⑽夜明けを灯す

 崩壊の音がする。

 足元から突き上げるような振動を感じながら、立花は弾切れの銃を懐に入れた。


 夜空を彩った無数の花は、最後に鮮やかな緑色の花を咲かせて静かに消えた。彼等がどんな結末を予測して準備したのかさっぱり分からないが、立花は、見事だと思った。


 ずしん、と。

 上層階が崩れる音がした。このままでは生き埋めだ。17階の高層ビルの崩落に巻き込まれたら、流石に如何にも出来ない。立花はうずくまったままの湊を呼んだ。




「おい、行くぞ」




 けれど、湊は俯いたまま、肩を震わせて座り込んでいた。

 苛立ちが胸の内に広がって行く。この子供が凡ゆる物事に対して、自分とは異なる考え方や感じ方をすることは知っている。だが、今は兎に角、時間が無かった。


 背負ってやりたかったが、立花の背中は硝子片が突き刺さり、血塗れだった。割れた硝子の上をシャツ一枚で滑ったせいだ。


 時間が惜しい。立花は湊の手を掴んだ。

 その頬には、透明な雫が筋となって流れ落ちていた。




「ガキみてぇにぐずぐず泣いてんじゃねぇぞ! 男だろ!」




 立花が怒鳴ると、湊は唇を噛み締めた。

 反論も聞かず、手を引いて走り出す。立花には気掛かりなことがあった。此処は14階。立花は屋上から転落して、湊の腕を掴んだのだ。そして、上層階は既に崩落している。


 最上階には、翔太がいた。ケジメをつけろと言って、立花が送り出した。どうなったのか。無事なのか。逃げることが出来たのか。


 階段の壁は亀裂が走り、今にも崩れ落ちそうだった。何処かで火災でも起きているのか黒煙が発生し、喉が焼けそうな熱波が噴き出している。上へ繋がる階段は瓦礫で埋まり、退ける時間も余力も無かった。


 けれど、湊は立花の手を振り払うと瓦礫に飛び付いた。焼けたコンクリートの破片を両手で掴みながら、何かに急き立てられるみたいに退かそうとする。

 絶妙なバランスで積み上がった瓦礫は、一つ退けると崩れ落ちる。立花は舌を打ち、湊を引き剥がした。




「迎えに行くって、言ったんだ……!」




 湊が言った。




「血塗れで、動けなかった……! だから……!」




 湊がコンクリート片に手を伸ばす。

 小さな手の平が焼ける嫌な臭いがした。立花は、暗い海に放り投げられたかのような絶望に襲われた。


 上層階に行く手立ては無い。フロアは丸ごと潰れているだろう。血塗れで動けない人間が助かる可能性なんて、何処にも無かった。


 立花は、愕然と立ち尽くした。己の手の平が焼けることも構わずにコンクリート片を退けようとする湊、噴き出す黒煙と炎。薄くなって行く酸素、崩壊までのカウントダウン。


 この世は理不尽で不条理で、大切なものはいつも指の間から擦り抜けて行く。成果には代償を求める癖に、選べない選択を迫り、容赦無く現実を突き付ける。


 立花は、湊の腕を取った。




「行くぞ」




 湊は、深い絶望に青褪あおざめていた。

 いやだと叫ぶ湊を押さえ付け、立花は殆ど引き摺るようにして階段を下った。途中のフロアから煙と炎が噴き出し、肺が焼けるようだった。




「翔太を置いて行けない!!」




 湊は、母親から引き剥がされた赤子のように泣き叫んでいた。あんまり暴れるので、火の勢いが減った五階辺りの踊り場で投げ捨てた。それでも湊は来た道を引き返そうとする。立花は背中の痛みをこらえながら、湊の胸倉を掴んだ。




「何でもかんでも救える訳じゃねぇんだよ!!!!」




 立花が怒鳴ると、湊が顔を歪めた。




「テメェが戻って何になる?! 死体が一つ増えるだけだろうが!! それで、あいつが本当に喜ぶと思うのか?!」




 湊は背中を折り曲げて、声を押し殺して泣いていた。

 立花は舌を打った。その腕を掴み、階段を駆け下りる。途中、足がもつれた。出血のせいで視界がかすむ。こんな所で、死んでたまるか。死なせてたまるか!


