鳴けない蛍 後編
「ご無沙汰だな、千尋」
最寄り駅の改札前で鞄から折り畳み傘を取り出そうとしていたら、久々にその声を耳にして反射的に振り向いた。紺色の布傘を手にした村瀬は時間のわりに酔っ払っている気配はなく、代わりに疲労の色が濃く見えた。自分と同じく、残業だったのだろう。時刻は夜の十時を過ぎている。
「村瀬も仕事長引いたの?」
「後輩のミスのカバー。そっちは?」
「部署全体でばたばたしちゃって」
「ふたりとも災難だったな」
階段を上り、地上に出る。昼過ぎから降りだした雨は一度も止むことなく、遅くまで一生懸命仕事したサラリーマンたちの上にも無慈悲に降りかかる。来週には本格的に梅雨入りすると朝のニュースで言っていた。傘を開くと自然とため息が漏れ、思っているよりずっと疲れていることを実感させられた。村瀬はそんな僕を見て仕方ななさそうに笑うと、少し前を歩きながら喋り始めた。いつもなら僕を待って横並びに歩いてくれるが、そういう気遣いを忘れる程度には本人も疲れているのかもしれない。
「最近千尋ちゃん、呼んでも来てくれないじゃん。どーしたんだよ」
「いや、呼べば来ると思ってるほうが変だって。っていうか、村瀬が呼ばないだけだよ」
「そうだっけ」
「そうだよ」
会話はそこで不意に途切れてしまった。
どちらが原因だったかと言われたら、恐らく僕だろう。村瀬から連絡が入っても気付かなかったり、なんとなく放置したりすることが増えた。理由は自分でも明確にわかっているが、口にするにはあまりにも情けない。そのうちに村瀬から連絡が入ることも減り、今日久々に顔を見て話している。
「で、最近どうだったよ」
前を歩く村瀬がくるりと振り向く。僕はやや逡巡したのち、やがてこう口にした。
「黒田さんに会った」
「どの黒田さん」
「お前のゼミの後輩。灰谷さんの同期」
村瀬は一瞬考え込むと、「えっ」と短く声を発して立ち止まった。僕の傘と村瀬の傘がぶつかり、水滴がばらばらと地面に落ちる。
「なんで?」
「うちの総務課にいた。お前の後輩だっていうのは、つい最近知ったんだけど」
「あー……そう」
歯切れ悪そうにそう言うと、村瀬は苦々しい顔で進行方向に向き直り、再び歩き始めた。僕もすぐ後ろについて歩く。
――それに、そうすれば村瀬さんは私のことを忘れないでしょう?
黒田さんの言葉が思い出された。なるほど、これは確かに。
「なにか言ってた?」
「いや、特に。知り合いですよってだけ」
「そうか」
「……ごめん、嘘ついた。むかし告白したことあるよって」
「言ってんじゃねーか」
言いにくいことではあったが、特になんの理由もなく嘘をつくことは気が引けたのですぐに白状する。村瀬は呆れたような声をあげて、小さくため息をついた。疲れているところにこういう話はヘビーだろう。自分で話題を振っておいてなんだが、そう思った。
「人に好かれてるってことだし、そんな苦い顔しなくても」
「そういうのを実績と捉えられる性格だったら楽だったんだろうな」
自嘲するように言う村瀬だが、そういう性格の奴が一番嫌いなのだということはよく知っている。もっと言えば僕だってそんな奴は好きではないし、村瀬がそういう性格だったらこんなに長いこと友達やっていないと思う。
「だって、それまでどおりに接するのが難しくなるだろ。それってすごく……俺にとっては不便なことだったわけよ」
「煩わしかったってこと?」
「そこまでは言わないけど」
それまでまっすぐ傘を立てていた村瀬が、軸の部分を肩にもたれさせる。僕と彼のあいだに紺色の壁ができて、急に距離が空いたように感じた。
「仲良くしてくれた人ほど、そうなると寂しい」
見えないけれど、なんとなく村瀬が俯きながらそう呟いているのがわかった。紺色の壁をじっと見つめながら短く返す。
「……そう」
「まあ、信じられないくらい贅沢な悩みだけどな、こんなの」
そう言うと村瀬は途端に明るさを取り戻し、こちらに笑顔で振り向いた。傘もきちんと立っている。布で隔てられている状態だとどうしていいかわからなかった僕も、ほっと息をついて軽口を叩いた。
「聞く人が聞けば刺されそうな悩みだね」
「だからお前にしか話してねーよ」
交差点で赤信号に引っかかりながら、やいのやいのと言い合っていると、ようやくいつもの調子で帰路を辿れているような気がしてきた。
黒田さんの微笑みが思い出される。それなりの年月を経ても村瀬の顔色を変えられるというのは端的に言ってすごいし、これこそが彼女のしてやりたかったことなのだろうと思うと、人の恋心というのは厄介な呪いなのだと実感せざるを得ない。
きっと僕が知っている以上に、村瀬は何人もの人たちに呪われてきたのだろう。
ほたるさんは、誰かをそういう意味で呪ったことがあるだろうか。ふと彼女のことが頭をよぎった。途端にすっと頭の奥が冷えるのを感じる。こういうことを考えるとき、僕は目の前の男のことを思わずにはいられないらしい。これはもはや一種のコンプレックスのようなものだ。勝負していないのに勝手に負けている。頭を振り払い、友人の言葉を思い出した。「被害妄想が激しい人間はもてない」。もてないことは、多分よくないと考えたほうがいい。
「明日は暑くなるみたいだな。湿気も相まって最悪だ」
もうすぐ家に着くというところで、村瀬がうんざりしたようにぼやいた。
「降らないだけマシだよ」
真っ暗な空を見上げながら僕は応えた。
「来週からはずっと雨なんだから」
電車の中はどこか湿っぽい匂いがして不快だった。土曜日の昼前、僕は奇跡的に座れた座席に深く沈み込んでため息をつくと、ポケットからスマホを取り出し、さっき駅のホームを歩いているときに来た新着メッセージの通知バナーをタップした。ショートメッセージアプリを読み込むまでのあいだ、ちらりと時間を確認する。十一時三十七分。待ち合わせには充分間に合う。
『今時間ある?』
送られてきていたのは相変わらず簡素な文面だった。こいつの頭の中には「用件に拠る」という言葉はないのかもしれない。用件が送られてきたところで、今日これからは時間がない。淡々と返信を打ち込む。
『今はない。どうしたの』
『ちょっと電話がしたい。時間が空いたら教えて』
『わかった』
