筆、走らす。

幸 石木

第1話

 泰絵先輩に出会ったのは入学式の部活勧誘パフォーマンスのときだった。俺はそのとき知らなかったけど、去年のコンテストで優勝してた先輩は同級生の間でかなり噂になってたらしくて、壇上に上がったときに歓声があがってたのを覚えている。

 第一印象は、やけに背の低い女の子が出てきたぞ、てな感じ。両手に抱くようにして持ってたパフォーマンス用の筆が拍車をかけてたかもしれない。テクテク歩いて来たのも加えて、本当に高校生? 小学生じゃないよね? なんて油断してた。――先輩が筆を走らせるまでは。

 圧巻、なんて言葉じゃ表せないくらい圧巻のパフォーマンスだった。こんなとき語彙力がないのが悔しい。でも本当に、目が離せなくなった。

 大筆を操る先輩は体全部を使って字を書いていた。それは紙の上を泳いでるみたいに見えた。でも妖精みたいな感じじゃなくて、うまく言えないけど舞踊って感じだった。あれがトメ、ハネってやつなんだろうな。

 そうして俺達に見えるように掲げられた「龍」の一字。その横に堂々と立つ先輩に俺は見惚れてた。

「かっこいい……」

 そうかこれって、一目惚れってやつなんだろうな。


「――おーい、ボケっとすんなよー」

 気付けば目の前に先輩の呆れ顔があった。

「あ、あっスミマセン」

 焦って声が詰まっちまった。……顔が熱いの、バレてないといいけど。

「まったく、誰のための居残りだと思ってんの」

 そう言って先輩の顔がむくれる。かわいい。

 でもずっと見つめてはいられない。床に広げた半紙に視線を急いで移す。

「スミマセン」

「もう分かったから、書く書く。うちの書道部に入部しときながら字が壊滅的に下手って、ホント、よく入ろうと思ったよね」

 そう。先輩目当てに勢いで入部したは良いものの、俺は自分の字が自分で読めなくなるくらいヘタだったのだ。

「その、先輩のパフォーマンスに惹かれて」

「聞いた聞いた。恥ずかしいくらい大声で言ってたもんね、入部のとき」

「あはは……」

「ってこらこら、筆止まってる。さぁ書く書く」

 急かされて筆を動かす。いま俺がやってるのは臨模と言って、つまりは模書だ。見本の通りに字を書き写す練習。

 ちなみに見本は先輩の字だ。それだけで大分やる気が出てくる。……でも、

「先輩、思ったんすけど、なんで酔っ払いの書いた字を真似て書かなきゃいけないんすかね」

 見本の見本。先輩が俺のために書いてくれた字は『蘭亭序』って文の中の一文だった。

「永和九年ってずっと書き続けるのもしんどいんすけど……」

「はぁ」

 先輩はすごく呆れた顔をした。

「書聖と称された王羲之の最高傑作だよ? ずっとお手本とされてきた書道の基礎の基礎。だからここから始めないと」

「でも酔っ払った時の字っすよね? 元の画像見ましたけど、ミスったとこ重ね書きしたり塗り潰したりしてて汚……」

「だからスゴイの」

 先輩が俺のセリフに被せて、そして続けて言う。

「それでもその字が素晴らしかったの。書聖もあとから清書しようとして、一度もその時の字を越えられなかった」

「えと、たしか率意っすよね? 誰に見せようとか考えずに心のまま作り上げた、でしたっけ?」

「そう。つまり蘭亭序は書聖の心をそのまま書き写してるってわけ。そんな自然な字が気合を入れた字よりも素晴らしかった。それがスゴイの」




 王羲之は目前の自書にため息をついた。これほど歴然と差があるものだろうか、どちらも自分の書いた字だというのに。過去の自分を越えることがこれほどまでに難しいとは。

 宴に酔い、浮かれ、頭の回らぬままに書いた詩集の序文。蘭亭序。

 これの清書を試みて早や七年、今日も薬酒を食らって筆を取った。しかし、筆を取る指が日々震え出したのに諦観を覚えない訳がなかった。

 王羲之は誇りある男であった。ここ会稽の内史を辞して、詩歌と酒と釣りそして名士と交わることを楽しみとしつつ、その筆の腕を隠すことなく誇ってきた。興が乗れば何であろうと字を書いた。それがただの扇を金扇に変えるほどの価値があると知っていた。それほどの自負があった。

