イロとイロ

湖上比恋乃

イロとイロ

 おじさんの周りは、時間の流れがはやい。

 母さんの弟であるおじさんは、私には全く理解不能な研究を仕事にしている。家に遊びにいくと、いつだって最新のもので溢れかえっている。仕事に必要なのか、単なる嗜好なのかはわからない。おじさんの言うことはときどき、突然理解不能になる。


 夕食のあと、母さんに「ちょっとおじさん家行ってくるね」と告げて、自室に引き上げた。これがいちばんはやい。実体で行くとなると結構遠いし、晴れた日に外出するのは危険だからだ。自分の意識を映像体にして転送できる装置を頭からかぶる。ちょっと重たいから、ベッドに横になって使うのが常だ。家庭用のそれが普及しはじめてもう何年にもなる。家にはおじさんから提供されたものが、ずいぶん早くからあった。おじさんにとって〝最新〟じゃなくなったものが転送されてくるからだ。最新モデルでは寝っ転がらなくても首が痛くならないくらい軽いらしい。一番に欲しいとねだった私が最も旧式を使い、母が最新式のひとつ前の型を使っている。最新は更新されていく。

 真っ暗な視界に電源がはいり、地図が広がった。登録済みの場所が点在している。視線を向けることでおじさんの家を選ぶ。瞬きを二回。

『イロくんの家 に行きますか?』

 また、瞬きを二回。三回しちゃうとキャンセルになるので、いつも少しだけ緊張する。

 また暗くなって、明るくなると、山の中にいた。中腹くらいにあるこの家は、隣家どころか近所もあったもんじゃない。昔は他に住む人もいたようだけれど、雪がひどくって揃って山を降りたということだった。

 鳥が鳴いている。名前はわからない。わからないけど、さえずりがきれいだと思う。

「いいねおまえたちは。寄生されなくってさ」

 鳴きながら遠ざかっていく。深まる秋を象徴するように、乾いた音をたてながら木の葉が舞い落ちる。風が吹いたらしいが、実体のない私には感じられなかった。

 生身で来たときは、生体認証で中に入れてもらえるから早い。映像体だけだと確認に時間がかかってしまう。このへんもきっと、最新モデルならすぐなんだろうな。


 ひとつも靴のない玄関。私だって脱ぐものがないから、そのままだ。

「イロくーん。おじゃましまーす」

 研究室にこもりっぱなしで聞こえてやしないだろう。殺風景な廊下をすすむ。目の前のドアを開けると、物で溢れたリビングが出迎えた。予想通りおじさんはいない。でもおじさん以外ならなんでもある。

 下手に触ったり座ったりすると、どこかのなにかが作動して、私の知らない〝最新〟が働きだしてしまう。だからいつも決まった場所にいる。新しくもなんともない、私が置いてとねだった普通のソファだ。うっかり捨てられたり転送されても困るので、目立つところに名前を書いておいた。今となっては恥ずかしいが、誰に見られるものでもない。背もたれにデカデカと書かれた字を見るたびに、そんな思考が行ったり来たりする。

 何日も姿を見ないことだってあるけれど、今日会えなかったらまた明日来ればいい。自分の部屋でいるより、おじさんに会えるかもしれない部屋にこもっていたほうが有意義な気がする。

 でもやっぱりさみしいから、バーチャルイロくんに相手してもらおうっと。

 意識的に目を閉じるとまた地図が現れる。求めている画面ではないので、左上から視線を流してメニューをおろした。

 録画しておいたバーチャルイロくんのなかから、今の気分「さみしいとき」を選ぶ。巣ごもりを終えたおじさんを外に引っ張り出した日だ。そんな日ばっかりといえばそう。振り分けたときの私の気分が「さみしいとき」に見たいな、だっただけだ。