こいつからの電話はあまりいい予感がしない。恐らく村瀬辺りから「最近千尋が暗い」というリークでも受けたのだろう。この前被害妄想がどうとか、そんな妙な相談をしたこととも関連付けられているはずだ。素っ気なく見えてお節介な、そういう友人だ。
目的地である駅が近づき、車内に無機質なアナウンスが流れる。電車は徐々に減速し、左右に大きく揺れた後、完全に停止した。僕はなるべくゆっくりと立ち上がると、人ごみのあいだを縫うように通り抜け、車両の出口を目指した。
休日の新宿駅は雨にもかかわらず混み合っていた。階段脇の柱の横で一度立ち止まり、ホームの屋根からぶら下がっている案内板を見上げる。待ち合わせている改札はこの先にある階段から行ったほうが早い。人の流れに逆らいながら長いホームの上を歩き続け、目的の階段を駆け足で下っていく。そうして新宿駅の東口に辿り着くと、改札の向こうで僕を待っているほたるさんを見つけた。無数の人々に紛れながらコンコースの柱にもたれかかっている。腕にはきちんと畳まれた青い傘をかけている。
「ほ――」
人ごみを抜け、彼女のもとに歩み寄る。そしてもう少しで声が届くというところまで来て、ようやく彼女が誰かと喋っていることに気が付いた。
セミロングの茶髪。赤色が強い口紅。はっきりと引かれたアイライン。
とっさに足を止め、少し離れたところからその光景を眺める。急に立ち止まったせいで後ろから歩いてきた人が肩をぶつけ、ちっと舌打ちをしていった。しかし、それすらもあまり気にならなかった。僕の視線の先で、黒田さんが毛先を揺らしながらほたるさんの前で笑っている。久々に会う学友に向けるに相応しい、模範的な笑顔だ。一方のほたるさんは、再会に驚いているのか、はたまた別の理由か、戸惑いが隠せない表情で目の前の黒田さんを見ている。ふたりが話している内容は、ここからは聞こえない。しかし、近づくことも少しためらわれた。
戸惑い、あるいは後ろめたさ、罪悪感。ほたるさんがこんな表情をしているのは初めて見る。このまま僕が近づいたら、またいつもの顔に戻ってしまうだろう。聞き分けのいい彼女、いい子な後輩の顔。もう少しだけ観察していたい。もしかしたらほたるさんのことをよく知るということに繋がるかもしれない。
そんな期待がふと心に芽生えた瞬間、黒田さんはひらりと手を振って歌舞伎町方面の階段を上っていってしまった。去り際に唇が「また遊ぼうね」と動いたのが見えた。ほたるさんはそれに曖昧に頷くと、小さく手を振り返して笑った。よく見ないとわからないような、微かな笑みだった。
「ほたるさん」
黒田さんを見送ったのを見届け、ようやく彼女に声をかける。ほたるさんはびくっと大きく肩を跳ねさせると、真横の僕を見上げ、
「あ――千尋さん、こんにちは!」
といつものように朗らかな笑顔を見せて言った。横に開いた口元から八重歯が覗く。それを目にした瞬間、ざらりと嫌なものが胸を撫でるのを感じた。ほたるさんの笑顔を見てそんな感覚を覚えるのは初めてのことで、僕は彼女を見下ろしたまま少しびっくりしてしまった。
「千尋さん?」
眉間にしわを寄せた僕を怪訝に思ったのか、不安げな声でほたるさんが呼ぶ。僕は斜め下に視線を伏せると、「いや……」と口の中でなにかを言い訳っぽくぼそぼそと呟いた。自分でもなにを言いたいのかわからない。あいだに沈黙が下りる僕たちには目もくれず、素知らぬ顔で行き交っていく人々の声が、やけに大きく耳に響いた。
「さっきの……」
じっと僕を見上げてくる視線に耐え切れず、見切り発車で言葉を絞り出す。ほたるさんは「ああ」と先ほど黒田さんが上っていった階段のほうを振り向いた。
「見てたんですね。さっきのは大学の友達です。ゼミが一緒の」
「知ってる。黒田さんだね」
食い気味に言葉を被せると、階段に向いていたほたるさんがゆっくりとこちらを振り向いた。その目からは隠しきれない驚きと、ともすれば慄きのような感情が見て取れた。どうして知っているのか――きっと僕との会話だったり行動だったりを思いだしているに違いない。残念ながらそこに答えはないのだが。僕は言葉を続ける。
「ごめん。彼女、うちの総務課なんだ。ちょっと前に知ったんだけど言いそびれてた」
「……び、っくりしました。そうだったんですね。やだ、なんで知ってるんだろうってすっごい考えちゃいました」
ほたるさんはそう言って、ほっとしたように相好を崩すと、僕の二の腕をぱしっと叩いて笑った。呼応するように笑みを返す。果たしてちゃんと返せただろうか。今までで一番自信がない。でも笑うしかない。ほたるさんが笑っているのだから。
「千尋さん?」
彼女が顔を覗き込んでくる。僕は視線を落とすと、彼女が傘を持っていないほうの手をそっと握ってみた。ほたるさんの手は自分と比べて幾分か冷たく、皮膚が薄く感じられる。僕はこの華奢な手を握ると、ときどき薄い皮膚の下をとぷりと満たす液体について思い浮かべ、間違って破ってしまうのではないかと心配になった。
意を決して視線を上げ、ほたるさんの顔を覗き返す。
「さっき黒田さんと話してるとき、なんだか暗い顔をしてなかった? なにかあったの」
お互いにしか聞こえないような声音でゆっくりと問う。ぱちりと瞬きをしたほたるさんの瞳からはなんの感情も読み取れない。が、次の瞬間にはにこっと口角が上がっており、
「そんな顔してました?」
と首を傾けていた。三日月形に細められた目はいつもと変わらない。
なんだろうか、この感じ。
違う。
わけのわからない焦燥に襲われた僕は、彼女が次の言葉を紡ぐ前に質問を重ねる。
「むかし嫌なことをされたとか、逆にこちらがしてしまったとか――だってほら、ほたるさんがあんな顔してるの初めて見たから。ストレスを感じてる顔っていうか、僕の前ではしないでしょ」
「考えすぎですよ」
「それに、黒田さんとはもともと仲がよかったのに、途中からあまり話さなくなったって聞いてる。君は理由もないのに人を遠ざけるようなタイプじゃないだろう」
そう口にした刹那、ほたるさんの視線がぐらりと揺らいだのを見逃さなかった。口元からすっと笑みが消え、八重歯が唇の影に隠れる。戸惑いが表面に出てくる。僕はそれを見て、なにか核心に迫ったような感覚を覚えた。さっきは「違う」と思った。今度は「違わない」。きっとそうだ。絶対に。彼女の手をぎゅっと握りしめる。