 三階まで辿り着くと、下はもう火の海だった。崩れ落ちるのと焼け死ぬのは、どちらが先か。

 力が抜けて手が離れそうになった時、湊が掴み返した。




「蓮治は死なせない」




 スイッチが入ったみたいに、湊は濃褐色の瞳に怜悧れいりな光を灯していた。小さな手は立花の腕を掴んだまま、煙に包まれたフロアの中を突き進んだ。


 何の変哲も無いオフィスは炎に包まれ、凄まじい熱波に歪んで見えた。燃えた天井から何かのコードがぶら下がり、蛍光灯が火花を散らす。


 燃え盛る廊下を、湊は真っ直ぐに駆けて行く。まるで、何処が安全なのか目に見えているかのようだった。湊は振り返りも立ち止まりもしないが、掴んだ手も離さない。


 そして、廊下の奥に到着すると、湊は床にしゃがみ込んだ。

 床には金属の蓋が埋め込まれていた。避難用救助袋。湊が蓋を開こうと手を伸ばす。


 肉の焼ける音がする。立花は湊を押し退けて、蓋に手を伸ばした。両手が焼けて、そのまま溶けてしまいそうだった。カチン、と間抜けな音がして蓋が開いた。


 落下先が火の海になっている可能性も考えていたが、どうやらそれは外部に通じているらしい。そういえば、この街は防災モデルタウンだったな、と思い出す。


 湊は首元のネックレスを握っていた。父とノワールの遺品。

 立花は首根っこを掴み、一気に飛び込んだ。

 正直、生きた心地がしなかった。一瞬だったような気もするし、永遠のように長くも感じられた。両足が冷えたアスファルトを踏んだ時、思わず天を仰いで何かに感謝したくなった。


 足元に地震のような揺れを感じ、立花は重い体にむちを打ち、湊を引き摺って走り出した。後ろで形容し難い物凄い音がした。粉塵が背中を追い掛け、そして追い越して行った。


 前も見えない酷い視界の中、立花は走り続けた。手は離さなかった。離してなるものかと、強く思った。


 この世の終わりかと思う程の轟音が鎮まって行く。不明瞭な視界の中、レーザースポットみたいな白い光が見えた。獣の息遣いのようなエンジンの拍動が聞こえる。立花は、それが何か知っていた。


 煙が晴れて行く。立花も湊も酸欠状態で、気道が引っ繰り返るんじゃないかと思うくらい激しくせ返った。吐き気が込み上げ、足元が揺れる。立花が足を止めると、湊が仰向けに倒れた。




「湊!!」




 悲鳴のような声を上げて、航が駆けて来る。粉塵の中で見たあの光は航のバイクのヘッドライトだったのだ。双子というのは、不思議な糸で繋がっているらしい。


 たまらず、立花もその場に座り込んだ。

 こんなに動き回ったのは、いつ以来だろう。立花が振り返ると湊は何でも無かったみたいな顔で、平然と航に状況説明を始めた。取りつくろうことばかり上手く、厄介な性質たちである。


 湊はもう、泣いていない。口元に浮かべた下手糞な笑みが、この子の本質を物語ものがたっているようだった。

 上空からヘリコプターの音がする。あれだけ派手に花火を打ち上げたら、警察もマスコミも駆け付けるだろう。しかし、それがそもそもの狙いだったのだろう。




「……翔太は?」




 航が、訊いた。立花も湊も、答えられなかった。航はさとい子供である。沈黙の意味を理解し、目を伏せると兄の肩を抱いた。


 その時、粉塵の中から声がした。

 先程の自分たちみたいに咳き込んで、何かがやって来る。立花は咄嗟に腰に差していたナイフのグリップを握った。銃は弾切れだ。此処で追手が来るのはまずい。


 湊と航も身構えていた。ひり付くような緊張の中、現れたのはエメラルドグリーンの瞳をした男だった。




「ペリドット……!」




 湊が嬉しそうに呼んだ。

 もうこいつは、生きていれば敵でも味方でも何でも良いのだろう。こんな状況だ。分かる気もするけれど。




「忘れもんだぜ」




 ペリドットは、白い歯を見せて不敵に笑った。

 煤塗れのスーツの背中に、一人の男がいた。それを見た瞬間、立花は声を上げて叫び出しそうになった。けれど、それは声にはならず、空気に霧散した。湊と航がぴったりと声を揃えて叫んだ。




