⑼銀河鉄道
夜空に光の花が咲く。
色鮮やかな花火は、闇に染まった
ペリドットは、高層ビル最上階にいた。
広いフロアは社長室と会議室だけの贅沢な造りだった。社長室の窓から見上げる夜空は、この世のどんな宝石よりも、どんな絶景よりも美しく、価値があると思った。
航が囮としてバイクで駆け回っている間、湊が下水道に何かを仕掛けていることは知っていた。爆薬の類だと思っていたが、まさか、打ち上げ花火とは。
馬鹿らしく、下らなく、愚かで。
――見事だと思った。
花火に気付いたマスコミや警察関係のヘリコプターが飛んで来る。この街に巣食う下衆な陰謀も策略も、やがて明るみに出るだろう。SLCが何をしたか、公安の望月が何を目論んでいたか、全ては白日の下に。
どん、どどん。どどん、どん。
咲き誇る夜空の花は、何故だか幼い頃に眺めたクリスマスのイルミネーションに重なって見えた。
ペリドット――
幼少期、暴力に支配された狭い家の中が世界の全てだった。
生まれたばかりの弟。初めて出来た守るべき存在。
丸いエメラルドグリーンの瞳。小さな手足。柔らかな手の平に触れた時、ぎゅっと掴み返され、
あの時、誓ったんだ。
俺が守る。ずっと守る。――例え、側にいられなくても。
父の暴力の
小学校から帰って来た時、五歳の弟がぐったりと倒れていて、心臓が凍った。頬には青痣があり、殴られて壁に頭を打ち、気を失っていたことが分かった。
父はろくでなしだった。働きもせず、酒ばかり呑み、暴力を振るった。弟はいつも傷だらけだった。
腫れた頬を水で冷やし、裂傷に布を巻き、小学校から盗んだパンを与え、侑はいつも弟を抱いて眠った。時折、弟が痛みに呻き、恐怖を思い出して泣いた。侑は弟を抱きながら、言い聞かせた。
何度でも、兄ちゃんが守ってやるから。
アルバイト先で、クリスマスにショートケーキを一つ貰った。普段、ケーキなんて贅沢な物は食べられなかった。侑は箱を抱えて急いで帰った。
玄関の扉を開けて、弟の姿を探した。風呂場から声がして、嫌な予感に走り出した。父は、弟の頭を押さえ付けて、風呂釜に沈めていた。
侑はケーキの箱を放り出し、父に縋り付いた。振り払われても、殴られても蹴られても、何度も父の前に立ち塞がった。
飽きた父が惰眠を貪り始めた頃、侑は息を殺して歩き出した。びしょ濡れの弟を抱き締め、頬の痛みを我慢して、潰れたケーキの箱を拾った。
ケーキは崩れていた。頂上にあっただろう
それが、何故だか悲しくて、悔しくて、侑は泣いた。
どうして、俺たちがこんな目に遭わなければならないんだ?
街を彩るクリスマスのイルミネーション、サンタクロースのコスプレをした男が風船を配る。プレゼントを抱えた子供に、優しそうな父親が手を繋ぐ。
侑は弟にケーキを与えた。けれど、新は甘いものが食べられなかった。それも、悲しかった。弟の為に何も出来ない。好きなものを与えることも、守ってやることも、何も。
小さな苺を指先で
ショートケーキの苺は、特別なんだぜ。
こいつはとびっきりのご褒美なんだ。
頑張ってるお前へのプレゼントだよ。
新は笑って、苺を食べた。侑は、自分が不甲斐無かった。
こんなものしか与えられないのか。暴力に支配された狭い家の中、侑は新を抱き締めていた。
なあ、新。
胸の内に呼び掛ける。返事は無い。それも分かっていた。
人は死んだら、生き返らない。知っていたんだ。お前には、日の当たる場所で、幸せに生きていて欲しかったよ……。
ペリドットは
ならば、この建物も同じ道を辿るはずだ。いずれにせよ、長居する必要は無かった。ハヤブサは最速のヒットマン。早撃ちも然ることながら、その本質は、逃げ足の速さにある。
勇敢な者は早く死に、臆病者だけが生き残る。ペリドットは社長室を出て、階段に向かった。
会議室の扉が開いていたので、何となく覗いた。まるで乱闘でもしたかのような荒れ方だった。血と硝煙の臭いがする。花火に照らされる会議室の中、眉間を撃ち抜かれた
愚かな男だ。家族を奪われ、犯人を逃し、まるで何かに取り憑かれたみたいに仕事に没頭して、最期はこんな所で死んだのか。復讐者の最期とは、こんなものなのだろう。
自分も、そうだったのだろうかと思った。何か一つ選択肢を間違えば、同じ運命を辿っていたのだろうか――なんて、下らない。
ペリドットが通り過ぎようとした時、もう一人、倒れている男がいた。それは見知った男だった。迷子のような、捨て犬のような、気の良さそうな顔をした若い男。裏社会では生きて行けそうも無い御人好し。