「そんなことも話したんですね」
「飲み会で向かいに座ったときに」
「そうだったんですか」
ほたるさんの声は少し震えているようにも聞こえた。
「でも、そんな深い理由はありませんよ。ただ、なんとなく」
「本当に?」
「本当ですよ」
手を握り返される。揺れていたはずの瞳はまっすぐ僕を見つめているように見えた。迷子の子どもに視線を合わせたような、穏やかなぬくもりを湛えた瞳だった。彼女には僕が迷子のように見えるのだろうか。不安がって、一刻も早く安心したいと願う迷子に。でも僕には先ほどのほたるさんのほうがよほど迷子に見えた。彼女はなにを隠しているのだろう。ひた隠すようななにかを彼女は持っているのだろうか。
「八重歯」
僕にとってとても重要な単語を口にする。世界中のどこを探しても、こんなに緊張した面持ちで八重歯と口にする奴はいないだろう。ほたるさんは当然僕の意図がつかめないらしく、唇をいっと横に広げて見せた。笑顔でこそないが、彼女のチャームポイントが顔を覗かせる。白く濡れた八重歯はいつもと違わず甘そうで、僕はそれを苦々しい気持ちで見つめた。
「黒田さんが」
「はい」
「君たちが大学三年生のときに行ったゼミ合宿の動画を見せてくれたんだ」
僕があまりにも低い声で話すからか、ほたるさんは相槌を打たなくなった。代わりに神妙な顔つきで次の言葉を待っている。僕らの横を女の子のグループが不穏なものを眺めるような顔で通り過ぎていった。
「ちょうどキャンプファイヤーの動画で、ほたるさんが隅のほうに映ってた。隣には村瀬がいて、炎の前では女子が出し物をしてて――」
一度言葉を切ると、ほたるさんがなにかを言いたげに唇を開いた。僕は続けるべきか少し迷って、やがてあとを任せるように口を閉じた。
「千尋さんがなにを見たかは、なんとなくわかりました」
八重歯の話と関連付けたのか、ほたるさんは即座に僕の話を飲み込んで言葉を繋いだ。二年も前のことなのに、よく出てくるものだと思う。印象的だったのだろう。とても嬉しかったのかもしれない。
「確かに、あの日の村瀬さんが『灰谷の八重歯はかわいい』って言ってくれたから、わたしは自分の八重歯を好きになれました。村瀬さんの言葉が影響を与えてくれたのは本当です。でも村瀬さんが誰に対してもマイナスなことを言わないのは、千尋さんのほうがよく知っているでしょう。――それだけのことです。あとはなにもありませんよ」
「どうかな。そんな村瀬を好くのは難しいことじゃないと思うけど」
「千尋さん」
ほたるさんが窘めるように呼ぶ。僕は彼女の手をきつく握りしめた。
「村瀬のこと、好きだった? ――正直に言ってほしいだけなんだ」
初めて出会った日に、同じ質問をした。あのときとは温度がまるで違う。今のほうがずっと熱っぽくもあるし、ずっと冷たくもある。熱いと冷たいが混ざり合って頭の中でぐちゃぐちゃだ。こんな女々しい自分を見てほしくない気持ちの一方で、とことん自分に向き合ってほしい感情が出しゃばってくる。僕は一体どうしたいのだろうか。どうしてほしい、どう答えてほしいのか。相手が村瀬じゃなければこんなに悩まなかったのに。お門違いでしかないが、そう思わずにはいられなかった。
仮に好きだったとして、僕はどうするのだろう。
「――そんなわけないじゃないですか」
ほたるさんの小さな唇から言葉がこぼれた。瞳が不規則に揺れている。
「本当に?」
「彼女がいる人ですよ」
「でも距離感が……ほら、初めて会ったときだって」
「だから違うって言ってるじゃないですか!」
不意にほたるさんが大きな声を出して、僕は目を見開いた。周りで同じように待ち合わせをしていた人たちがびくっと慄き、そうとばれないように僕たちの動向を横目で探っているのがわかった。
「ごめん」
とっさに謝罪が口をついた。自分の行動を振り返り、後悔が襲ってくるのを感じた。こんなふうに言わせたかったわけじゃない。こんなふうに言いたかったわけじゃない。ほたるさんは噛みつかんばかりに僕を睨んでいた。彼女からきつく睨まれるのは初めてのことで、想像していたよりずっと鋭い目をするんだな、などとぼんやり考えていた。その双眸から、突然ぽろぽろと涙が転がり落ちる。
「え」
僕は一瞬どうしていいかわからず、そのしずくがコンコースに一粒落ちるのを、黙って眺めるしかなかった。慌てて自分の傘を横の柱に立てかけ、ほたるさんの頬に手を当てる。
「ごめん」
ほたるさんは声も出さずに泣いていた。
「ごめんね、ほたるさん」
顔を伏せ、身体をこわばらせるほたるさんに、僕は謝り続けるしかなかった。周りの人々が無遠慮に見て来るのがわかったが、気にしていられない。
「嫌だったよね」
僕が覗き込むようにそう声を掛けると、ほたるさんはさらに身体をこわばらせて、地面に涙を落とした。
「変なこと訊いて、疑ったりしてごめんね」
ただひたすらに言葉を重ねて謝っていると、俯いていたほたるさんが、首をふるふると横に振った。喉の奥で割れた声が返ってくる。
「違います」
「いや、僕が――」
「違、う……」
なにかが違うらしい。僕は彼女から少し身体を離すと、「ほたるさん?」と恐る恐る名前を呼んでみた。彼女は相変わらず俯いたまま、なにも答えない。ただ僕の手からゆっくりと自分の手を引き抜くと、まぶたをごしごしと拭い、小さな嗚咽を漏らし始めた。その仕草はまるで親とはぐれてしまった小さな女の子のようで、僕は迎えに行くこともできずにみっともなく立ち尽くすしかなかった。
「思ったより早かったじゃん」
電話をかけると、友人は三コールめで出た。頭上で傘を叩きつける雨はとても穏やかで、いかにも梅雨らしい。雨や車の音が聞こえたのか、相手が「外?」と尋ねてきた。
「外。ちょっと予定が消えちゃって、今日は空いた」
「あ、そう。……どうしたの、千尋」
暗い声音を察したのか、友人が怪訝そうに問う。僕は「いや……」と言葉を濁そうとして、思わず口から小さくため息を漏らした。風がさっと吹き抜ける。もう夏は目の前だというのにやけに寒かった。
「どうしたのって、なにが」