「翔太!!」




 ペリドットが背負っていたのは、翔太だった。血塗れで、意識も無い。湊が駆け寄って脈を取る。




「生きてる!!」




 ぽっと、胸の中に火が灯ったような感覚だった。その光は、絶望に凍り付いた心を時間を掛けて溶かして行く。立花はペリドットに背負われている翔太の顔を覗き込んだ。


 酷い出血だ。両目は固く閉ざされ、身動ぎ一つしない。本当に生きているのかも分からないが、湊が生きているというのなら、そうなんだろう。


 怪我も疲労も忘れて喜ぶ湊と航、上空のヘリコプターが何かを叫ぶ。状況はとっ散らかって訳が分からない。

 この世は理不尽で不条理で、大切なものは指の間から擦り抜けて行く。けれど、絶望に膝を突きそうになる度に、何処からか希望の光が差し込む。


 この世界はゴミで出来ている。だが、ゴミにはゴミなりの利用価値があって、時々、ダイヤモンドみたいな奇跡が混じっていることがあるらしい。




「……まったく」




 立花はその場に座り込み、仰向けに寝転んだ。黒煙の立ち昇る夜空に、幾つかの星が煌めいていた。




「最高だよ、くそったれ」













 19.空を見上げて夢を見る

 ⑽夜明けをとも











 白いヘリコプターが上空を旋回する。

 カメラを構えたマスコミが、救命胴衣を纏った自衛隊が、地上を眩しく照らしている。大型河川に挟まれた中洲の街は完全に崩壊し、復興には長い時間が掛かるだろう。


 マスコミや国家とは相性が悪いので、立花は逃走の方法を考えた。対岸に繋がる橋は先日のホロコーストで爆破され、今は簡易的な橋が架けられている。しかし、その橋の向こうも回転灯を光らせたパトカーが押し寄せ、まるで真っ赤に燃えているように見えた。




「どうすっかな……」




 寝転んでいた立花は起き上がると、妙案が出て来ないものかと頭を掻いた。湊は昏睡状態の翔太に応急処置を施しており、梃子てこでも動かないだろう。


 航ならバイクで規制線を突破出来そうだが、全員は難しい。立花自身、背中が痛くてたまらなかった。両手の平も火傷している。これでは、また闇医者に足元を見られてしまう。働けど働けど、暮らしは楽にならない。




「なあ、ハヤブサ。お前、公安に融通利くか?」




 迫るヘリコプターを眺めながら、ペリドットが言った。

 一人涼しい顔をして、腹立たしい男である。立花と翔太が高層ビルに侵入した時に雑兵ぞうひょうがやけに少ないと思ったら、航と一緒にペリドットが片付けていたらしい。そういう抜け目の無い所も、嫌いだった。




「テメェとは違うんだよ」




 立花は鼻を鳴らした。

 国家に飼われたペリドットと、野良のらで生きて来た立花は違う。


 けれど、もしかしたら、と思った。


 立花とは、相性が悪い。けれど、湊と翔太はどうだろうか?

