3、表の裏側 Ⅲ
夏が去った。しかし、夏の猛暑は未だに止まっている。蒸し蒸しと暑苦しいのは変わらない。今は、夕暮れ時の時刻だが、まだほとんどそれを感じさせない空模様。どこかから切なげな美しい虫の鳴き声が聞こえてくる。どこか涼しさも感じさせる。唯一、
夏休みが明けて、二学期が始まった。部活終わりの
漱哉は、視線を落とし、足元を見て歩いていた。普段ならカチカチに固まっていた暗い顔が、随分と変わって、
「前向いたら? って、まろかちゃんに言われるよ」
康次に言われて、漱哉は視線を上げた。最近、彼の表情が随分と柔らかくなった気がする。康次は、やさしく口角をあげた。
「漱哉、最近なんだか、明るくなった気がする」
「……そうか?」
「うん。前までよりもずっとね」
康次は、満面のスマイルを見せた。そのスマイルに、漱哉もより和んだ。
後日の昼間。まろかと
「まろちゃん、おかず交換しよう」
「うん、ええよぅ」
「ありがとう」
「漱哉さんもいります?」
「いや、いらない」
下を向いて、カタコトで話す漱哉。急に変わった。さっきまでは、もうちょっと明るい表情でいたのに。まろかは
「漱哉さん、どうしたんですか。急にすごく暗い感じになって」
まろかは、声のボリュームを落として、漱哉に尋ねた。
「なんでもない。……俺は失礼する」
と言って、まだ空になっていない弁当の蓋を閉じた。
「え? 何でですか」
「まだ食べ終わってもいないのに」
「……悪いが」
ぽつりと言葉を残して、漱哉は背を向けた。そして、その場から立ち去った。まろかと町音は、表情を曇らせた。
「漱哉さん、どうしちゃったんじゃろ」
「うちらの知らん間に、嫌な思いとかさせちゃったんかの」
「ううん、ふたりのせいじゃないよ。漱哉はたまに、ああなるときがあるから」
落ち込むまろかと町音に、康次は言った。
「何がきっかけで?」
まろかは尋ねた。
「彼の過去だよ。すごく悲しい過去だったから」
康次は、漱哉の過去について話始めた。
漱哉には、両親と、五つ上の兄がいた。両親は、兄ばかりを
親が帰ってくるとき。その足音、ドアが開く音を聞くと、漱哉は恐怖のあまり、震えが止まらなかった。どちらかでも帰ってくると、真っ先に漱哉に向けて、暴言や暴力を飛ばす。逃げようと後ろに下がる漱哉の頭を強く押さえ込み、
──漱哉の痛み、苦しみなどを、ちっとも知ろうともせずに。
両親から、毎日毎日、暴言、暴力を受け続けているせいで、毎日毎日、心と体を傷つけられているせいで、心も体もボロボロになった。
そんな漱哉にも、転機は起こった。小学四年生の頃。この頃に、漱哉と康次は出会った。漱哉の状態は変わらず最悪のままだ。蝋人形のように、カチカチに固まっていて、動くことはほとんどない。勿論、心機一転して、誰かに話しかけるなんてこともしない。
蝋人形状態でいる、漱哉の目の前には、一人の男の子が現れた。それが康次だ。やさしい笑顔だった。純粋で、曇り気もないような。そんな笑顔。今まで、そんなやさしい眼差しを向けられたことなんてなかった。漱哉は驚いた。衝撃を受けた。そして戸惑った。けれども、固まった状態は、保ち続けている。
「君はー、……
漱哉は黙ったままだ。しかし、表情はというと、変化があった。物珍しいものを見たときのような顔で康次を見ていた。
「……」
漱哉は、彼に返事をしなきゃと思った。じゃなきゃ、この状況が変わらないと思った。少し気まずかった。しかし、喉が、口が、
「よ、……よろしく」
強張る喉を震わして、口を動かして、
「よろしくね」
その後も、康次は、ちょくちょく漱哉の前に現れて、話かけてくる。にっこりと、まぶしいくらいの笑顔で。彼は、小説を読むのが好きらしい。お気に入りの小説を持ってきて、漱哉に見せた。その小説というのは、リアルな人間社会で生きる大人たちの物語を描いたものだった。それは、大人が読むような、難しそうなもの。更に、康次曰く、直木賞を受賞したものだという。ますます難しいものに感じた。康次は、本を開いて、漱哉の方に見せる。漱哉は、本の中にある文字を読んだ。その文字を読んでいくと、そこには世界があった。自分が今見ている世界とは全く違う世界。その世界では、人が動いて、人と人が話していて、自分にはない感情というやつがある。漱哉は感動した。しかも、その世界はとても引き込まれるものだった。
「す、すごい」
「面白いでしょ」
「おもしろい」
「僕もう、何度も読んでるし、漱哉君が持ってていいよ」
そう言われたとき、漱哉の目はきらりと光った。どの教科の教科書よりも大きくて、太くてしっかりしている本を両手で持った。厚みがあった。その本の表紙をじっと見た。
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