「そもそも今どこ?」
「地元だよ。村瀬んちの辺り」
「行こうか?」
「いいよ、雨降ってるし。僕も早く帰りたいし」
吐き捨てるような物言いだ、と自分で思う。今日はまだ特になにもしていないのに、残業で遅くなってしまったあの日より疲れている。とっさに顔を押さえ、「ごめん」と口にする。
「悪かった、気遣ってくれてるのにこういう言い方はよくなかった」
「……まあ、別に気にしてないけど」
電話の向こうで、友人がわずかに戸惑っているのがわかる。情緒がぐだぐだになっている男への対応ほど面倒なものは、恐らくない。客観的にそう思う。
信号に差し掛かって足を止める。歩道と車道の境目に深い水たまりができていた。ふと顔をあげると、雨で煙った視界の向こうにぼやけながら光る赤信号が見えた。
「千尋、最近様子がおかしい……らしいじゃん」
「伝聞かよ」
「ごめんね最近顔見てなくて」
「いや、こちらこそ」
「なにかあった? 今日だって声が暗いし」
「僕は『もてない』男だなぁって思っただけだよ」
「ねぇ、真面目に答えて」
「真面目もなにも――前に話しただろ、自信がない男ってどう思う、って」
あのとき、こいつが言い放った言葉はそのとおりだった。今日の事態は僕の自信のなさが招いたことで、僕はそれを心の深い部分で受け止めないといけない。きっと。
「はーん、彼女と喧嘩でもしたな」
「そんなところだよ」
わざわざ口に出さなくてもいいだろう……と気持ちがさらにしぼんでくる。どうにか泣き止んだ後、腫れたまぶたをこすりながら「今日は帰りますね、ごめんなさい」と言い残してほたるさんは改札の向こうに消えていった。そうか、僕は喧嘩したのか。友達とだって滅多に喧嘩しない僕が、よりによって彼女と。電話の向こうで友人が得心したように「なるほどね」と呟いていた。見えないがきっと何回も頷いていることだろう。信号が変わった。僕は横断歩道に足を踏み出そうとして、留まった。
「彼女を詰めて、泣かせちゃって」
「千尋が?」
「それで詰めたことを謝ったら、違うって言うんだ。一生懸命。……僕が詰めたから泣いたわけじゃないって解釈したんだけど、じゃあ、どうして泣いたんだと思う?」
「そもそもどうして詰めたの?」
肝心なところに友人が突っ込む。僕はどう答えるべきか、そもそもこの友人に答えるべきなのか、しばらくじっと考え込んだ。するとそれを黙秘権の行使と捉えたのか(あるいは僕が本当に行使していたのか)、友人は「まあいいや」とその質問を取り下げた。
「その子の内情はその子にしかわからないよ。あるいは努力すれば千尋にもわかるかもしれないけど」
「耳が痛いな」
わかることができなかった身にはあまりにもしんどい話だ。友人は続ける。
「詰めてくる千尋が怖いって意味じゃなければ――触れてほしくないところに触れちゃったとか。よくわかんないけど早く仲直りできるといいね」
それにしても、と友人が続ける。
「千尋がそんなに心揺さぶられるなんて、なんかすごいじゃん。それだけその子の存在が大きいってことだ」
感心したように言われるが、僕はそれが決していいことだとは思えなかった。僕の中でほたるさんの存在はとても大きい。しかしその逆はどうだ。
「彼女の中での僕はそんなに大きくない」
「『もてない』発言やめなよ」
「僕よりむしろ――」
村瀬の名前が出そうになって、喉の奥で声を押しつぶす。こんなことを、この友人に喚いたとしてもどうにもならない。友人は次の言葉を待っている。僕が渡りそびれた青信号はとっくに赤に変わっていた。
「僕の存在が彼女を揺さぶることはできない――彼女が僕を揺さぶるようには」
口にした直後で、なにかが喉をせりあがっていくのをはっきりと感じた。思わず背中を丸め、アスファルトを睨みつけながら苦々しさの波が引いていくのを待つ。ようやく落ち着いてきた頃合いで、友人が小さく、
「そう」
と冷えた声で口にするのが聞こえた。憐みのような、呆れのような、様々なものを含んでいるように聞こえた。
「……そういうふうに考えるのはよくないと思う」
僕が感じた吐き気を、もしかしたら友人も感じ取ったのかもしれない。友人は口早にそう言い残すと、ごめんと一言断ってから一方的に電話を切った。もっともっと僕に言ってやりたいことがたくさんあったけれど、それらが決壊する前に自分で遮断したみたいだった。賢明な判断だと思う。女々しい僕には受け止めるキャパシティがない。少なくとも、今は。
雨は変わらず穏やかで、優しく傘を叩きつける。しかし僕の傘の内側だけはひどい土砂降りで、そこに僕を覆うものは存在しない。
翌日の日曜日は十時頃に目が覚めた。鬱々とした気持ちを抱えたまま寝たせいか、頭がぼんやりとして気分はよくない。ぼーっと自室の天井を見つめ、ぱたりとまぶたを閉じる。なんだか自分にとって都合のいい夢を見たような気がするが、内容は思いだせなかった。
寝間着のTシャツが汗で濡れていて気持ち悪い。本格的な夏の到来を感じながらどうにか身体を起こし、シャワーを浴びるために風呂場へ足を運ぶ。一緒に暮らしている両親は居間で各々テレビを観たり雑誌を読んだりしていた。通りかかる際に母親から「あんた今日は?」という問いが飛んできたので、「なにもないよ」と振り返りつつ返す。今日の夕飯が必要かどうかを聞きたかったのだろう。
歯を磨いてから適当にシャワーを浴び、部屋に戻る。そこで僕は、ベッドボードで充電していたスマホをようやく手に取った。二件の通知が来ている。ほたるさんからだった。いつ着信したのだろう。慌てて画面をスワイプし、用件を確認する。送られてきたのは朝の七時頃だった。
『おはようございます』
『千尋さん、今日はなにか予定ありますか』
簡素な内容のメッセージだった。休日のこんな朝早くに、彼女はどんな思いでこのメッセージを綴ったのだろう。逸る気持ちを抑え、画面をタップして返信する。
『なにもないよ。ごめんね、僕から連絡するべきだった』
すぐに既読はついた。ずっとスマホを手に待っていてくれたのかもしれない。
『いえ』
否定を示す言葉だけが先に送信され、
『少し話せますか? できれば顔を見て話したいです』
というメッセージが続く。願ってもない話だった。立ち上がってクローゼットを開きながら、片手でメッセージを打ち込む。
