仕事中毒な妻と何もできない僕
澤田慎梧
仕事中毒な妻と何もできない僕
「ねぇねぇ、もう十二時をだいぶ過ぎたよ。そろそろお昼休みにしないかい?」
「……あっ、もうこんな時間か」
僕の言葉が届いたのか、はたまた自分で気付いたのか。眉間にしわを寄せながらパソコンの画面を凝視していた妻が、ようやく顔を上げてくれた。
時刻は既に十二時半。昼休みと呼ぶにはやや遅い時間だ。
「さぁて、今日は……カップ麺でいいか」
「今日は、じゃなくて今日も、でしょう? インスタントばっかり食べるのは体に悪いよ」
僕の苦言は妻の耳には全く届いていないようで、彼女は電気ポットのお湯を再沸騰させると、シーフード味のカップラーメンにお湯を注ぎ、いそいそとリビングのソファへ移動した。
苦笑いしながら、僕もそれに続く。
――新型ウイルス騒動が始まって、既に一年以上が経過していた。それまで、オフィスで沢山の部下を叱咤しながら「鬼課長」として辣腕を振るってきた妻も、今では立派なリモートワーカーだ。
テレビでは盛んに「リモートになって仕事に集中できない人々」のことが報じられていたが、妻はその逆らしく、いよいよ仕事にのめり込むようになっていた。
子供達がまだ小さかったら、度々「嬉しい仕事の邪魔」をしてくれたのだろうが、長男は既に高校生、長女も中学生だ。それぞれ親に負担をかけないように、自分でやれることは自分でやってくれるので、殆ど手間がかからなくなっている。
それが少し寂しくもあり、嬉しくもあった。
「いただきます」
三分が経ち、妻がカップラーメンをすすり始める。中年女性とは思えぬ豪快な食べっぷりは、学生時代から変わらない。
僕は、彼女のそういうところが大好きだった。変わらずにいてくれることは嬉しいが、そろそろ歳も考えて欲しい、とも思う。
「もう少しゆっくり食べたら? 仕事だって、そんなに急ぎじゃないんだし」
そう声をかけるが、妻の箸は止まらない。シーフードラーメンは驚くべき速度で汁ごと容器から消え去り、妻の胃袋に収まってしまった。
「ごちそうさまでした」
律義に両手を合わせて「ごちそうさま」をしつつ、テーブルの上のタブレットを手に取る妻。動画でも観て息抜きするのかと思いきや、なんと仕事関係の資料をチェックし始めていた。
困った
「昨晩だってちゃんと寝てないんでしょ? 今日はリモート会議もないんだし、少し仮眠でもとったらどうだい」
「……う~ん」
僕の声が少しは届いたのか、妻はタブレットをテーブルの上に戻すと、ソファに沈み込むように寝転がった。
結婚した頃に買ったそのロングソファは、すっかりくたびれてしまっている。けれども、そのくたびれ具合が心地よいのか、妻はやがて静かな寝息を立て始めた。
「……やっぱり、疲れていたんだね」
そっと妻の寝顔を覗き込む。目の下のクマは濃く、顔色も悪い。やはり働き過ぎなのだ。
――と。
「……たぁくん」
「うん、僕はここにいるよ。大丈夫だからね、
妻が僕の名を呼んだ。寝言だ。
だから僕も、聞こえていないことを分かった上で彼女の名を呼ぶ。
果たして、その声が届いたのか。彼女の口元がほんのりと笑みを浮かべ――やがて、閉じられたまぶたの隙間から、一筋の涙が零れ落ちた。
僕は、その涙を拭ってやる事すらできない。
リビングの壁に目を移す。そこには、妻よりも十歳ほど下の間抜け面の男が満面の笑みを浮かべた写真が飾られていた。
他ならぬ僕の写真――僕の遺影だ。
僕が不慮の事故で死んでしまってから、既に十年が経とうとしている。
どんどんと年を取っていく妻と違って、僕は写真の中と同じ姿のまま、成仏も出来ずに我が家に留まっていた。
「……たぁくん、会いたいよ」
再び、妻の口から寝言がこぼれる。
子供達がまだ小さい間は、忙殺されて僕の事を思い出す暇もなかった。彼らが大きくなってからは、仕事が忙しくなり全てを忘れる程に没頭することができた。
けれども、子供達が手を離れ、リモートワークになって一人の時間が増えた彼女を、途方もない孤独感が襲うようになった。その原因は、言うまでもなくこの僕だ。
死んで十年経つのに、まだ僕に未練を残してくれていることは正直嬉しい。けれども、それ以上に辛いし哀しい。僕の死が、彼女に呪いをかけてしまったのだ。
声も届かない、手で触れることもできないこの身では、何もしてあげることができない。傍にいて、届かない言葉を投げ続けることしか。
「せめて、ずっと傍にいるよ。それだけしかできないけど」
そっと彼女の髪を撫でようとするが、その手はすり抜けてしまった――。
(了)
仕事中毒な妻と何もできない僕 澤田慎梧 @sumigoro
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