2、最初と最後の「葱頼」Ⅲ

  漱哉そうやの表情が変わることは、ほとんどない。たまに珍しく表情が変わったことがあったが、それが全てだ。いつも柔軟じゅうなんに変化させることはなかった。いつも硬くて凍った表情まま、変わらない。まろかは漱哉に常に前を向いて欲しいと思っている。彼には明るく生きてもらいたかった。でも、どうしても彼が前を向いてくれることはない。彼の過去は知らない。何がきっかけであんなふうになってしまったのか。それはまろかが知っているべきことではない。恐らく物凄ものすごくデリケートな問題なのだろうから。それでも、まろかは彼に前を向いてもらいたい。その一心で考えをめぐらす。どうしたら彼が前を向き続けてくれるのか。

 ……何故、まろかはこんなにもそれに執着しゅうちゃくしているのか。まろか自身が、自分に対して問を投げかける。

 真っ先に浮かび上がってきた答えが、彼は昔の自分と重なっていたから。昔と言っても少し前までだ。それ以前の自分は、まさに漱哉と同じような状態に置かれていた。

 まろかは、中学時代の先輩、王雅おうがのおかげで、今でこそ上を見上げて、皆と一緒にわいわい盛り上がることができている。しかし、小中の頃は、違った。当時のまろかは、孤立していた。ひとり、教室の端のほうでぽつりとたたずむような感じだった。そして、現在の明朗めいろう快活かいかつの容姿からは全く想像もつかないほどに違っていた。トイレの花子を思わせるような、あご先まで伸びたおかっぱ頭。前髪は、目にかかりそうな程の長さ。雰囲気が地味で不気味で、他の人からは、怖がられ、実際にトイレの花子とに呼ばれていた。彼らに近づくと、悲鳴が上がり、口々に罵倒ばとうされた。周りにいるクラスメイトや担任の先生からは、常に冷たい目線、冷たい言葉を浴びせられた。


「うわあ! トイレの花子じゃあ!」「近づきんさんな!!」


「キャー、気持ち悪い!!」「怖い!!」


「われみたいな暗い奴がおると他のやつらに悪影響が出るけぇ、目障りじゃ。見よるだけで苛々いらいらする」


 それらの言葉は、まろかの心の中にある箱の底に、ふつ、ふつ、積み重なっていく。それがまっていくにつれて、箱の温度は下がっていく。冷たくなっていく。日に日に冷たさがしていくと、まろかは箱を温めようとして丸くなる。自然と下を向くようになった。それでもまだ、ふつ、ふつ、ともって冷たくなっていく。

 そんな苦しい中、心の支えは、カープと小説だった。選手が必死で勝とうと頑張っている姿や、小説の中の主人公が困難に打ち勝つ姿が、まろかの日々の原動力の源になった。授業の合間の時間は、大好きな小説を読んでいた。その時に、よくものをぶつけられた。皆にみ嫌われる中では、静かに本を読むことすらできなかった。図書館が使える時は、図書館を利用したが、その他の隙間すきま時間でも本は集中して読みたかった。

 そんな状況が永遠と続く。毎日が苦しい。早く終わって欲しいと切望するほどだ。

 しかし、小学校を卒業し、中学生になっても、メンバーはあまり変わらないから、苦しい状況は変わらない。小学校の卒業式が終わったあともそう思って、絶望した。

 中学校生活のふたが開き、皆が部活動に入部する中、文芸部という小説に関する部活動があることを知ったまろかは、その文芸部に入部した。同じく文芸部に入部した一年生は、まろかを除いて七人だった。上級生の人数を入れると二十人程だったが、まろかが思っていた人数よりも多かった。そして案外、賑わいがあるところだった。先輩部員たちには、笑顔があった。その光景を見て、当時の地味で不気味なまろかには似合わないと思った。初日から先が不安になり、帰り際、しょぼくれて、とぼとぼ歩いていた。

 その肩に、暖かな何かが置かれた。まろかは振り返ると、目をまるくした。強力な目力。大人程の高身長。堂々たる姿勢。パッと一目見ただけで強く印象づけられた。強烈なの彼。これが王雅おうがだ。彼はまろかの肩をポンと叩いた。

「よろしくな。これから共に頑張ろう!」

 声の威勢も堂々としていた。彼は、文芸部じゃなくて、野球や剣道とかが似合うのではないかと、まろかは少し思った。だが、そんなことよりも、まろかは大きな衝撃を受けた。今までこんな人に出会ったことがなかった。これまで人に励まされたり、暖かい声をかけられた記憶がなかった。王雅のこの一言で、まろかの不安な先がガラリと変わった。

 王雅は、何故かまろかによく声をかけてくれた。一年生の中で一番目をかけてくれた。まろかはそれが不思議で仕方がなかった。まろかの書いた作品を一番読んでくれたのも、勿論もちろん、彼だ。当時のまろかは、小説執筆の経験がなく、とても上手とは言えない腕だった。だから、人に読んでもらうのは、決まりが悪い。ドキドキしながら彼が自分の作品を読んでいる姿を眺めていた。だが、その間は彼の作品を読むように言われて、読んで見ると、彼の作品は達者なものだった。まろかは衝撃を受けた。ずっと彼には驚かされ続けている。まさか、たったひとつ歳が違うだけで、こんなにも差があるのか。これぞ雲泥うんでいの差だ。しかし、彼はまろかの作品の良いところを必ず見つけて、そこを具体的な解析文にして評価してくれる。積極的なプラス思考だった。

西園にしぞのの作品は、人物の心情が繊細に描かれ、数多あまたの比喩表現がほどこされておる。それが君の持つ世界の醍醐だいご味じゃ」

「え〜、いえ、私なんて、まだまだ下手くそで……」

「それなら、まだまだ伸びる可能性が十分にあるってことじゃな。君はまだ入りたてだし、この先、極める時間は莫大ばくだいにおるけぇ。焦ることなくじっくりと成長していけ。期待しておるぞ西園」

「はい」

 まろかのいつの間にか極寒と化していた心の中の箱は、じんわりと温められていた。そして、彼を見る目の瞳は、尊敬に満ちた光がかすかに輝いていた。


 

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