 それがまさか、記憶が飛ぶほど酔った日の自分に負けるとは思いもよらなかった。

 彼は始めから書が上手かった訳ではない。長年の修練によって神品の域に達したのであり、よってこの蘭亭序の草稿を越えることは自分にとって当然のこと。

 そう、思えていた。

「親父殿」

 不意の声によろよろと振り返ると、そこに息子がいた。

「献之、来ていたのか」

「親が床に伏せっていると聞いて帰らない者はおりませぬ。それが師であればなおさら」

 献之は清書をのぞき込んだ。

「これは……素晴らしい出来栄えではないですか」

「ふん、ひよっこめ。まだ書の是非が分からんか」

 羲之は嘆息した。献之が言う。

「ええ。……分かるまで生きてもらわねば困ります」

「言いおるわ。――どれ、久しぶりに出ようか」




「書聖の字は龍や虎に例えられるくらい力強いの」

「あ、あのっ、それ聞いたことあるっす。王羲之が書いた木の看板を新しくしようとして削ったら、削っても削っても墨汁が染み込んでたって」

 先輩は嬉しそうに笑った。どうにか話について行けそうだ。

「そう。それが入木道の元ね」

「入木道?」

 しまった。先輩の顔がむくれた。

「書道のこと。まだまだ勉強不足ね」

「スミマセン……」

 謝る。すると突然、先輩が俺の握る筆の柄をつかんだ。

「えっ、ちょっ!」

「ふんふん、ちゃんと強く握ってるじゃないの」

 俺は緊張してアタフタ。情けない。でも先輩は気を良くしたみたいだ。

「ふふ、佐伯、あんた才能あるかもね」

「えっ、マジすか!?」

 パニクってるせいで何が何だか、よく分からないけど褒められたぞ。

「うんうん。書聖の息子王献之も能書家として名を馳せてたの、二人で二王なんて呼ばれてるんだけど、そんな二人のエピソードで書聖が王献之の筆を取ろうとして全然取れなかったってのがあるの。つまり、それくらい筆を強く握ってる方が才能あるってこと」

「おおお」

 なんかすごいやる気になってきた。

「ふふ、単純。すぐ目の色変えるんだから」

「いやそりゃ、そうっすよ。先輩に褒められたらそう――」

 先輩の顔の向こう、窓に白鳥が飛んでいるのが見えた。




「鵞鳥の声は人を楽しくさせる」

「それは親父殿がその声を好きだからでしょう。この声を聞いて普通は美味しそうだと思うものです」

 二人は大池のある庭に来ていた。羲之はそこに鵞鳥を数羽飼っていた。

 羲之は笑った。

「あの飢饉の時は流石のワシもそう思ったものだ」

「自分はまだ小さくてよく覚えていませんが、大変だったそうですね」

「おう。あの時はまだ内史だった。飢えて死にゆく民衆を助けようと必死に頑張った。しかし大勢が死んだ。地獄のような日々だった」

「死んだものは来世で親父殿を恨むでしょうか」

「来世などない」

 羲之は言い切った。

「人にあるのは今この時のみ。だからこそ今を楽しまなければならぬ」

「蘭亭序でも、そう書かれていましたね」

「おう。生死は表裏ではない、別だ。よくいう輪廻など嘘っぱちだ。人には今しかない」




「いやいや、あれガチョウ」

「え、あんな白いのに!?」

 顔が熱くなる。ただでさえ恥ずかしいのに、指摘されたのが先輩だからもっと恥ずかしい。

「でもいいのが見れたね。ガチョウって書道のシンボルなの。――私たちに頑張れって言ってくれてるのかも」

「なんか、ロマンチックっすね」

 そう言うと先輩の顔が一気に赤くなった。

「やば、恥ず。今の忘れて」

「いやぁ、無理ッス。今の先輩すごくかわいいっす」

「なんでそういうとこ押しが強いんだ……」

 プイッとよそを向かれた。でも窓ガラスに反射して、照れた顔が見える。かわいい。

「……なんか、いまなら書聖を超えられそうっす」

「え?」

 先輩がポカンとした顔で俺を見た。




「この先も人の道は辛く険しいだろう。しかし人は人の生を生き抜く以外に道はない。そうして生きても、未来の人には我々が古人を見るのと同じような感覚で見られるのだ」

「悲しいですね」

「おう。ただ古今、未来、人の想いというのは元を同じとするものだ。それを伝える術が分かるか献之」

 献之は深く頷いた。

「後之覽者、亦將有感於斯文」

「そう。未来の人も、この書、この文を見て同じ想いを分かち合うに違いない。――字とは永久不滅なのだ。そこに込めた想いも」




「できました!」

「いやいや佐伯。ホンキ?」

 先輩はすごく不満そうな顔で俺を見上げる。

「ホンキっす! 先輩が来年のオリンピック記念書展に出品できるまで、俺、これ見せませんから!」

「違う違うそこじゃなくて、書いた字を見せないことで書聖を超えた気になってるところがホンキ? ってこと!」

 先輩はすごく深いため息をついた。

「ホンキっす! 誰かに見せるまでは書聖超えの一文なんすよ!」

「佐伯の中ではね」

「そうっす! ――率意っすよね、心のまま誰に見せるつもりもなく書いたっす! 先輩だけに見てもらいたくて書いたっす!」

「や、ちょっ」

「込めた想いは負けてないっす!」

 言い切って先輩を見る。先輩は耳まで赤く茹で上がってた。

「……恥ずいって」

「先輩! 応援してます! 頑張ってください! 俺、これ見せたいです!」

「あーもうわかったから。……そろそろ帰ろっか」




「ワシは楽しく生きたよ。苦難あれど、楽しく生きたよ」

 床の上、咳込みながら羲之が言う。

「一生を楽しみ、そして想いを記録せよ、献之」

「それは書家の義務でしょうか」

「いいや、それが書家の楽しみなのだ」




「……来年楽しみだね」

「はい! 先輩の字がオリンピックで使われるなんて楽しみで仕方ないっす」

「や、ちがくて……まぁ、そういうことにしとく」

 先輩の顔は赤くて、それが夕陽に当てられたせいなのかも分からないけど、何だかこの先、良いことが起きそうな。そんな予感がしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

筆、走らす。 幸 石木 @miyuki-sekiboku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