すさびる。『幸せな時間はゆっくり流れる』

晴羽照尊

幸せな時間はゆっくり流れる


 神様は、どうして僕にだけこれほどの試練をお与えになるのか。僕は世界に謝らなければならない。僕の嫁が、世界一かわいいからだ。


「おかえりー」


 僕は玄関の鍵が開く音を聡く聞きつけ、声を上げながら出迎えに走った。小走りである。


「…………」


 お疲れである。吊り上ったまなじりは限界を越え痙攣し、般若の面を思わせる。それでも夏祭りのあの日、泣いた女の子を笑わせようと、孤軍奮闘していた彼女の姿を思い出すから、僕は笑ってしまうのだけれど。

 あれは、せっかくお母さんに買ってもらった魔法少女なんとかのお面を川に落としてしまって泣いている女の子に、彼女が、そのなんちゃらと同じ顔を作ろうとして泣き止ました事件である。あの顔はひどかった。ひどくかわいかった。女の子は引いていた。


「ごはんにする? それともお風呂?」


 僕は聞いた。主夫である。完全なる主夫である。もう五年目である。


「……ぬく」


 彼女は応えた。これは堪えている。とりあえずお風呂ではないことが確定した。


        *


 世界一かわいい嫁を観賞するのは後回しにして、とりあえずごはんにする。お風呂じゃないなら、ごはんでいいだろう。今日は彼女の大好きなから揚げだ。自家製のタルタルソースをたっぷり添えて。肉食の彼女のために、栄養バランスを考慮し、野菜多めに。特にみそ汁の具には気合いを入れている。彼女はぬくい・・・ものが大好きだから。


「はーい、ごはんですよー。……ってなにやってんの!?」


「ぬくー?」


 嫁がかわいい! かわいい嫁がみかん食っとる! しかも三個も!


「ごはんだって解ってるでしょ! なんでみかん食ってるの!」


「ぬくぬくー」


 炬燵にはみかんだと? 今日はおまえの好きなから揚げだってのに!?

 ちなみに我が家では炬燵が六月まで出っぱなしだ。いまは二月だけれども。


「ばりぼり」


「そしてどうしてせんべい食うの!? 僕、ごはんだって言ったよね!?」


 奇怪な娘である。そしてかわいい。頬がぷくぷくである。

 吊り上ったまなじりが、ゆっくりとほどけていく。


「ふんす」


 ドヤ顔である。なぜにドヤったのか。かわいいの化身でなければそんな行動はとれないはずなのに。


「あー、はいはい。解ったから、から揚げ置くよ」


「ふもー!」


 それみたことか。大喜びである。せんべいの二枚目にも手が伸びるありさまである。


 それから、彼女はぬくった。せんべいを頬に押し込み、両手を空に。その両手を炬燵に突っ込んで、顔だけでぬくみを表現する。うむ。とてもかわいい。


        *


「んで、どしたの?」


 から揚げでリスになりきっている彼女に、僕は聞いた。僕としてはリス嫁を見ているだけでお腹いっぱいである。


「ふにゃら。ふげー。もうん」


「ああ、それ、まだ続いてたんだね」


 どうやらそういうことらしい。まあ、これも社会の厳しさってやつだろう。彼女のヒモ出身であるこの僕が、社会のなんたるかを語れはしないけれども。


「めったん! ぺったん! ばったぐがー」


「解った解った。目、吊り上ってきてるよ」


「ぶぐん」


 落ち込んだ。箸を咥えてぶらぶらさせてはいけません。かわいいから。……かわいいから!(真理)


 僕は箸を引き抜いた。これ以上はいけない。世界への土下座が加速する。加速しちゃうとでんぐりがえしだ。


「ずずー」


 彼女は言った。言いながら、みそ汁をすする。箸がなくても味わえるただ一つの絶品。


「まあ、おうちでくらい、仕事のことは忘れようか」


 僕は言って、箸を返す。


「んあ」


 すると彼女は口を開いた。だから僕は、世界に懺悔しつつ、から揚げを目的の位置に押し込む遊びに興じる。世界にこの遊びが普及すれば、きっと戦争はなくなるだろう。


        *


 食事を終え、食器を片付ける。次はお風呂かな? 入浴剤……今日はどれがいいだろう? 彼女はものぐさだから、そういうことですら僕まかせだ。


「……つんつん」


 そんなことに思考を巡らせていると、彼女が僕の背をつついてきた。


「……どした? お風呂?」


「ふぃー」


「ふぃー?」


 なにを言っているのか解らない。なぜだ。これまでちゃんと会話が成立していたのに?

 だがしかし、すくなくともお風呂ではなさそうである。


「くいくい。……ぐいぐいー」


「なんなのさ」


 袖を引かれる。リビングの方だ。やはりお風呂ではないのだろう。


「てんてん」


 言うて、彼女は腰を降ろした。で、自身の隣の、床を叩く。


「はいはい」


 僕はなんとなくで納得し、彼女の隣に腰を降ろした。


 炬燵には、その四方、それぞれに着地点がある。うちはまだ子どももいないし、ふたりきりでのおこたじかん。たいていは向かい合って着席することがほとんどだ。

 だから、ときおり忘れてしまう。彼女が、隣にいるという幸福を。子ども同士みたいな、まだ不慣れに近過ぎる距離感を。それでもなお、大人になれば、もっと豊かに感じることもできる。


 歳を食って、あのころのような、いつも小走りに駆け回る忙しなさは失われた。だからこそこうやって、際限のない幸福の中でも、永遠のように緩やかに感じられる。


「ぬくぬくー」


 そう言って、彼女は僕の胸に顔をうずめた。

 だからいま一度、僕は、世界に謝罪しよう。


「ああ、そうだね」


 悪いけど、僕の嫁は世界一かわいい。



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すさびる。『幸せな時間はゆっくり流れる』 晴羽照尊 @ulumnaff

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