三月の春雷【KAC2021作品】

ふぃふてぃ

三月の春雷

 三月九日、快晴。

 雲ひとつなく澄み渡る青空の元、仲間と別れの曲を歌えた事を、とても喜ばしく思う。

 親への感謝。恩師への感謝。友人への感謝。感謝、感謝が走り回るような、一日になりそうだ。


 そんな素晴らしき日に、私は突っ伏している。黒い水道付きのテーブルに突っ伏す。隣には籠に入ったビーカーやら試験管。

 近くの磯臭い水槽が、ブクブクと泡を吐き出し、薬品の匂いが独特の空間を作り出していた。そんな、午後の昼下がり。


 そんなとは、どんなだ。

 ツッコミが来そうな内容だが、一人芝居が良いところ。こんな良き日に、理科室なんかに訪れる物好きはいない。だからこそ、ココを選んだというのも、あるけれど……。


 ブルッと震えるスマホには「頑張れ」のスタンプの応酬。友ではなく、恋愛に走ってしまった私には、勿体ない程のエールの列挙。


 そう、私は、白峰しらみねアオイは恋をしている。同級生の青木シンジに、今日こそは想いを告げる。それを以って、私の中では卒業できたと言える。この三年間の中学生活に終止符が打てる。


 もう一度、スマホを垣間見る。約束の時間は近い。時計を意識すると。不安が募る。スマホの写真をスライドし、緊張を友人の顔で和ませる。懐かしい記憶の数々。


「早く済ませて、デニーズでみんなと、合流しなくちゃね」


 明るくも健気な少女の声が、誰もいない理科室に溶けて消える。

 申し訳程度に開けられた窓からは、温和な風が、春の芽吹きの香りを、運び入れていた。麗か。薄桃色の彩りをもつ陽気だった。


 カツン、カツン、カツン。


 この足音。私には分かる。彼に違いないと。女の勘を働かせる。友達からは、よく女っぽくないと言われるが、勘くらいは性別を偽らないことを。願うばかりだ。


 先生の可能性は無いか?


 疑問に思うが、それはない。理科の先生。シゲセンこと、大熊茂雄しげおは野球部顧問。今頃、男泣きを披露しながら、卒業生相手にシートノックで、汗を流していることだろう。


 カツン、カツン、トン。


 背筋を伸ばす私。ガラリと開くドア。

 見慣れた顔。求めていた顔。ユニフォームを着た青年が歯に噛む。ポリポリと人差し指で頬を掻く。薄汚れた練習着には、真新しい土汚れの後と、長年培ってできた、努力の泥染み。


 緊張が走る。握り拳に脂汗。震える手足を感じ取るも、私はスクッと立ち上がり、頭を下げる。


「きゅ、急に、ごめんね」

「おっ、おう」


 カーテンがハタハタと波を描く。トン、トン。と、彼の足音が大きくなる。ドクン、ドクンと、自分自身の鼓動が、大きく高鳴るのを、緊張という物質が、血流に乗り、脈打つかのように感じた。


 普段は何気なく話せるというのに、今日はダメ。先程まで、突っ伏して、考えていた内容は、もう何処か、海の藻屑にでも、沈んだようだ。

 ただ、彼の足元を見る事しか出来ない自分が歯痒く、情けなさが積もっていく。


「り、陸部の方は、挨拶いったのか?」

「ごめんね。部活中だったよね」

「この後、三組は集まるのか?」

「二組はサイゼだよね」


「……。」

「…………。」


 とりあえずの会話の交差。噛み合わない波長の連鎖。気まずくなるだけが募る現場。ーー私が伝えたい事は、そんな事じゃないのに。

 べっちょりした手の平を、制服のスカートで拭い、意を決して前に出た。


 互いに距離の近さを感じ、心臓は更に飛び上がる。顔が見れない。上履きを履いていない彼の足元は、紺色のソックス。その一点を見つめている。

 早く伝えて楽になりたいという焦燥。走る感情に身を委ね、徐に口を開く。



「私は…昔から……」


 これを言ってしまえば、もう昔の関係には戻れない。幼馴染みの関係に甘んじていれば良いじゃないかと、思考は逃げ腰のアイデアを、さも妙案かの様に絞り出す。私は弱気を払拭するように、握り拳をさらに強く握る。


「シンジのことが………」


 次の一言が出ない。足が竦む。迅速に脈打つ鼓動。自律神経の乱れ。口が渇く。口内がペチャペチャと張り付き、気持ちが悪い。


「私は…昔から……」


 あぁ、やってしまった。振り出しに戻った。

 言い直した訳ではない。勢いをつけた訳ではない。もう前には進めない。


 頭が真っ白だ。何も考えられない。




「私は…昔から……」

「俺は昔からアオイのことが好きだ。付き合ってくれ。」




 ズドンと脳天を貫くように稲妻が走る。脳内のニューロンネットワークは、一斉に電気信号を送り出し、頭頂から手の末梢、足の末梢神経までを、ビリビリが駆け巡る。


 麻痺、脳内麻痺。


 それでも、頭は働く。理解に及ぶ。その証拠に、胸の奥底から込み上げてくる何かに、目の前が滲んでくる。瞼にしがみついていた、生暖かい液体は、万有引力によって地に引っ張られ、頬を伝う。


 口角の切れ目から液体が入ってくる。私の体に戻ってきた涙が、塩辛く、甘く、ほんのり酸っぱい。


 唇を重ねる訳でもなく、抱き合う訳でもなく、手を取り合う訳でも、ただ嬉しくて、嬉しくて。



「はい、おねがいします」



 無意識だけど、優しい声で返事が出来たのが、嬉しくて。やっと彼の顔を見る事が出来たことが、嬉しくて。彼も涙を流してたのが、嬉しくて。歯に噛む笑顔が嬉しくて。泣いた。



 三月の雷鳴、晴天に轟くような彼の声を、私は一生、忘れる事は無いでしょう。

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