろん伏せさせて欲しい。僕のなけなしの名誉のために。



【終】

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絶対に負けられない闘い 薮坂 @yabusaka

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