ヅケ

東京

この東京に僕の顔も溶けていくのか。


21:27 品川は大盛況。

ここで汗水を流した者は皆、例外なく郊外に戻り眠る。

深夜になれば、ここは人っ子一人いなくなり幕が下りる。

空虚で、平明かつ晦渋であるのに加え、破滅的なのに差別的で、何より美しい場所だ。


僕達は毎日、この目の前の無機質な鋼鉄の生命体に吸い込まれ、輸送され、

そして各々の持ち場へ吐き出される。

体表は、アイドル育成アプリのラッピングや赤に緑に黄色のラインを

施してるが、体内なんかほとんど真っ黒である。


僕は薄汚れた窓に映る、外界のタンコブみたいな街並みを見ていた。

着席できる倍率に敗れ、ふんだんに詰め込まれた人間の中ではつり革を握り、

ただ真っ暗な住宅街を見下ろす事しか許されないのだ。


もし車内の誰かが突然歌い出したら、今よりは幾分楽しいだろうな。

とびきりスウィートな歌声でR&Bを希望したい。

心に響く熱い声で往年のロックの名曲も捨て難い。

たちまち手拍子が起こり、ともすれば乗客らで合唱が起きるかも。


そんな妄想をしながら、自分の顔と東京のマンションが一緒くたに映る

車窓をじーっと見つめる。

もう上野か。今日も早いな。


ほんの僅かに視線を下げると、20代半ば位の女性が腰かけている。

3席ある優先席の真ん中に座り、レンガ色の真っ直ぐな髪を鳩尾辺りまで伸ばしている。慣性の法則に従い、鋼鉄がスピードを落としたり早めたりする度に

ゆらゆらと頭を揺らしている、恐らく熟睡しているのだろう。

グースカグースカと気持ち良さそうだ。

彼女の右手側の禿げた中年男性、左手側の70代くらいの女性の肩に

それぞれ頭部をぶつけては軽く目を開け、すぐに夢の世界に踵を返す。


あらあらあら。

なんて思いながら、彼女のおでこの頂点から後頭部までピンッと引かれた

生え際のラインを見つめながら思う。

なんて美しい。


広大なゴビ砂漠に、一本の滑走路が走っているみたいだ。

チョップしたくなる衝動に駆られてしまう様な一直線を見るのが、

なかなか僕は好みなのである。

彼女が微動だにしなければ、ボールペンをこの生え際に乗せてみたいものだ。

多少揺れただけではビクともしないだろうな。

つまらない事を思案していると、鋼鉄は日暮里に着いていた。


む?


ふと自らの指が気になる。

正確には、右手親指の第一関節から母指球の中間である。

何だろう、感覚としてはカサカサする。

左腕は、黄色いつり革を握りしめているので手が離せない。

それならば。

右手の人差し指をぐるっと丸め、ポリポリと爪で該当箇所を掻いてみる…


が、取れない。

イライラするなあ。


右腕を持ち上げて親指を見てみると、カサブタみたいな白い皮がくっついていた。違和感の正体である。

なんじゃいこれは、こんな所だけピンポイントに擦りむく運動や怪我なんか

してはいないんだがなあ。

ここだけ太陽光に晒しすぎて、日焼けしたのだろうか?