 翔太の父は公安の刑事だった。望月の計画に巻き込まれる形で死に、息子の翔太は追われる身だった。しかし、その望月が死んだ今、公安が翔太を狙う理由は無い。


 湊は公安刑事に知り合いがいる。一応、犯罪歴の無い未成年ということになっている。航も同様だ。


 じゃあ、つまり、俺だけか。

 立花は理解した。ペリドットは公安の切り札だ。こいつ等を全員秘密裏に保護する程度の権力はあるのかも知れない。公安ならば翔太を治療し、保護してくれる。


 そして、立花だけが、ペリドットというカードの恩恵おんけいあずかれないのである。


 これだけやって、ボロボロになって、俺だけ。

 謎の疎外感が疲労となって伸し掛かる。立花は深く溜息を吐いた。そして、ゆっくりと立ち上がった。




「まぁ、良いさ」




 立花はスーツの埃を払った。このスーツも寿命だ。買い換えなければならない。近江に初めて買ってもらったスーツだったのに。




「俺一人なら、どうとでもなる。その代わり、そいつ等を頼むぞ」




 立花が言うと、湊が縋るような目を向けて来た。まるで、捨て犬である。立花はその頭を撫でてやった。




「ちゃんと迎えに行ってやるから」




 撫でた頭は汗塗れで埃っぽかった。ペリドットが返事をしようと口を開いた時、バイクのエンジンが咆哮した。




「何言ってんだよ。俺が連れて行ってやるよ」




 航が親指で後部座席を指し示す。

 湊があんまりいかれているので目立たなかったが、こいつも大概、頭がおかしい。航は大量の花火玉と兄をバイクに乗せて、銃撃戦の中に突っ込んだのだ。一発でも被弾していたら、二人はロケットみたいに月まで吹っ飛んでいただろう。


 航の運転が素晴らしいことは重々承知だが、立花とは感覚が違い過ぎるので、同乗するには抵抗があった。だが、航は既にその気で、湊とペリドットも異論は無いらしかった。




「頼むよ、大事な弟なんだ」




 湊が言った。頼まれるのは、俺なのかよ。

 なんだか疲れてしまって、どうでも良くなってしまって、懐の煙草を探したが見付からない。本当に、この世界はままならない。


 ペリドットの元に湊と翔太を残し、立花はヘルメットを被ってバイクの後ろに乗った。殆ど徹夜で動き回っている癖に、航はピンピンしている。ゴキブリの生命力は逞しい。かつて、彼の兄が語ったことだった。


 航は道を塞ぐ瓦礫を器用に避けながら、バイクを手足のように自由自在に操った。パトカーの押し寄せる簡易橋の手前に来ると、掴まっているように言った。


 どうするつもりなのかと思ったら、航はトップギアで加速し、瓦礫を踏み台にしてパトカーを飛び越えた。正面突破である。動揺する警官達を嘲笑うようにバイクはパトカーの間を縫って走り、一気に路上へと躍り出た。


 パトカーのサイレンが追い掛ける。航は道の入り組んだ街中へ突っ込んだ。そういえば、彼等は周辺の地図も入念に調べ上げていた。末恐ろしい子供たちである。




「なあ、アンタさ」




 パトカーの追跡を完全に躱し、夜明けの迫る道の上で航が言った。運転しているので振り返りもしないが、その声は確かに立花に向けられていた。




「湊と喧嘩してたって、本当?」




 どういう質問だ。

 立花は微睡まどろみながら、答えた。




「あいつ、全然言うこと聞かないだろ。すぐ反抗するし」




 立花が言うと、航は噴き出すみたいに笑った。

 運転は淀みない。道は渋滞も無く、太陽が中天に差し掛かる頃には近江の元に戻れるだろう。


 立花が欠伸あくびを噛み殺していると、航が言った。




「湊は、親に反抗したこと無かったよ」




 たったの一度もね。

 それきり、航は何も言わなかった。


 立花は、白んで行く東の空を見詰めた。羨望と、腹立たしさと、一抹いちまつ憐憫れんびんが胸の中に溶けて行く。


 彼等の両親は、手を焼いたことだろう。

 けれど、寂しかったんじゃないだろうかと、他人事ひとごとながら思った。両親も、湊も、航も。


 愛され恵まれ育っても、生まれ持った性質は変えることが出来ない。反抗もせず、我儘わがままも言わない。海の向こうに残された我が子に、両親は死際しにぎわに何を思っただろう。立花には、想像することも出来なかった。


 初めて翔太を見付けた日、立花は捨て犬のようだと思った。けれど、湊は迷子に見えると言った。果たして、本当の捨て犬は、迷子は誰だったのか。


 こんなことは、考えても無駄なことだ。

 立花は考えを放逐した。


 俺たちは不可能を幾つも抱え、不条理に立ちすくみ、過去を嘆きながらも前進するしか無いのだ。例え、それがどんなにけわしい道であっても。


 夜が明けて行く。

 朝の清々しい空気を肺に入れながら、立花は煙草が吸いてぇなと、思った。

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