【KAC20211】ラストヒューマン

木沢 真流

人類に残された希望

 外は赤い風が吹いている。

 私はガラス越しにその居心地の悪い風を睨んだ。不吉な赤、それは血液が混じった色なのか、荒廃して生命の息遣いを消してしまった大地の色なのか。目の前にあるたった一枚のガラスを隔て、生と死が背中合わせとは。なんとも詩的な表現ではないか。

 一つ息を吐いた。この一つ一つの息ができるのも、私のいる側の空間を満たす空気のおかげ。この大切さを知っていれば、人類はもっと違った道を選べたかもしれない。

 私は外へ出ることは出来ない。何故なら私は人類の希望だから。私がここにとどまること、それは人類を救うためなのだ。例えどんな誘惑があろうとも、どんなに私の理性が崩壊しようとも私はここから出てはいけない。

 何かの気配を感じ、私は振り返った。そこには重い扉が目に入った。もし私がこの扉を抜けることがあるとしたら。それは全ての戦いが終わり、人類が笑顔を取り戻した時、もしくは私が全てを諦めた時、そのどちらかだ。大丈夫、今のところ私は諦めるつもりはない。

 私はいつもの業務に入った、食料の確認だ。大丈夫、まだしばらくは持ちそうだ。かといって無くなってしまったらどうするか? そんなことはなってみないと分からない。いざとなったら腹を括ってやる。とにかくまだ外に出てはいけない、外には赤い風が吹いているから。

 私はふと運動というものを思い出した。

 電影機のスイッチを入れると、映像が投影される。そこには笑顔で運動を勧めている人間の映像が流れた。はるか昔は生きるために動かなければならなかった。そんな頃は「運動」という言葉は無用の長物だったろうに。皮肉な事に人類が出歩かなくてよくなると、今度はその運動に慣れてしまった人類は運動にしがみつかなければ病気に蝕まれるようになってしまった、なんとも滑稽な現実だ。


 私はその映像を止めた。もういい、運動なんて面倒くさい、病気になったらそれまでだ。私はいつだって覚悟を決めている。


 ……聞こえる、何者かがこのシェルターにやってくる。ドンドンという音は徐々にその音量を増す。やめてくれ、来ないでくれ。私は人類の希望なんだ、その私を邪魔しようとするのか。頼む——。

 そんな私の儚い希望を嘲笑うかのように、今、扉が大きく開け放たれた。そしてその招かれざる訪問者はこう告げた。


「たかし! あんたまたそうやってぐうたらしてんのかい」


 ああ、やっぱりおかんだった。


「かあちゃん、部屋入る時はノックしろって何回も言ってんだろ? ぐうたらじゃないの! ステーホーム! 偉い人が何回も言ってただろ? 俺は人類を救うためにここにいんの」

「は? マスクしてしっかり手洗いすればちょっとくらい大丈夫よ、あの人たちはね、用もないのに出歩くなって言ってんの! あのさ、玉ねぎ買ってきてくれる? ちょっとは動かないとコロナが終わる前にあんた運動不足で死ぬよ! ソーシャルディスティネーションちゃんとするんだよ?」

「なんだよ、社会的目的地って……」

「——ほら、またそうやってあんたはいっつも母さんのこと馬鹿にして……ほら、頼んだよ? 玉ねぎないとカレー出来上がんないからね」


 そう言うとおかんは扉をバタンと、閉めた。

 こうして私が扉を抜ける時は意外と早く訪れた。

 外は眩いばかりの夕焼けだった。

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