『わかった。どこに行けばいい?』
『実はもう千尋さんの最寄りにいて』
「え」
間抜けな声が出た。クローゼットを開け放したまま部屋を大股で飛び出し、玄関脇のコート掛けに引っかけてある薄手のパーカーを乱暴に手に取る。
「出かけるの?」
玄関で靴紐を結んでいたら、居間から母親が顔を覗かせてきた。
「夕飯は?」
「いらない。ごめん」
それに対する母親の返事を聞いている暇はなかった。呑気にシャワーなんか浴びていた数分前の自分をぶん殴りたい。彼女は、ほたるさんは、一体いつから待っていたのだろう。マンションの一階までエレベーターで降りながら『駅に行けばいい?』と返し、エントランスを駆け抜ける。駅までの道が随分遠く感じた。昨日とは打って変わって蒸し暑い晴天で、彼女が少しでも涼しいところで待っていてくれたらと願わずにいられない。
『地下鉄の改札口にあるカフェにいます。地上に出ますね』
交差点で信号に引っかかっているときにそんな返信が来て、とりあえず胸を撫でおろす。少なくとも冷房が効いているところにいてくれたみたいだ。
信号が変わり、息を切らしながら駅までの道を急ぐ。そうしてやっと駅が見える角を曲がったところで、彼方にほたるさんの姿を捉えた。ガードパイプにもたりかかり、道路脇の花壇をじっと見下ろしている。今日の出で立ちは紺色のノースリーブと、気に入っているらしい白いスカートだった。蒸し暑い気候によく合っている。
「ほたるさん」
彼女を包む静謐さをわざと破るように、少し離れたところから声を出す。ほたるさんは肩を跳ねさせ、こちらを振り返った。ほとんど化粧をしていないのか、いつもより顔色が悪く見える。本当に体調が悪いのかもしれない。近づくと、目の下には若干の隈があるのを確認できた。
「千尋さん」
「いつからいたの。――隈できてるし、あんまり寝てないんじゃないの」
挨拶もそこそこに問うと、ほたるさんはぐっと口をつぐんで俯いた。図星だ。
「もしかして、昨日のことがあって眠れなかったの?」
「確かに昨日のことが原因ですけど、眠れなかったのはわたしの問題ですよ」
俯いたまま、ほたるさんははっきりとそう言った。締め出すような言い方に少なからず寂しさを覚える。そういうことを、ともに背負い込むことに恋人の意義があるんじゃないだろうか?
「――ともかく、待たせてごめん。それも朝早くから」
「いえ、なんの約束もしてませんでしたし。それに、ちょっと得しちゃいました」
ほたるさんは僕の姿を上から下までそれとなく見廻すと、わずかに口角をあげてみせた。
はたと冷静になって自分の服装を見下ろす。シャワーを浴びたので寝間着から着替えてはいるが、Tシャツとジャージという、完全なる部屋着で出てきてしまった。パーカーを羽織っていることでどうにか家の外に出られるレベル。ものすごく後悔し始める僕のそばで、ほたるさんは小さく笑った。
「オフな格好している千尋さんを見られましたので」
「真菜がわたしの同期だって、どういう話の流れで知ったんですか?」
「まな?」
駅から少し歩いたところにある公園には、いつも人の姿がない。狭いし、鬱蒼と生い茂る木々に囲まれて暗い印象があるからだろう。もっと広々として遊具も多い公園が自転車で数分行ったところにあるので、ここら辺の子どもたちは大体そっちへ遊びに行くのだと思う。よって、ふたりで落ち着いて話すにはちょうどいい場所と言えた。
「黒田真菜です。昨日わたしと話してた」
並んでブランコに腰かけると、ほたるさんは地面に足をつけたまま身体を前後に揺らしてみせた。視線は目の前の地面に落ちていて、なかなかこちらと目を合わせてくれない。
「……飲み会で話しているときに、黒田さんの大学がほたるさんたちと一緒だってことがわかって。村瀬のこと知ってる? って訊いてみたら、ゼミが一緒だって教えられて、それならほたるさんの同期だなって」
「わたしの名前は出さなかったんですか?」
「なんとなく――出していいものかわからなかったから」
特に間違ったことをしたつもりはなかったが、口に出した瞬間どことなく言い訳っぽい響きがまとわりついて勝手に気まずくなる。ほたるさんは下を向いたまま「そうですか」と小さく呟いた。ブランコはもう前後していなかった。
「どうして、あの動画を観ることになったんですか?」
「ほたるさん、今日は質問したい日なの?」
純粋に気になって尋ねてみたつもりだったが、ほたるさんは僕が快く思っていないと受け取ったらしい。彼女はぎゅっと唇を噛みしめて押し黙った。さらに俯いて小さくなる様は昨日と同じく小さな女の子のようで、悪いことをしたような気分になる。今まで喧嘩らしい喧嘩をしたことがないので知らなかったが、こういうときのほたるさんは繊細で、少し接し方が難しい。僕は小さく息を吐き出すと、なるべく穏やかに聞こえるような声音で言った。
「怒ってないよ。訊いてみただけ。――なんでも答えるよ」
そう声をかけると、ほたるさんを覆っていた張りつめた空気が少しだけほどけるのがわかった。ひとまず安心して、僕は前に向き直る。
「黒田さんがむかし村瀬のことが好きだったみたいでね」
ゆっくり話し始めると、ほたるさんがちらりと僕に視線を投げたのがわかった。とても真剣に聞いてくれているらしい。言ってまずいことはないはずだが、言葉を選ぶように慎重に話し続ける。
「それで、村瀬なら当然断るってわかってるのに告ったらしくて、それに対して僕が『村瀬にとって負担だったんじゃないかな』って言ったら、友達がむかし同じことを言ってたって」
「……わたしですね」
「僕もなんとなく、そうかなと思ったよ」
顔を横に向けると、ほたるさんはさっと視線を逸らして再び地面に向いた。こちらとは目を合わさないくせに、見ていないときにじっとこちらを見ている。まるで野生の小動物みたいだ。不用意に踏み込んだら逃げて行ってしまう。
「それで、そうやって言ったのはどんな子だったの? って訊いてみたら、写真の代わりにあの動画を見せてくれたんだ。むかしの写真はバックアップ取ってもう端末から消しちゃったらしいから」
「そうですか」
「そうだよ」