あっ。


今日履いていた、左足の革靴が壊れたのを思い出した。

そうそう。

歩いている最中にアウトソールが突然剥がれた。

土踏まずからつま先ギリギリ部分まで、ベロンと紙みたいに捲れちまったのだ。


ったく、ツイてない。

そのまま分離してしまえば良かったのだが、靴の先端で何とか持ち堪えている。

みすぼらしいので、いっその事引き剥がそうとするが蒲鉾の板みたいなソールは

革靴の先端部でがっちり固定されている様だ。

ちきしょうめ、意固地なやつだ。


仕方がないと、無視して歩けばべコンベコンと足音の他にもう一つ、

なんとも情けない音が追加されてしまっている。

何より見た目が良くない。

最悪な1日だ、可能な限りのすり足で歩く。

ひとりで孤独に忍者ごっこだ。

このままビジネスマンに混ざって、間抜けな靴音を鳴らすわけにはいかぬ。


脱却しなくては。

そんな一心で、気付けば最寄りのコンビニエンスストアに飛び込み、

強力な瞬間接着剤を購入していた。

内容物をべったりソールにぶっかけ、足をしまっている部分とくっつける。

右足は浮かし、ぐぅっと重心を落とし左足膝を折る。

十分な負荷を掛け、無事に僕はビジネスマンへと復帰を果たした。


親指のカサカサはこれが原因だろう、接着剤が付着してしまったんだね。

しかしこんなにも取れないもんか。

引き続き、人差し指の爪でカリカリカリカリ掻くが解決しない。

こんな時、焦慮してしまうのが僕の悪い癖なのかもしれない。


遂につり革から手を離し、周りの目も気にせず左手で思いっきり引っ掻いた。

両隣に立っていたOLや学生から、不思議そうな視線を浴びるが無視だ。

なかなか手強い、驚異的な科学技術だ。

カリッ、カリッ、カリッ……


鋼鉄は北千住に到着していた。

まじかよ、10分近く格闘していた訳だ。

こうなってしまえばもう覚悟は決まった。成人男性のパワー出血大サービスだ。

今までが左ジャブであれば、今からは渾身の右ストレートだ。

今までがマッチ棒であれば、今からはガストーチバーナーだ。

今までが少年野球であれば、今からは先発メジャーリーグだ。

今までが…くそ、もう出てこないや。


皮膚を削ってしまうかもしれない。

いいや、腹は括った。力の限り掻き毟るだけだ。

そんな両手越しには先ほどのレンガ髪の女が、迷惑だと丁寧に顔で表し睨んでいる。

こればかりは申し訳ない気持ちになる。だが、しかし。

男にはやらねばならぬ時がある、今がそうさ。構うものか、いったれ!

大人の力を見せてやる!


ガリッ!べリベリ!


乾いた接着剤は無事剥がれ、床にボトボトッと

トマトが細かく角切りされたものが落ちた。


気持ちいい、ここ数年で一番スッキリした。

なんて快音なのだろう。

欝屈だった気分がやっと晴れたのだろう、僕は夢中で指を掻き続け、

その度にトマトの角切りを溢れさせる。


落下したものは、正確にはサルサソースである。

なのでトマト以外には、みじん切りにしたピーマンとか紫タマネギも出てくる。

車内はたちまち、オリーブオイルの香りでいっぱいになる。

世界で一番幸福で、健康的な公共交通機関である。

サルサルサルサルサルサルサルサルサルサルサルと、どんどん産まれてくる。


鋼鉄は東京を脱出した頃であろうか。

気付けば床一面にサルサソースが。

僕の中から枯渇する気配などは全くない。


ふと目の前の女に目をやる。

なんということだ。

彼女の頭部のみ、ホットドッグになっている。

僕のサルサソースに反応して、本当の君の姿を見せてくれたのかい?

なるほど、慎ましく挟まれた真っ直ぐなソーセージは彼女の

頭頂部の生え際を連想させる。

これもまた、なんとも美しく神々しいストレート。


サルサルサルサル……

指を掻く手は止めずに、ただじっと観賞していた。

そのため、異変に気がついたのは早かった。


おかしい。


パンに切れ込み、その中にレタスが敷かれ上にはソーセージ……


足りないじゃあないか!

ケチャップにしろマスタードにしろ、何かしらソースはかかってなければならないだろう!

彼女は今プレーンなのである。

認めたくはないが、素のままなのだ。

可哀想に、この社会は女性にこんな辱めを黙認するまでに堕落してしまったのか。同じ国に生きる者として恥ずかしく思う。


むごく、残酷である、冷酷すぎる、無慈悲にも程があろうに。

誰がこんなことを…

しかし、今は揺れ動く鋼鉄の生命体の内部。

助けを呼ぼうにも、この乗客の中で調理師免許を持っている料理人はいるのだろうか?

いや管理栄養士でもいいかもしれない。

もしくは家庭科教師でも市議会議員でも農家、もしくは検事でもいいのだ。

誰かケチャップかマスタードを!


