3、表の裏側 Ⅲ

 夏が去った。しかし、夏の猛暑は未だに止まっている。蒸し蒸しと暑苦しいのは変わらない。今は、夕暮れ時の時刻だが、まだほとんどそれを感じさせない空模様。どこかから切なげな美しい虫の鳴き声が聞こえてくる。どこか涼しさも感じさせる。唯一、わずらわしいと感じない声。風情がある。謎に切ない感情が泉のごとく湧いてくる。カレンダー上では、夏が終わったらしい。しかし、実際には、まだ夏は終わっていない。それでも、夏休みは終わった。

 夏休みが明けて、二学期が始まった。部活終わりの漱哉そうや康次やすじが、共に家路いえじをたどっていた。まだまだ空は明るかった。

 漱哉は、視線を落とし、足元を見て歩いていた。普段ならカチカチに固まっていた暗い顔が、随分と変わって、柔和にゅうわな──やさしく穏やかな──顔へと変わっていった。

「前向いたら? って、まろかちゃんに言われるよ」

 康次に言われて、漱哉は視線を上げた。最近、彼の表情が随分と柔らかくなった気がする。康次は、やさしく口角をあげた。

「漱哉、最近なんだか、明るくなった気がする」

「……そうか?」

「うん。前までよりもずっとね」

 康次は、満面のスマイルを見せた。そのスマイルに、漱哉もより和んだ。

 

 後日の昼間。まろかと町音まちね、漱哉と康次の四人でまた昼食を食べていた。皆楽しそうでいた。しかし漱哉一人だけは、暗い表情でいた。

「まろちゃん、おかず交換しよう」

「うん、ええよぅ」

「ありがとう」

「漱哉さんもいります?」

「いや、いらない」

 下を向いて、カタコトで話す漱哉。急に変わった。さっきまでは、もうちょっと明るい表情でいたのに。まろかは怪訝けげんに思った。

「漱哉さん、どうしたんですか。急にすごく暗い感じになって」

 まろかは、声のボリュームを落として、漱哉に尋ねた。

「なんでもない。……俺は失礼する」

 と言って、まだ空になっていない弁当の蓋を閉じた。

「え? 何でですか」

「まだ食べ終わってもいないのに」

「……悪いが」

 ぽつりと言葉を残して、漱哉は背を向けた。そして、その場から立ち去った。まろかと町音は、表情を曇らせた。

「漱哉さん、どうしちゃったんじゃろ」

「うちらの知らん間に、嫌な思いとかさせちゃったんかの」

「ううん、ふたりのせいじゃないよ。漱哉はたまに、ああなるときがあるから」

 落ち込むまろかと町音に、康次は言った。

「何がきっかけで?」

 まろかは尋ねた。

「彼の過去だよ。すごく悲しい過去だったから」

 康次は、漱哉の過去について話始めた。


 漱哉には、両親と、五つ上の兄がいた。両親は、兄ばかりを贔屓ひいきし、溺愛できあいしていた。しかし、漱哉はちっとも愛されないどころか、キツい誹謗ひぼう中傷ちゅうしょうや、なぐるなどの暴力を浴びせられていた。毎日のようにだ。兄はそれをとても痛ましく思い、両親の目の届かないところでサポートをしてくれた。それでなんとか生命を維持することができた。しかし、兄も両親の前には手足がこわばって動くことができなかった。

 親が帰ってくるとき。その足音、ドアが開く音を聞くと、漱哉は恐怖のあまり、震えが止まらなかった。どちらかでも帰ってくると、真っ先に漱哉に向けて、暴言や暴力を飛ばす。逃げようと後ろに下がる漱哉の頭を強く押さえ込み、こぶしで何度も何度も頬を殴る。鋭い刃物のような言葉で漱哉を罵倒ばとう。心臓を何度も何度も、狂ったように突き刺す。両親は、漱哉をストレス発散のための道具として、扱っているみたいだった。

 ──漱哉の痛み、苦しみなどを、ちっとも知ろうともせずに。

 両親から、毎日毎日、暴言、暴力を受け続けているせいで、毎日毎日、心と体を傷つけられているせいで、心も体もボロボロになった。瀕死ひんし状態におちいった。とても、前なんて向けるわけがなかった。それは勿論、学校でもだ。瀕死状態なのは変わらない。全く活力がなく、固まったまま、なかなか動くことはなかった。そんな漱哉は、まるでろう人形のようだった。誰かと話すことをせず、必要最低限の移動を除いては、ほぼほぼ自分から動くことなんてない。だから当然、誰も寄ってこないし、見向きもされない。常に一人だ。


 そんな漱哉にも、転機は起こった。小学四年生の頃。この頃に、漱哉と康次は出会った。漱哉の状態は変わらず最悪のままだ。蝋人形のように、カチカチに固まっていて、動くことはほとんどない。勿論、心機一転して、誰かに話しかけるなんてこともしない。

 蝋人形状態でいる、漱哉の目の前には、一人の男の子が現れた。それが康次だ。やさしい笑顔だった。純粋で、曇り気もないような。そんな笑顔。今まで、そんなやさしい眼差しを向けられたことなんてなかった。漱哉は驚いた。衝撃を受けた。そして戸惑った。けれども、固まった状態は、保ち続けている。

「君はー、……志水しみず君? 僕は野田のだ康次っていうの。同じクラスだから、よろしくね」

 漱哉は黙ったままだ。しかし、表情はというと、変化があった。物珍しいものを見たときのような顔で康次を見ていた。

「……」

 漱哉は、彼に返事をしなきゃと思った。じゃなきゃ、この状況が変わらないと思った。少し気まずかった。しかし、喉が、口が、強張こわばっていた。今まで、人と話したことがないから。

「よ、……よろしく」

 強張る喉を震わして、口を動かして、かろうじて声を出すことができた。康次はにっこりと笑った。

「よろしくね」

 その後も、康次は、ちょくちょく漱哉の前に現れて、話かけてくる。にっこりと、まぶしいくらいの笑顔で。彼は、小説を読むのが好きらしい。お気に入りの小説を持ってきて、漱哉に見せた。その小説というのは、リアルな人間社会で生きる大人たちの物語を描いたものだった。それは、大人が読むような、難しそうなもの。更に、康次曰く、直木賞を受賞したものだという。ますます難しいものに感じた。康次は、本を開いて、漱哉の方に見せる。漱哉は、本の中にある文字を読んだ。その文字を読んでいくと、そこには世界があった。自分が今見ている世界とは全く違う世界。その世界では、人が動いて、人と人が話していて、自分にはない感情というやつがある。漱哉は感動した。しかも、その世界はとても引き込まれるものだった。

「す、すごい」

「面白いでしょ」

「おもしろい」

「僕もう、何度も読んでるし、漱哉君が持ってていいよ」

 そう言われたとき、漱哉の目はきらりと光った。どの教科の教科書よりも大きくて、太くてしっかりしている本を両手で持った。厚みがあった。その本の表紙をじっと見た。

 

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