会話が途切れて、不意に沈黙が下りた。木々が風にざわめく音が辺りを包み込む。さっきまでじめじめと暑かったのが嘘みたいに公園内は涼しくて、汗がさっと引いていくのを感じた。ふと黒田さんのことを思いだす。あの動画を見せてくれた黒田さんは、まさか会社の先輩とむかしの友達が、ここでこんなふうに話しているなんて露ほども思っていないだろう。次会ったときにはなんて言おう。それとも、なにも言わないほうがいいのだろうか。
「たしかに」
ここにはいない人物のことをぼんやり考えていたら、暗い表情とは裏腹に、存外はっきりとした口調でほたるさんが言葉を発した。無理やり腹から声を出しているような感じだ。デフォルトがはっきりとした喋り方のほたるさんが、今日ばかりは頑張らないと声が出ないらしい。膝の上で組んだ手がかすかに震えていた。行ったこともない教会の懺悔室が思い起こされた。
「たしかに、村瀬さんに告白しようとした真菜に、わたしは反対しました。断るほうもつらいだろうし、やめたほうがいいんじゃないって、言ったんです。でも――」
手を組んだまま、身体を前方に折り曲げる。僕は下唇の裏側を噛んで次の言葉を待った。
これがほたるさんの事実だ。真意とはまったく違う座標に存在するそれを、僕はずっと見せてほしかったのだと思う。それも本人の意思で。
「わたしは――」
二年前の三月。村瀬とほたるさんの所属するゼミは卒業生を送るために毎年恒例の祝賀会を開いていた。
祝賀会と言っても結局は普段どおりの飲み会で、いつもゼミのメンバーで行っている飲み屋で夜遅くまで騒ぐだけなのだが。
「なー村瀬が潰れたんだけど」
四年生の男の先輩がげらげら笑いながらテーブル全体に向けてそう叫んだので、隅の席でゆっくり飲んでいたほたるさんはそちらに視線を向けてみた。テーブルの反対側で突っ伏している村瀬は完全に潰れていてもうだめなように見える。割といつもの光景だ。ちゃんと家に帰れるのだろうか。
「村瀬さん?」
途中からみんな立ち上がったりして好きな場所で飲んでいたこともあり、ほたるさんは特に誰からも注目されることなく村瀬の隣の席に腰かけた。見られていたとしてもそんなに不思議に思われなかったかもしれない。割と仲がいい後輩であるという自負はあった。
村瀬は呼びかけに応えなかった。ただテーブルに突っ伏して、少しだけこちらに顔を向けている。閉じた目が開く気配はない。本当に眠っている。こんなに騒がしい店内で。
「村瀬さん」
手に持っていたグラスの中身をひとくち飲み下してから、再び村瀬の名を口に出してみる。これまで何度も呼んだ名前は自分の口によく馴染んでいた。
「村瀬さん」
口内で八重歯をぺろりと舐めてみる。ずっと嫌いだったはずのそれは、いつの間にか自分の中にきちんと受け入れられていた。隣で寝ているこの人のおかげで。
「村瀬さん」
その日は珍しいくらい酔っ払っていた。手元のグラスを見下ろし、ぽつりと言葉を落とす。
「すきです」
頭の奥がぼうっとしていた。再びグラスに口をつけながら、隣にぐらぐらとした視線をこぼす。そうして隣で突っ伏している村瀬の目が開いていることに気が付いた瞬間、一気にほたるさんの酔いが覚めた。
それが大方の事情らしい。
「偉そうなこと言っておきながら、わたしも同じことをしたんです。だから、真菜のことを避けていたんです」
語り終えたほたるさんは折り曲げた姿勢をもとに戻すと、長い長いため息をついて、僕と視線を合わせた。判決を待つ被告人のような目をしている。僕はブランコの鎖を握りしめながら、彼女の黒々とした瞳を見つめ返すしかなかった。
新宿駅で「違う」と叫んだ彼女の背後には、こんな物語が存在していたのだ。こんな事実を、意地でも隠そうとしていたのだ。
「なんていうか……」
膝下を交差させ、頭の中で言葉に迷いながら口を開く。とはいえ、僕が彼女にまず言いたいことはひとつだった。
「正直、そうなんじゃないかなって思ってたから、そんなに驚いてはいないんだけど――」
ほたるさんは唇を引き結びながら気まずそうに視線を逸らしたが、またすぐに僕の目元へと帰ってきた。
「……言ってくれたらよかったのに、とは思うんだ。僕は君の恋人だし、君のことだったらなんでも知りたい。でもそんなに一生懸命、僕から見えないようになにかを隠されると、すごく気になって、ものすごく大きな隠し事をされているように感じるんだ……それはわかる?」
昨日まくし立ててしまった反省から、一回一回確認するように、言葉を細かく切りながら話す。彼女は無言で小さく頷いた。
「どうして言ってくれなかったの?」
ほたるさんは暫し考え込んだ。顔をふいと背け、膝の上で組んだ手をほどく。考え込んだ、とは言ったものの、彼女の中ではすでに答えが出ていたのかもしれない。不安げに揺れてはいるが、確かな意志を持った瞳をしていた。
「だって、そんなの正しくないじゃないですか」
ややあって、ほたるさんの口から紡がれたのはそんな言葉だった。本当はもっと様々な色の感情を内包しているような声音だった。胸の内をめぐるたくさんの言葉から要らないと判断したものを切り捨てて、最後に残った言葉がそれだった、というような。その「たくさんの言葉」こそが僕の一番欲しいものなのだけど。僕は「そうかな」と呟く。
「自分も相手も既婚者じゃないんだし、好きになること自体がそんなに正しくないことだとは思わないけど」
「わたしの中ではそうじゃないんです」
先ほどとは違い、被せるようにほたるさんが否定した。
「どうしてかと言われても、それはそうだから、としか言えないんですけど……」
「……そっか」
そこはきっと、誰であれ触れられない場所だったのだろう。大勢の人が「そんなに気にすることではないよ」と優しく声をかけたところで、彼女の考えはきっと変わらない。誰も立ち入ることができない部屋に事実を閉じ込めて、その話をすることも嫌がる。
俯いたその横顔はやけにさえざえとして見えた。僕が見たいのは確かにその顔のはずだった。絶対に「違わない」。しかしそれは、軽率に手を伸ばしてはいけないものだったのだと僕は気付き始めていた。
きっとほたるさんは、しばらく太陽の下で笑わない。そうさせたのは僕だった。
「それで、村瀬はなんて?」
