19. エピローグ
いよいよ〈ツール・ド・フランス〉開幕。二十三日間かけて、およそ三千三百キロ、高低差二千メートルのコースを走り抜き、ほぼフランスを一周するステージレースだ。
プロチームの一流選手たちとの直接対決に、セシリアは興奮した。長いレース期間中には、チームの選手が怪我で途中棄権したり、大雨でチームカーがぬかるみにはまったり、いろいろなアクシデントに見舞われた。それでも、毎日が充実していた。
ジャスティンは山岳コースですばらしい活躍を見せて、なんと山岳賞を獲得した。名誉の証であるマイヨ・ブラン・ア・ポワ・ルージュ(白地に赤い水玉のジャージ)を着て、最終日の第二十一ステージでは、笑顔でシャンゼリゼ通りのゴールに入った。
ジャスティンは総合で十位、チームも二十二チーム中八位という好成績で、ひとりを除いて全員が完走した。
セシリアとチームスタッフに出迎えられたジャスティンは、とてもさっぱりした顔つきだった。
「山岳賞おめでとう、兄さん。ほんとうにすばらしい走りだったわ」セシリアは誇らしい気持ちでいっぱいになって言った。
「ありがとう、セス。すべてを出し切ったよ。これでもう、思い残すことはない」ジャスティンが言った。
セシリアは、はっとした。ジャスティンは引退するつもりなのだ。今年で三十一歳になる兄。腰痛を抱え、確かに二十代のころのような爆発力はなくなってきた。もちろん、その気になればまだまだやれるだろう。でも、念願のツール出場を果たし、ハミダとの結婚を控えている今、兄は決断した。
私も、思い残すことはないわ。セシリアは思った。兄とチームを精いっぱい支えながら、ここまでやってきた。憧れの〈ツール・ド・フランス〉でマネージャー兼メカニックとして貢献できた。夢をかなえたのだ。
表彰式後のインタビューで、ジャスティンは今シーズンいっぱいでの引退を表明した。今後についてきかれると、結婚して中東の国を援助する事業を
セシリアと皇太子との婚約で目を回していた両親が、今度は失神するかもしれない。セシリアは苦笑を浮かべて兄とハミダを眺めていた。
そのとき、背の高い男性がすばやくセシリアに歩み寄り、いきなり体ごと抱き上げるようにして建物の影に引き入れた。
「きゃっ!」
「セシリア、会いたかった」男性が言った。
「バドゥルなの?」セシリアはびっくりして叫んだ。「いやだ、わからなかったわ」
「目立たないようにしたかったからね」グレーのジャケットと黒いパンツというパリの街に溶けこむ服装をしたバドゥルは、あまりにもすてきで目立たないとは言いがたかった。
「おめでとう、セシリア。とうとうやり遂げたな」
「ありがとう、バドゥル」セシリアは夢中で皇太子に抱きついた。
「これで君は完全に私のもの、いや、私の愛する人、私の妻になる」バドゥルが情熱をこめて言った。
「ええ、そうよ。これからはあなたのことだけを考えるわ」セシリアは目をきらきらと輝かせて言った。「来月にはナビールへ……」
「いいや、これ以上は待てない」バドゥルがきっぱりと言った。「できるだけ早く、君と結婚したい。だから、あした結婚式を挙げよう」
「あしたですって!」セシリアは驚いた。
「もちろん、正式な婚礼の儀は、秋になってからナビールで盛大に行う。その前に、パリのモスクでふたりだけの秘密の結婚をするのさ。証人はジャスティンとハミダだ。あすの朝十時、〈グラン・モスケ・ド・パリ〉に来てくれ。衣装もすべて用意してある」
「バドゥルったら……あいかわらず強引ね」セシリアはあきれて笑った。
「これだけ待ったんだ。許してくれないか?」バドゥルがまっすぐ目をのぞいてきいた。
「もちろん許すわ」セシリアは言って、バドゥルの唇にキスをした。
翌日、ふたりはパリの壮麗なモスクで結婚の誓いをした。セシリアは繊細なレースとダイヤモンドで飾られた真っ白なウェディングドレスをまとい、総レースのベールをかぶった。バドゥルは、パリの街では皇太子としてではなく、ひとりの男として愛する人と結ばれたいと言って、タキシードを着た。証人のジャスティンとハミダが、満面の笑顔でふたりを祝福した。
ナビールでのこれからの人生は、きっと想像とはまったく違うのだろう。これまでに走ったどのロードレースもそうだったように……。楽しいこと、つらいこと、うれしいこと、悲しいこと、それぞれがどんな重みを持って訪れるかはわからない。でも、この人とならきっとすべてを乗り越えていける、とセシリアは思った。私たちは固く信頼し合ったチームになる。チームがひとつになってゴールを走り抜けるときの気持ちを、ずっと忘れないでいよう。新しい人生も、これまでの道の続きなのだから。
― 完 ―
【漫画原作】砂漠の風を追いかけて ― As Swift As the Desert Wind ― スイートミモザブックス @Sweetmimosabooks_1
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