2、最初と最後の「葱頼」Ⅴ

 雨の多く降る月も、早くも下旬となった。しかし、まろかにとって、この上ない憂鬱な一日は終わりそうにない。今日も大粒のしずくが活発に降り注いでいた。しかも、この日の雨雲は、機嫌が悪いようで、凄まじい爆音をとどろかせ、青白い光を走らせていた。そのすさまじさに、皆がおびえていた。

 そんな荒れた天候の中。文芸部では、顧問の馬場ばば先生が、ちょっとうれしそうな顔で部室に入ってきた。

「先生、おはようございます」

 皆が先生に挨拶をする。

「おはよう皆」

「なんだがうれしそうですね」

 藤子とうこが言うと、先生はうふ、と笑む。それは、見れてしまうほどに美しい。

「じゃん。部誌ができたわよ」

 普段よりもかなりテンション高めに、皆に部誌を見せた。表紙のデザインは歴代のものと変わらない。部員たちは、わーーっと湧き上がった。

「ついにできましたか」

「ええ。どの作品も素敵だったわ。今年も注目されること間違いなしだわ」

 と、皆を絶賛する先生。すると、「あ、そうじゃ」とまろかが立ち上がって小走りで先生のところに寄った。手には小型の小説本。

「まろかちゃん。どうしたの」

 穏やかにほほ笑んでいた先生の顔が、一瞬、いぶかしむような顔になった気がする。まろかを見て、まろかのもつ小型で薄い本を見て、何か思い当たりでもあったのだろうか。藤子は、一瞬の先生の表情の変化に気がついた。

 先生、どうかしましたか。と小さな声で言う。いや、まあ、ちょっとね。と、言葉を濁した。

「これなんですけど」と、まろかは小説を見せた。菊田きくた植子うえこという人が書いた『葱坊主畑ねぎぼうずばたけ』という作品。先生は、はっと驚いて、目を大きく開けた。

「『葱坊主畑』という小説で、先週の日曜日に本屋さんで見かけて買いました。『葱』ってあって、まさにうちらにぴったりじゃって思って」

「確かに。よく見つけたわね」

「まだ、読み終わってないですけど」

「それじゃあ、読み終わったらまた感想を教えてね」

「はいっ」

 まろかは元気よく返事した後、席に戻った。

 皆が諸活動に取り組んでいるとき、藤子は、先生とさっきのことの話をしていた。

「珍しいですね。先生があんな大きく表情を変化させるなんて」

 あの『葱坊主畑』っていう小説に何か関係が? と藤子はたずねた。

「……そうね」


 部活動の終了時間となった。皆が部室を出ようと支度をしている際、先生がまろかに声をかけた。

「まろかちゃん、ちょっとおいで」


 がらりと空いた部室。先生とまろかが二人きりで話していた。これも対面するのではなく、横に並んで座っていた。

「急にごめんね。まろかちゃんと二人きりで話したかったから。何か用事とかあった?」

「いえ、特にないです」

「そう。……さっき見せてくれた小説のことなんだけれど」

「あ、ちょっと待ってください」

 まろかは、カバンを開けて何かを取り出した。取り出したのは、さっきの小説。

「これですよね」

「そうよ。これ私が書いたの。私はプロの小説家だったのよ」

「えっ、そうなんですか」

「全然売れなかったんだけどね。……皆にも言って良かったと思うんだけど。どこか後ろめたさがあるの。劣等れっとう感からかな」

 ちょっと長話してもいい? とまろかに尋ねた。いいですよ。とまろかは答えた。

 

 今からおよそ二十年前。小説家を目指していた先生は、大学を卒業してから、『菊田植子』という名で、小説の出版社が開催する新人賞に応募。三年が経ってプロデビューを果たした。しかし、一万部が売れればヒットと言われる中、先生が書いたもののほとんどは、そのラインに届くことはなかった。唯一ヒットのラインを潜り抜けたのが『葱坊主畑』。先生の書き下ろしの作品の中で、最も評価をもらった。芥川賞の候補にも載った。しかし、最もの山の高さが大したことがなく、芥川賞に載ったと言っても随分と下の方であった。メディアに注目されることもないし、勿論、当選されることもなかった。結局、『葱坊主畑』でも、手応えが感じられなかった。

