陸上部のマネージャーにフられて100メートル走る人
関根パン
陸上部のマネージャーにフられて100メートル走る人
日の沈みかかった夕暮れの河川敷に、人影は少なくなっていた。草野球ともいえない、野球ごっこもどきをしていた子供たちも「帰りましょう」の放送とともに帰っている。
高校の指定ジャージを着た俺は屈伸、伸脚、上体そらし、アキレス腱伸ばしを黙々と行った。体操を舐めてはいけない。怠れば怪我の危険が増える。
週末は競技会の予選なのだ。俺は100メートルの走者として参加する。怪我などもってのほかだ。
「ミヤモト先輩」
不意に後ろから声がかかった。振り返るとそこには、俺とは色の違うジャージを着た女子がいた。ひとつ年下の後輩、タザワだ。
付け加えるなら、俺の所属する陸上部でマネージャーを務めているタザワだ。さらに付け加えるなら、俺が昨日の夜に公園に呼び出して告白してフラれたタザワだ。昨日俺をフッたタザワだ。
「タザワ……」
昨日から目の前にいてもなんだか遠くに見えるタザワは、屈託のない笑顔で言った。
「練習、お付き合いしますよ」
別のお付き合いは無理でも練習には付き合ってくれるらしい。
「よく俺がここにいるってわかったね」
「だって、先輩。毎日、部活の後もここで自主練してるじゃないですか。私、知ってますよ」
そんなことまで言ってくれる女子なら、誰だって付き合えると思うだろう。しかし、昨日言われた返事はこうだ。
――「すみません。ついさっき別の人にコクられて付き合うことになったんで。先着順です」
なにその理由。タイミング悪すぎるじゃん俺。
俺は昨日、俺をフッた女に言ってやった。
「ありがとう。じゃあ、手伝ってね」
タザワをあっさり邪険にできるほど神経は太くなく、また今日はタイムを測りたい。タザワに居てもらえると助かる。
河川敷の遊歩道の柱にはメートル表示がある。これを利用して俺とタザワは100メートルの距離をあけた。
「じゃあ、せんぱーい! いきますよー!」
100メートル彼方からタザワの声がする。
「位置について、よーい、ばーん!」
俺はクラウチングの姿勢から走り出した。目指すは10秒台に乗ること。フォームの研究、筋力トレーニング、体調管理、どれも惜しみなくやってきた。
そして、唯一気を惑わされていたタザワのことは、もう残念な結果が出ている。俺にはもう陸上しかない。100メートルしかないのだ。走ることだけが俺の生きる意味。走ることに全神経を集中させた俺に不可能はない。
俺はタザワの前を通過した。ストップウォッチを止める「ピッ」という音が小さく聞こえる。
「ハァ、ハァ。何秒だった?」
「9秒58です」
は?
「き、9秒58って。世界記録じゃん」
「世界記録ですね。おめでとうございます」
いやいや、そんな馬鹿な。いくら失恋のヤケクソパワーが出ていたとしても、10秒台目指してたレベルのやつが世界記録出せるほどブーストするわけはない。
「もう一回ちゃんと測ろう」
俺はスタート位置に戻り、再びタザワの掛け声で100メートルを走り抜けた。
「ハァ、ハァ。何秒だった?」
「5秒23です」
「5秒!? なにそれ、人間の記録じゃないよ!」
「まあ、そのくらいスピード出てましたもんね」
確かに今まで感じたことのがないほど、高速で景色が通りすぎていったけど、いくらなんでも5秒はおかしい。
「もう一回測ろう」
俺はスタート位置に戻り、再びタザワの掛け声で100メートルを走り抜けた。
「1秒02です」
「はあ!?」
「0秒台惜しかったですね」
「いや、じゅうぶんすごいでしょ。ていうか、おかしいでしょこれは」
「でも、ほんとにあっという間でしたよ」
確かにジェットコースターでも乗ってるみたいな風を感じたけど、1秒で100メートルなんてもう「走る」の領域から外れている。
「もう一回……」
測ろうと思ったが、なんだか怖くなってきた。
「やめちゃうんですか?」
「いや、その……、このままいくと光速を超えるんじゃないかと」
「おもしろそうじゃないですか。やりましょうよ」
「でも……」
「光のかなたで会いましょう」
そう言ってニコッと微笑むタザワに促されて、俺はスタート位置に戻った。
「よーい、ばーん!」
俺はタザワの掛け声で走り出した。
途端に景色がぐにゃりと歪み、沈んでいたはずの太陽が高速で西から登り、東へ消えていく。空は青くなったかと思うとやがてとっぷりと暗くなり、また夕暮れの赤に変わった。
「ハァ、ハァ……。なんだ……今の……?」
場所は同じ河川敷だが、あたりを見回してもタザワの姿はない。かわりに見つけたのは、俺の姿だった。ベンチに腰掛けてサブバッグをごそごそとあさり、タオルで汗を拭いている。
俺? なぜ俺がもう一人?
いや、待て。あのタオルは昨日使ってたやつだ。つまり、あれは昨日の俺。ここは昨日の河川敷。
どうやら光速を超えた結果、時間が逆行してしまったらしい。俺はただ10秒台に乗りたかっただけなのに、まさか失恋に時空を超えるパワーがあるとは。
そこで気が付いた。今、タオルで汗を拭いているということは、昨日の俺は練習を終えたところだ。このあとタザワを公園に呼び出して告白してフラれる。理由は、さっき別の人にコクられたから。
なるほど。
俺は急いでタザワに電話をかけて公園に呼び出した。
「付き合ってほしい」
「うん、嬉しいです。よろしくお願いします」
ほんとに先着順でOKだった。
それから俺は、慌ててタザワに言った。
「あのさ。変なこと言うけど、このあと俺からまた電話が来て、もう一回ここでコクられると思う。でも、それは断って」
「はあ……。あの、どういうことですか?」
どうってそりゃあ、そうしないと俺がタイムリープできない。
陸上部のマネージャーにフられて100メートル走る人 関根パン @sekinepan
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