「なんとも」
ほたるさんは首を横に振った。
「そのときは慌てて別の席に逃げちゃったし、次に会ったとき、村瀬さんはそのことに触れてきませんでした。酔って潰れてたし、忘れたんだと思います」
「いや、それはないよ」
僕が間髪入れずに否定する。ほたるさんは意外そうに目を見開いた。
「村瀬は酔っ払っても記憶をなくすタイプじゃない。そんな大事な話ならなおさら」
「別に村瀬さんにとって大事な話じゃ……」
「大事だよ。負担に思う程度には。それは君が言ったんじゃないか」
僕の反論に動揺したのか、ほたるさんの目が不規則な動きで左右に泳いだ。この場で次に紡ぐ言葉を編み出そうとしているようにも見えるし、村瀬という人間についてよくよく思いだそうとしているようにも見える。
「たぶんだけど、君がなかったことにしようとしたから、村瀬もそうしようとしてくれただけだと思うよ。なんなら村瀬に訊いてみるかい」
「やめてください」今度はほたるさんが即座に返した。「今更そんなこと訊いてどうなるんですか」
「でも、気にならないの?」
ほたるさんが押し黙る。ふたりのあいだに沈黙が横たわった。煩わしい沈黙だった。彼女はじっと僕の顔を見つめ返してなにかを考え込んでいる。やがて、「意味がないでしょう」とため息のように言葉を吐き出して、彼女は視線を右に逸らした。嘘をつくのが下手だな、と内心で思った。その不器用な姿に愛おしさすら感じてくる。僕は「そうかな」と再び呟いた。
「少なくとも僕は、君がずっとそのことを気にしながら暮らしていくのは嫌だな」
視線を足元に落とす。朝急いで履いてきたスニーカーの紐がほどけかかっていた。彼女は僕の隣にいたとしても、村瀬とすれ違えばきっとその日のことを思いだす。思いだして、村瀬が本当はどんな言葉をかけてくれたのかを想像する。僕はそれを察して胸の内側をざわつかせて、身体の中でふくれあがる不安に押しつぶされるような感覚に陥るのだろう。そんなことがきっと何年も続く。そうなるくらいなら。
「訊いてしまいなよ。そのほうがいい」
「どうしてそんなこと言うんですか」
か細い声に顔をあげると、ほたるさんは信じられないものを見るような目で僕を見つめていた。
「千尋さんは傷つかないんですか」
「俺のためにずっと言わなかったわけ」
よくこんなに冷たい声が出たな、と自分で思う。ほたるさんは明らかに戸惑っていた。どう答えるのが正解なのか、どうすればこの空気感を変えられるのか、そのために一生懸命考えを巡らせている。僕は見ないふりをして続けた。
「ほたるさんは俺のためだと思っているかもしれないけど、それは結局ほたるさんのためだったんだと思うよ」
「違います」
「違わない。現に僕は、言ってくれなくて嫌だった」
僕はこれまで二回、「村瀬のこと、好きだった?」とほたるさんに尋ねた。まだ僕がどうでもいい人間だったときと、恋人になってからの二回。彼女はどちらにも否を示した。彼女は彼女にとってまっさらな人間であることを選び続けたのだ。
きっと僕は、心底うらやましかったのだと思う。誰に対しても公表しない心の奥に、村瀬がいる。こちらからは見えない扉の向こうに奴が暮らしている。いつまで陣取るつもりなんだ。なあ村瀬。
「僕のための秘密なんて、間違ってる。そんなものは存在しないんだよ」
そう言い切った瞬間、辺りが不意に色彩を失った。見上げると雲の切れ端が太陽にかかっており、そのせいで地上がわずかに翳っていた。
ほたるさんのほうを見る。暗い瞳がこちらを向いていたが、それが僕のことをまっすぐ見つめていたとは思えなかった。
遠くで電車が走っていく音がする。風が僕と彼女のあいだを通り抜けていき、木々の葉をざわざわと揺らしていった。僕は次の言葉を繋げようとして、やや考えてから口を閉じる。もう自分の中から抽出されるべき言葉が見つからなかった。言いたいことを言い尽くせたのだろう。それでも胸の中には鉛のようななにかが溜まっており、それを吐き出すための術を僕は知らない。
言いたいことを言ってしまえば、伝えるべきを伝えてしまえば、もっとほたるさんと近くなれる。ここ最近、ずっとそんなことばかり考えていたのに。
風が雲をよけ、太陽が再びその姿を現す。
ほたるさんはもうそこにいなかった。
最寄り駅で電車を降りて地下鉄のホームを歩いていたら、隅のベンチで女の子が泣いているのを発見した。女の子というには少し失礼な年齢かもしれない。社会人一年目か二年目くらいだろう。短く整えられたショートカットが大人っぽい。それでも私が「女の子」と言いたくなったのは、彼女があまりにも幼い女の子のようにしくしくと泣くからだった。
金曜日の夜とかなら、まだわかる。でも日曜のこんな時間に大人の女の子が泣いているのはちょっと不思議な感じがして、私は自然とその子の前で足を止めた。
鞄からハンカチを取り出し、彼女の前に差し出してみる。彼女はしばらく俯いて泣いていたが、ややあってから私の存在に気が付き、ゆっくりと首を横に振った。
「ごめんなさい」
「……別に、私はあなたにごめんなさいと言われるようなことはされてませんよ。よかったら使ってください」
「だめ、だめなんです、わたし……」
女の子はさらにしゃくりあげる。
「優しくしないでください」
「どうして」
「優しくされるような人間じゃないからです」
「……」
ちょうどそこへ、次の電車がホームに滑り込んできた。女の子は一言「すみません」と断ると、目元を拭いながらその電車に乗り込んだ。ドアが閉まり、電車が動き出す。そのまま電車が地下鉄の闇に消えていくのを、私はなんとも言えないような気持ちで眺めていた。
ハンカチを鞄にしまい、地下鉄の出口を目指す。なんとも後味が悪い。なにがあの子をああさせたのだろう。なかなか複雑な事情がありそうだった。
階段を上りきると、強い日差しが前髪越しに目を刺してきた。予報では来週中にでも梅雨が明けるらしい。サンダルを新調して、今年はどこへ行こう。
「美沙都」
私を呼ぶ声に振り返る。歩道脇の花壇のブロックに腰掛けて、彼は私の帰りを待っていた。
「恭介くん」
「休日出勤おつかれさま」
「午前だけだったけどね」
「お昼食べに行こうぜ。なにがいい?」