ちきしょうめ。

危機的状況に誰かが陥ったとしたら、真っ先に手を差し伸べるのが男だと、

亡き父から教わった。

しかしながら、今の僕には何ができるというのだろう。

何になれると言うのだろう。

ポケットには瞬間接着剤があるが、こんなものを彼女に注入できるはずがない。

芸術的直線が台無しになってしまうし、ホットドッグに超高度化学薬品なんか

塗るなんて非人道的行為だ。

万事休すか。


ホットドッグは俯き、彼女の肩は震えていた。

その度に、わさわさと新鮮な緑色のレタスが揺れる、可哀想に。

ねぇ、泣いているのかい?

あぁ神よ、無能な僕をどうか許してください。

あぁ仏よ、愚かな僕をどうか救ってください。

なぁ友よ、有能な君には出来る事があるかい。

どことなく、いや確実にソーセージは、先ほどと比べ乾燥してきている。

どうしても気化し、水々しさが無くなってきているのだ。


僕は、彼女を見放すのか?見殺しにするのか?


奥歯をギリっと噛み締め、膝下まで水位が来ているサルサソースに目を落とす。


……もしかして、合うのか?


そういえばケチャップも元はトマトだ、問題ないのかもしれない。

でも、ホットドッグにはマスタードが絶対だ。

白状してしまうが、僕はマスタード一択である。

ケチャップ党には申し訳ないが、やはりこの気持ちに嘘はつけない。

どうしてもマスタードが無かった場合にはケチャップだ。


今までこの2通りで育ってきた。

というよりもこれ以外の価値観を知らない、存在しているのかもわからない。

今までの二本の道に新たな第三の可能性を加えるのか。

サルサ、やれるのか?

彼女の涙を拭いてやれるのか?彼女を救えるのか?

迷っている暇は無い。


せめてとびきり新鮮なものを…


僕はサルサが未だゴプゴプッと溢れ出す親指を、彼女の頭頂部に乗せる。

指を伝い落ち、春の陽射しみたく、母の愛情の様に、それはそれは優しくソーセージの上を流れた。

するとどうだろう。


彼女の体は太陽の如く、鋭くそして嫋やかに発光するではないか。


「くっ、眩しい…!」


数秒間、たちまち車内を明るく照らした彼女は大きな一つの

ホットドッグになっていた!

目の前で160cmくらいあるホットドッグが着席している。


やった…

僕は彼女に、新しい風を吹き込めたのかもしれない。

まだ見ぬ新世界を提示できたのかもしれない。

具材全てが生き生きとしている。

先程までとは表情はまるで別人、別ホットドッグだ。

そう、希望に満ち溢れている。


「スクープじゃあ!大スクープ!!とんでもない一大事件!!!

早く写真に、文字に、記憶に、脳に、歴史に残さなければぁあ!!

明日のわしぁ、とんでも無いことになるぞおお!!!」


「昇進のチャンスじゃあ!万年ヒラ社員の汚名は晴らしてやるぞぉ!!窓際デスクなんて今日でサヨナラじゃ!!この記事で部長の座を奪ってやる!!

やる!切る!撮る!収める!残す!!貰う!滾る!屠る!探す!逃げる!!」


隣に座っていた中年男性が嬉々として、黒い一眼レフカメラを彼女に向ける。


「シャッターは切らせませんよ。」


彼女を守るんだ、僕は彼の手をパンッとはたき、

カメラをサルサソースの海に落とす。


「あぁああああぁっっっ!!わしのキャメラ、キャメラがあああぁあ!!まだローン終わってないんじゃぞぉぉおおお!はっ、弁償…べんっしょうじゃ!!」


慌てふためく彼を余所に、以前よりも大きくなった彼女にさらに追加で

サルサを流してあげる。


「君は…とてもキレイだ。」


停車地点に到着したのだろう、鋼鉄がうなり声を鎮める。

僕は無意識に彼女の手を握っていた。

行こう、二人で飛び出すんだ。


この漆黒の世界を、赤と緑と紫とオリーブオイル薫る世界に

染め上げようじゃないか!






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