4、前を向いて Ⅰ


 背中を見せ、下を見続ける漱哉そうやの壮絶な過去が明らかになった日の夜。まろかは、彼への思いを巡らせていた。

「苦しいときこそ、つらいときこそ、前を向いて、笑顔でいて欲しい。うちだって、上を向いたら、とても楽しい毎日を過ごせたから」

 でもなぁ。彼と自分では、つらいのレベルが全然違う。彼よりもずっと低いレベルにいた自分が、何を言えば。

 嗚呼ああ、漱哉さん。あなたがずっと下を向いてしまう理由を、ずっと抱えている事情を知ることができた。どうしたら、少しでも、力になることができるのだろう。

 康次やすじは、そっとしてあげてと言った。これには、まろかもごもっともだと納得した。だが、その一方で、何故か納得出来ない自分も二十パーセントくらいはあった。いや、本当はもっとあるのかもしれない。早く、明るく笑顔の彼を見たい。私が笑顔にさせる。まろかがずっとずっと、くどいほどに思い続けていた。そっとしてあげればいいのに。お節介せっかいとはこのことだ。それってもはや、彼のことを思ってのことではない。ただ、憧れの王雅の真似をしたいが為。自分の望みをみたしたいという、勝手な思いか。

 まろかの目の前には、懐かしの王雅の顔が映し出された。彼と別れてから、もう一年と数ヶ月か過ぎた。元気にしているかなぁ。彼の進学した高校の文芸部で、より一層、力を蓄えているところだろう。

 王雅さん。……どうしたらええですか?

『これからもずっと、応援している』『何かあったらいつでも頼れ』

 ハッ! 彼に電話してみるか。つながるかは知らないけれど。

 かけてみると、思いの外繋がった。

「もしもし、王雅さん」

『お! 西園か! 久しぶりじゃのぉ』

「はい。ご無沙汰ぶさたしてます!」

『随分と変わったな。中学のときよりもだいぶ声の調子が上がっとる』

「おかげさまで、高校でもうまくやれています」

『それはええのぉ。で、何か用件でもあるか』

「はい。ちょっと相談したいことがあって」

『それなら、今度一緒に会って話そう』

「今じゃないんですね」

『あんまり、長話すると、料金が高くつくからのぉ』

 え……。

 ということで、近くのファミリーレストランにて、一年と数ヶ月ぶりに会うことになった。

 王雅さんて、意外とケチなんじゃな。


 当日、約束の時間のちょっと前にレストランに到着。王雅との約束を果たした。

「すまんのぉ、西園。うちは携帯の使用に厳しいけぇ」

 なるほど、家での事情があったのか。それなら仕方ない。そんな事情を知らず、考えもしないで、ケチだと思った昨晩の自分をぶん殴りたい。

「今日のお代は俺が全て払う。俺が誘った身じゃけぇ」

「ありがとうございます」

 そういう、ガッチリと筋が通っているのはかっこよくて、大いに尊敬できるところだ。


 まろかは、イチゴとブルーベリーがのったパンケーキを幸せな顔で頬張っていた。ベリーの酸味とパンケーキの甘さがナイスマッチだ。

「で、相談事ってなんじゃ」

「私の高校の部活の先輩のことです。事情があって、なかなか前を向くことが難しくて……。私は、なんとか前を向かせてあげたいなって思うんじゃけぇ。なんだかお節介みたい」

「それって、志水しみずのことか?」

「え、そうですけど。知っとるんですか?

「善美の部誌を読んだんじゃ。彼の執筆の腕は、プロの作家を抜くだろう。彼を目当てに過去の部誌も二冊読んだ。そんで、西園が言うのは彼が一番該当がいとうする」

「どうしたらいいと思いますかね」

「んー、彼には前を向いてもらうというより、彼の持つ負の感情を生かして、伸ばしていくのがええと俺は思うな」

「……どういうことですか?」

「『ネガティビティ・バイアス』て知っとるか?」

「ねがてぃびてぃ・ばいあす? わかんないです」

「『ネガティビティ』は、物事を否定的に見る、消極的な心境のこと。『バイアス』は偏見。簡単に言うと、マイナス思考じゃ。人というのはプラスの感情より、マイナスの感情の方が記憶に残りやすい。身に起こる危険を回避するためじゃけぇ。それを自分を成長させる原動力へと変化させるんじゃ」

 つまり、「怒り」「哀しみ」「苦しみ」「憎しみ」などのネガティブな感情を、自分を成長させる源に変化させて使う。

  ネガティブ思考であると、現状の欠点を見つけることができて、さらに良いものへと改良することができる。こうして、力をつけいくことができる。

「でも、私に言ったのとは全然違いますね」

「西園には、そのやり方が一番合っとると思ったんじゃ。そして、見事に的中した。君の作品には、真の君らしさがあった。とても成長を感じた」

「あ、ありがとうございます」

 王雅はハハハと笑った。

「対して、志水には『ネガティビティ・バイアス』のやり方が合っとると思う。彼の作品を通して、彼にはその素質があると見た。それを更に促すには、彼の持つ負の感情と真っ直ぐ向き合うことが有効じゃろう。負の感情は封じ込みやすいけぇ、もし、志水がその感情を封じ込んでおるようじゃったら、西園が促し、気づかせるのじゃ」

「わかりました! ありがとうございます!」

 まろかは大きく頭を下げると、パンケーキにフォークをぶっ刺し、口に入れて咀嚼そしゃくする。まろかもほんのり笑顔になった。

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