2、最初と最後の「葱頼」Ⅴ
雨の多く降る月も、早くも下旬となった。しかし、まろかにとって、この上ない憂鬱な一日は終わりそうにない。今日も大粒の
そんな荒れた天候の中。文芸部では、顧問の
「先生、おはようございます」
皆が先生に挨拶をする。
「おはよう皆」
「なんだがうれしそうですね」
「じゃん。部誌ができたわよ」
普段よりもかなりテンション高めに、皆に部誌を見せた。表紙のデザインは歴代のものと変わらない。部員たちは、わーーっと湧き上がった。
「ついにできましたか」
「ええ。どの作品も素敵だったわ。今年も注目されること間違いなしだわ」
と、皆を絶賛する先生。すると、「あ、そうじゃ」とまろかが立ち上がって小走りで先生のところに寄った。手には小型の小説本。
「まろかちゃん。どうしたの」
穏やかにほほ笑んでいた先生の顔が、一瞬、
先生、どうかしましたか。と小さな声で言う。いや、まあ、ちょっとね。と、言葉を濁した。
「これなんですけど」と、まろかは小説を見せた。
「『葱坊主畑』という小説で、先週の日曜日に本屋さんで見かけて買いました。『葱』ってあって、まさにうちらにぴったりじゃって思って」
「確かに。よく見つけたわね」
「まだ、読み終わってないですけど」
「それじゃあ、読み終わったらまた感想を教えてね」
「はいっ」
まろかは元気よく返事した後、席に戻った。
皆が諸活動に取り組んでいるとき、藤子は、先生とさっきのことの話をしていた。
「珍しいですね。先生があんな大きく表情を変化させるなんて」
あの『葱坊主畑』っていう小説に何か関係が? と藤子は
「……そうね」
部活動の終了時間となった。皆が部室を出ようと支度をしている際、先生がまろかに声をかけた。
「まろかちゃん、ちょっとおいで」
がらりと空いた部室。先生とまろかが二人きりで話していた。これも対面するのではなく、横に並んで座っていた。
「急にごめんね。まろかちゃんと二人きりで話したかったから。何か用事とかあった?」
「いえ、特にないです」
「そう。……さっき見せてくれた小説のことなんだけれど」
「あ、ちょっと待ってください」
まろかは、カバンを開けて何かを取り出した。取り出したのは、さっきの小説。
「これですよね」
「そうよ。これ私が書いたの。私はプロの小説家だったのよ」
「えっ、そうなんですか」
「全然売れなかったんだけどね。……皆にも言って良かったと思うんだけど。どこか後ろめたさがあるの。
ちょっと長話してもいい? とまろかに尋ねた。いいですよ。とまろかは答えた。
今からおよそ二十年前。小説家を目指していた先生は、大学を卒業してから、『菊田植子』という名で、小説の出版社が開催する新人賞に応募。三年が経ってプロデビューを果たした。しかし、一万部が売れればヒットと言われる中、先生が書いたもののほとんどは、そのラインに届くことはなかった。唯一ヒットのラインを潜り抜けたのが『葱坊主畑』。先生の書き下ろしの作品の中で、最も評価をもらった。芥川賞の候補にも載った。しかし、最もの山の高さが大したことがなく、芥川賞に載ったと言っても随分と下の方であった。メディアに注目されることもないし、勿論、当選されることもなかった。結局、『葱坊主畑』でも、手応えが感じられなかった。
自分の中で最頂点であった、『葱坊主畑』も不発に終わった。それを確信してから、先生は
それでも小説が好きだった。執筆の面でダメだったのなら、別の方法で、小説に関われるものはないかと考えた。真っ先に浮かんだのは国語科の教師。それなら、小説を初めとするいろいろな文章にふれることができる。多くの人と、その素晴らしさを分かち合うことができる。これを夫に相談すると、「いいんじゃない」と
先生は再び大学に入り、教師になった。そして入ったのが
そう立ち上った先生は、地味な文芸部の改革を行った。まずは、土台造りだ。先生の最高の作品である『葱坊主畑』の『葱』を軸に考えていく。葱の花言葉は「笑顔」「ほほえみ」「愛嬌」「くじけない心」。部員皆が笑顔、愛嬌を見せて、困難にもくじけない。せっかくの部活という、皆が集まる場。もっと皆仲良く関わり合えばいい。スポーツもそう、小説でもそう。互いに信頼して、労いあう。──ねぎらい。……『葱らい』だ。『らい』には頼るの『頼』で『
「でもね、私の中にある劣等感みたいなものは
先生は最後ににこっと笑顔を見せた。
「えっ、あ、ありがとうございます」
「私なんてすぐに追い抜かされてしまうわ」
先生はなんだか、まろかが知らないどこかで大きな悲しみを背負っているように見えた。
「今日はありがとう。ごめんね。帰っていいよ」
そういって先生は立ち上がった。まろかもカバンを持ち上げ立ち上がった。
「まだ読みかけですけど、私好きです『葱坊主畑』。やさしい雰囲気がしてええです。ぶち落ち着く。私もああいうのを書いてみたいです」
先生の目は、下を向く。
「先生、前を向いててください」
まろかに言われて、先生は前を向いた。
「ありがとう、まろかちゃん。また明日」
「さようなら」
まろかは、部室を出る際、もう一度振り返った。そこには、まろかを笑顔で送った、先生の後ろ姿があった。
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