 もちろん天気は雨。人体に寄生する種が発見されてから、花粉が飛ぶ時期はとくに外出を控えなければいけなくなった。雨の日なら、市販のマスクでなんとかなる。

 実体で遊びに来ていた私は、傘も、マスクすらも置いて外に出た。濾過されない空気を吸いたかったし、濡れてもいいから外にいるという実感が欲しかった。おじさんは、マスクを置き去りにした私を追いかけて出てくる。罠といえばそう。振り返ると困った顔がある。バーチャルイロくんの前にいるのは、過去の私だ。今の私はそんな顔を見ながらさみしさをまぎらわせている。もっといえば口元はたぶん、ゆるんでいる。

「イロちゃん、そろそろ終わり! ほら! 入って!」

 おじさんの名前は、ヒイロ。小さいときにうまく言えなくって、それからずっとイロくんだ。私の名前はイロハ。母さんももうちょっと考えてくれてもいいと思うんだけど、おじさんはそのせいでイロちゃんと呼ぶ。

 この家の周りには、よほどうまく風が吹かない限り、有害とされる花粉が届かない。

 母さんに説明していたのを、ドアの向こうでこっそり聞いていた。だからなんの不安もなくマスクを外した。でもイロくんは、うまく風が吹いてしまったら、を想定する。私が外にいるときだけ。

 口元がゆるみすぎて息がもれでた。

「イロちゃん、なに、笑って。楽しそうだね」

 驚いて目を開けたとたんに、バーチャルイロくんは本物のイロくんに変わった。ひょろりとしていて、いつもオーバーサイズの服を着ている。その下には、筋肉がしっかりついていることを知っている。研究には体力が必要なんだとか。

「イロくん! いつから⁈」

「来てたんだね。声かけてくれればいいのに」

 マグカップをすすりながら笑っている。巣ごもり中はどれだけ呼んだって聞こえやしないくせに。

「いや、いつから! 今日は出てこないと思ってたのに!」

 うそだ。出てきてほしいと思ってた。

「ちょうど集中が切れたときに、イロちゃんが入ってきた記録が見えてね。いつもはそのまま寝ちゃうんだけど、出てきてみた」

 ソファに並んで座る。

「で、なに見てたの?」

「バーチャルイロくん」

 膝を抱えて顔をうずめる。ちょっと声がこもったけど、これだけ近いんだから聞こえているはずだ。

「録画しておいたイロくんで、思い出を反芻してたの」

「いつのまに録画されてたの。おれ以外にやったら犯罪だよ、それ」

 イロくんにだったらいいんだ、と思うと恥ずかしさが薄れて笑いがこみあげてきた。

「最近の女子高生はそんなことするんだ」

「最近じゃないし。女子高生でもないし」

「え! いつのまに卒業してたの!」

 いま何月だっけ、とうろたえるおじさん。

「十一月で、私は今年の春から高校生」

 なんだ、うそか。とちょっと安心した様子なのはどうしてだろう。

「そんなわけで、女子高生の私は明日も授業があるからもう帰るね」

 バッと勢いよく立ちあがった私から遅れて、イロくんもゆっくり腰をあげる。

「今度は実体でおいでよ。最近は花粉も落ち着いてきたし」

「最近じゃないし」

 笑っちゃう。もうすぐ冬なのに。

 イロくんの周りは時間の流れがよくわからない。私なんかよりはるか未来に生きてる気がする。目まぐるしい気もするし、ひどくゆっくり流れている気もする。イロくんが死んだあとに役立つかもしれないものを、今のイロくんが研究している。私には今しかないけれど、イロくんには過去から未来までひとつづきになった何かがある。たぶん。

「おやすみ」

「おやすみなさい」

 玄関先で見送られる。べつにソファに座ったままでも帰れる。家の外じゃなくてリビングに座標を合わせることだってできる。なんなら前はそうしていた。玄関から出入りするようにしたのは、イロくんからのお願いだ。

 見送る、という過程を経ないと、一緒に住んでる錯覚に陥っちゃうらしい。それで私を探してしまったこともあると聞いて、たいへんむずがゆくなった。私を探すイロくんを録画したい気持ちを抑えつつ、それならばと家の外に座標を合わせなおしたのだった。

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