第5話 ご飯は食べたの?

 葉ちゃんは私が落ち着くまで優しく背を撫でてくれた。次から次へとあふれ出る涙がようやくひと段落したとき、彼女は「あやちゃんに連絡して来るから、こたつに入って待ってて」と言う。


 私は大人しくその指示に従って、友彦さんがいるこたつにそろそろと寄って行った。


「失礼します……」


 私が遠慮がちに言うと、彼は優しい声で「どうぞ」と言ってくれる。家の主人からも許可を得られたので、私はそっとこたつに体を滑り込ませた。


「……温かい」

「それは良かった」


 ちらりと友彦さんを見ると、彼は細い目をさらに細めて笑う。


「……」


 私はこたつの布団に体をきゅっとくっつけて、ぬくぬくとした。すると冷たい体がじんわりと温まってくる。


「あ、そういえば」


 友彦さんは、何かを思い出したように呟いた。

「ご飯は食べたの?」

「え?」


 尋ねられて私は思わずきょとんとした表情を浮かべた。まさか自分のことを友彦さんに聞かれるとは思わなかったのである。


「もしかして、食べてないんじゃないかなぁって思っただけなんだけど」

「……ご飯、食べてないです」


 私は学校から出てから何も食べていなかった。千円程度のお金は持っているのだから、コンビニに寄れば菓子パンを買うことが出来たが、そういう考えに至らなかった。


「食べてなかったら、夕飯準備しようか? お腹空いてるでしょう」


 問われて、私は空腹具合を感じてみる。だが、寒い中あれほど歩いたにも関わらず、不思議とおなかが空いていなかった。

 私は俯いて、首を横に振った。


「あんまり食欲、ない、です」

「そっか」


 友彦さんの残念そうな声に、私はますます俯く。折角の申し出を断ってしまったことが、申し訳なくて私は縮こまって謝った。


「ごめんなさい。折角聞いてくださったのに……」

「ううん。そんなことないよ。気にしないで」


 それから友彦さんが立ち上がってどこかへ行ってしまい、私は気に病んだ。

 何と言ったら正解だったのだろうか。

 やはりお腹が空いているといったほうが良かっただろうか。

 しかし出してもらったものを食べられなかったら、そのほうが失礼ではないだろうか。


「……」


 私は一人で悶々とし、部屋の中はテレビから聞こえて来る演者の笑い声だけが響いていた。


♢♦♢


 私はスマホを持ってキッチンの方へ行き、葉ちゃんに見てもらえるように、再びスマホスタンドにセットし作業を始める。


 ホットケーキミックスの粉を、袋からボールに移して、そこに割っておいた卵と牛乳を指定の分量を入れて、泡だて器でぐるぐるとかき混ぜる。これが滑らかになれば、生地の準備は完了だ。


「今回も大きいフライパンでするの?」


 葉ちゃんがそう聞いたので、私は苦笑しつつ「ううん」と言った。


「前回難しかったから、今回はこの――」


 といって、カメラの視野に、使用するフライパンを入れる。


「――フライパンで焼きます」


 すると葉ちゃんは少し驚きつつも「小さいね」と言った。

 そうなのだ。私が使うフライパンは、家庭でよく使われているものに比べるとかなり小さい。


「直径二十センチだって」

「へぇ。自分で買ったの?」

「うん」

「すごいじゃん」


 叔母に褒められ、私は思わず頬を緩めた。たかがフライパンを買ったくらいで褒められて喜ぶなど、まるで幼い子供だなと思う。しかし葉ちゃんが、本心で言ってくれているのが分かるので素直に嬉しくなってしまう。


 私は口元が緩んでしまうのを堪えながら、フライパンを新調した理由を話した。


「前回のこと覚えてる? 友彦さんが作ってくれたホットケーキ再現しようと思って、家にあるフライパンでやったらひっくり返すとき大変でさ」


「覚えてるよ。あのときは、上手くいかなくて、オムレットみたいに生地が折れちゃったんだよね」


 私はガス台に小さなフライパンを載せ、火をかける。


「うん。慌てて直したけど、結局痕が残っちゃって綺麗にはならなかったな」


「私が『どうせ八等分にしてトッピングするんだから、気にしなくていいじゃん』って言ったんだけど、英里はすごく悔しがってたよね」


「友彦さんのホットケーキを完全再現するのは無理かもと思いつつ、自分なりに『こうすれば出来るんじゃないか』って考えてたんだよね。七割くらいの確率で成功するんじゃないかなぁって。だから失敗したときに悔しかったの」


「そっか」


「でも、やってみて余計難しいって分かった。友彦さんが実際に焼いているのを見ていた時も思ったけど、おっきいフライパンの中に入っている生地を軽々とひっくり返すってすごいことなんだね」


 画面の中の葉ちゃんは、うんうん、と大きく頷いた。


「確かに、あれは中々のわざだ」

「うん」


 私はフライパンの頭上に手のひらを置いて、温度を確かめる。ほんのりと温かい。どうやら、フライパンの準備が整ったらしい。


 ――いい感じだ。


 私は心の中でそう呟く。今度こそ、上手くいきますように。


「じゃあ、焼きます」

「うん。頑張って」


 葉ちゃんに励まされ、私はサラダ油をフライパンにさらっとしき、フライパン全体に広がるように持ち上げて右へ左へ傾ける。


 油が均一にフライパンに広がったので、そこへ滑らかになった生地をゆっくりと流し込んでいく。フライパンの深さの半分ほど入れ、私は火加減を弱火にする。


 ここからが重要な時間だ。

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