 自分の中で最頂点であった、『葱坊主畑』も不発に終わった。それを確信してから、先生は諦念ていねんの気持ちに囚われた。そんな自分とは裏腹に、芥川賞・直木賞を受賞した小説家に注目するニュースを見て、彼らのご加護を分けてもらいたいと思った。小説を執筆するということに無気力になり、けれども惰性だせいから抜けることができず、二作品を執筆した。それでも、それでも、置かれている立場は変わらなかった。そこで筆を折った。プロデビューを果たして、十の年が過ぎた頃だった。執筆活動の他に本屋のバイトもけ持っていて、そこで出会った、同い年で小説の好みも合う男性と晴れて結ばれた。二つの宝にも恵まれた。だけど、本職である小説の執筆の面では、恵まれなかった。一番得意なものに恵まれなくてどうするんだろう。あふれる悔しさ・悲しさを呑んだ。

 それでも小説が好きだった。執筆の面でダメだったのなら、別の方法で、小説に関われるものはないかと考えた。真っ先に浮かんだのは国語科の教師。それなら、小説を初めとするいろいろな文章にふれることができる。多くの人と、その素晴らしさを分かち合うことができる。これを夫に相談すると、「いいんじゃない」と是認ぜにんし、それなら文芸部の顧問とかぴったりかもと言った。

 先生は再び大学に入り、教師になった。そして入ったのが善美ぜんび高校。そこの文芸部の顧問になった。当時の善美高校の文芸部は現在の姿とは似ても似つかない。活発さなどは一切なく、地味にだらだら本を読んで、だらだらと文章を書いていた。野球やサッカーなどの運動部はずっと変わらず活発で、それなりに活躍もみせていた。皆からの人気が熱い。文芸だって、野球やサッカーのように人気の存在になってもいいだろう。

 そう立ち上った先生は、地味な文芸部の改革を行った。まずは、土台造りだ。先生の最高の作品である『葱坊主畑』の『葱』を軸に考えていく。葱の花言葉は「笑顔」「ほほえみ」「愛嬌」「くじけない心」。部員皆が笑顔、愛嬌を見せて、困難にもくじけない。せっかくの部活という、皆が集まる場。もっと皆仲良く関わり合えばいい。スポーツもそう、小説でもそう。互いに信頼して、労いあう。──ねぎらい。……『葱らい』だ。『らい』には頼るの『頼』で『葱頼ねぎらい』。これが新しい文芸部の土台であり、チームの名前にもなった。活動の方でも、もっと皆がふれ合える場を作った。部誌のデザインも変更し、現在まで続くものとなった。それらの改革の結果、年々と成長する葱のように伸びていき、近年では花が咲くまでに立派になってきた。その人気は、学校の枠を超えて、周辺地域などにも広がっている。


 「でもね、私の中にある劣等感みたいなものはいまだ消えない。むしろ大きくなちゃったみたい。漱哉そうや君みたいな飛び抜けて凄い子がいるんですもの。彼だけじゃない。他の皆も凄い。まろかちゃんの作品も素敵だったわ」

 先生は最後ににこっと笑顔を見せた。

「えっ、あ、ありがとうございます」

「私なんてすぐに追い抜かされてしまうわ」

 先生はなんだか、まろかが知らないどこかで大きな悲しみを背負っているように見えた。

「今日はありがとう。ごめんね。帰っていいよ」

 そういって先生は立ち上がった。まろかもカバンを持ち上げ立ち上がった。

「まだ読みかけですけど、私好きです『葱坊主畑』。やさしい雰囲気がしてええです。ぶち落ち着く。私もああいうのを書いてみたいです」

 先生の目は、下を向く。

「先生、前を向いててください」

 まろかに言われて、先生は前を向いた。

「ありがとう、まろかちゃん。また明日」

「さようなら」

 まろかは、部室を出る際、もう一度振り返った。そこには、まろかを笑顔で送った、先生の後ろ姿があった。

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