恭介くんはゆっくり腰を上げ、軽くお尻を払った。彼はとても背が高い。付き合い始めの頃、並んで歩くときにしょっちゅう首が痛くなったのを思い出す。
「あっさりしたものが食べたい。その後、サンダル買いに行きたいんだけど付き合ってくれない?」
「いいよ」
笑って首肯した彼が、ふと花壇に目を落とす。その刹那「あっ」という表情を見せたので、私もその視線の先を辿ってみた。釣り鐘のような形をした紫色の花が咲いている。ここの花壇は区が管理しているはずだが、それは植えられたというより、自然と生えてきたように見える花だった。しゃがみ込んで眺めてみる。
「きれいな花だね」
そう言って恭介くんを見上げると、彼はなにも見ずに「ホタルブクロだよ」と花の名を告げてみせた。
「夏に咲く多年草なんだって」
「じゃあ、もう夏がすぐそこまで来てるんだ」
「そうだね」
そう言って彼は目を細めた。私はそんな彼の顔を一瞥すると、「行こう」と腕を引っ張って歩き始めた。とてもお腹がすいていた。あっさりしたもの、例えば恭介くんの家の近くにある和食屋の蕎麦とか。そういうものが早く食べたい。そんな気がした。
「去年のサンダルはもう履けないの?」
「あれは八月の終わりに壊れて捨てちゃったんだよ。気に入ってたんだけどね」
去年まで履いていたオレンジのサンダルを思い起こす。かかとの紐がゴムでできていて履きやすくて、でも歩いていて壊れてしまったのだ。なにが決定打になったんだか。記憶を探ってみる。
「確かそう……千尋と遊びに行った日の帰りに壊れて、その日は駅から家までふたりでタクシーに乗って帰ったっけな。千尋は私の家から歩いたけど」
去年の八月、まだ彼女がいなかった千尋が私の買い物に付き合ってくれた日のことだった。駅の階段を上りきったところで私のサンダルのヒールが折れてしまい、千尋が仕方なさそうにタクシーを拾ってくれたのだった。大変だったけど、靴が壊れて千尋とタクシー、などという非日常が楽しくて、どちらかというといい思い出になっている。
「そっか。千尋は優しいな」
恭介くんが前を向いたまま言う。
「千尋とはしばらく会ってないよな。連絡は取ってるの?」
「うん――たまにね」
私も前を向いたまま答える。連絡は、ときどき。でも最近、割と深刻そうな悩みを聞いてあげていることは言わなかった。
「そっか。彼女と仲良くしてるって言ってた? 最近千尋、俺と絡んでくれなくて」
「さあ……人並みに喧嘩とかしてるんじゃない?」
「千尋が? あんまり想像つかないけど」
昨日まさにその電話を受けた、とは言いづらく、肩をすくめて曖昧に微笑む。恭介くんが想像するより千尋は面倒な性格をしている。ある程度想像できる範囲の、さらにその上を行くだろう。
「なんにせよ、仲良くしてるといいな」
恭介くんはそう言って話を雑に切り上げた。仲良くしてるといいな。私もそう思うが、昨日の電話の感じから察するに、状況は厳しそうだ。また落ち込んでいなければいいのだが。
「心配いらないとは思うんだけどね」
そう呟いた私の声は、思ったよりため息交じりで暗かった。心配はいらない。私が心配したところで、という言い方もできる。恭介くんはなにも返さなかった。その沈黙に意味があるのかどうか、私はきっと考えないようにしている。
交差点に差し掛かり、足を止める。ここから恭介くんの家の前を通っていけば、目的地の和食屋はもうすぐだ。信号機が発色のいい赤を示している。むかしは信号機の光が弱くて、昼間だとぼんやりとしか色が識別できなかったが、何年か前に信号機をLEDのものに差し替えてからは、はっきりと識別できるようになった。
「美沙都さ」
信号を見つめたまま、恭介くんが不意に呼ぶ。その声がびっくりするほど硬くて、私は無意識に背筋をぐんと伸ばした。なるべく顔を見ないようにしながら、「なに?」と平静を装って返す。
目の前を無数の車が駆け抜けていく。まっすぐ行ったり、左折したり右折したり、日曜日の車たちはなんのために走るのだろう。信号はまだ変わる気配がない。
「美沙都さえよかったらなんだけど、この街を出て一緒に暮らさないか」
「……えっ」
頭の中で言葉を処理するのに時間がかかった。やたらと低い「えっ」とともに恭介くんを見上げると、彼もしっかりとこちらを見降ろしていた。そういえばこうしてしっかり見つめ合うのは久しぶりだなと思いつつ、そんなことを悠長に考えている場合ではないこともわかっていた。
恭介くんはぐっと唇を引き結び、返事を待っている。その目はとても深い色をしていて、本当のところの感情を知るのは難しい。彼、こんな顔してたっけ。焦って目を逸らしそうになるが、それはあまりにも違う。
自然と呼吸が早くなる。今すぐここから逃げ出したい衝動に駆られた。きっと私は怖がっているのだろう。それは恭介くんがどうこうとかではなく、人と接するにあたってもっと本質的なことが理由だった。
人と真正面から向かい合うことは、本来とても怖いことなのだ。私はずっとそれを忘れていた。
「――どうかな、美沙都」
怯えたような声が、恭介くんの口から落ちる。ともすれば車の音にかき消されてしまいそうな声だった。彼がこんなに不安そうに喋るところなんて見たことがない。
こんなふうになってしまうほど、きっと彼は私を愛しているのだと思う。それと同じ質量のものを、私は間違いなく返せるだろう。蓄積してきた時間が自信を持たせてくれる。大丈夫だ。私は少し冷静に戻った頭でそう結論を出すと、口元に大きな笑みを描いた。
「そんな大事なこと、お店についてから話せばいいのに」
嬉しそうな声音から、色よい返事をもらえると察したのだろう。恭介くんは明らかにほっとしたような表情を見せると、私の手を強く強く握りしめた。
大丈夫だ。この手を信じている限り。鋭くもなく鈍すぎもしない私たちは、きっとどこでも生きていける。幸せになれる。
だから私は、彼がどこでそんな花の名前を覚えてきたのかを尋ねたりはしない。
信号が青を指し示す。明るい未来の話をするために、私たちは駆け足で交差点を渡った。
鳴けない蛍 ねむみ @sleepymiss
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