神谷翔太。
血溜まりの中、
ああ、お前も駄目だったのか。
ペリドットは会議室に足を踏み入れた。銃創と部屋の状況から
ほんの
けれど、背負った時、微かに心臓の音が聞こえた。
生きてる。
まだ、間に合うのかも知れない。
弟とは、違う。まだ、生きてる。
ペリドットは翔太を背負い直し、駆け出した。
幼い頃の弟の顔が、血塗れの弟の遺体が、届かなかった手が、今度は、間に合うのかも知れない。
「生きていてやれよ……」
お前を待ってる奴がいるぞ。
お前に生きていて欲しいと願う人間がいるぞ。
お前には、帰る場所があるんだから。
19.空を見上げて夢を見る
⑼銀河鉄道
足の底から金槌で打ち上げられているような振動が広がる。等間隔に響く擦過音は何処か懐かしく、泥のような
「ねぇ、ショウくん」
起きて、と柔らかな女性の声がした。
翔太は重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
幸薄そうな微笑み。けれど、その瞳は確かな意志を感じさせる力強さがあった。翔太はその女性を知っていた。
「
高梁は、深緑の椅子に座っていた。すぐ横には窓があって、外は宇宙空間みたいな星空だった。列車に乗っている。翔太は不思議な気持ちで、高梁を見ていた。
「ほら、見て。
高梁が窓の外を指し示す。広大な星空に一等輝く真っ赤な星がある。ガーネットのように美しく、それは太陽のように燃え盛っていた。
翔太はその星の美しさに
機嫌良さそうに微笑む高梁に、翔太は尋ねた。
「なあ、アンタは、恨んでるか」
志半ばで、理不尽に命を奪われて。翔太はそれを知りながら、助けることも、止めることも出来なかった。
高梁は少女のように首を
「どうして? 私は最期の一瞬まで、自分の思うように生き抜いたわ」
「……」
「私はやるべきことをした。例え、それが報われなくても」
翔太には、返す言葉が無かった。
奥歯を噛み締めて俯いていると、無感情なアナウンスが響いた。次は、蠍の心臓。
高梁は手荷物も無く立ち上がると、スーツの皺を伸ばしながら言った。
「私、あの星に行ってみようと思うの。ショウくんも行く?」
高梁が尋ねる。
あの星、蠍の心臓。綺麗な星だった。
「お前の降りる駅は此処じゃないよ」
高梁は残念そうに微笑んで、小さく手を振った。汽車が停車すると、沢山の乗客が降りて行った。誰もが手荷物を持たず、子供のようにはしゃいで、真っ赤な星を目指して行く。
テナーの声をした男は、翔太の真正面に座ると行儀悪く足を組んだ。エメラルドグリーンの瞳は窓の向こうを睨むように見詰めている。
汽車が動き出す。たたん、ととん。柔らかな音が無人の車内に響き出す。蠍の心臓は少しずつ遠去かり、星の海に消えて行った。
目の前の男は、不機嫌そうに外を見ていた。シックな黒いシャツ、首元には銀色のチェーンが見える。翔太はそれを、知っていた。
「なんで此処にいるんだよ」
ノワールが、言った。責めるような、
星の海を走る列車。――ああ、そうか、これが。
これが、銀河鉄道か。
線路も無いのに汽車は進む。時々、汽笛の音がした。足元から拍動のような揺れが広がって、まるで血管の上を走っているみたいだった。
翔太は、ノワールを見た。エメラルドグリーンの瞳は、春の新緑のように美しく透き通り、黒髪は星空を映して
「湊が、泣いてたぞ」
翔太が言うと、ノワールは顔を歪めた。
そして、苦虫を噛み潰したような顔で答えた。
「知ってる」
ノワールは
「あいつは、ずっと泣いてたよ。俺が置いて行った時も、親の仇を司法に突き出した時もな」
そうか、ずっと、泣いてたのか。
悲しみがじわじわと胸の内に広がって、息が苦しくなる。
だって、知らなかったんだ。分からなかったんだ。あの子は一人で乗り越える。傷付いても立ち上がる。どんな時も諦めずに起死回生の一手を探す。そういう強い子だと、思いたかったんだ。
「俺はもう慰めてやれねぇ。守ってやってくれよ」
それは
この言葉を、前にも聞いた。薬で脳を破壊され、舌が
「頼むよ、翔太。生きていてやってくれよ」
ああ、こんな俺でも。
こんな俺でも、生きていて欲しいと言ってくれる人がいる。待っていてくれる人がいる。帰る場所がある。
行ってきますと言えば、行ってらっしゃいと手を振って。
ただいまと言えば、おかえりと帰って来る。
それがどんなに得難く、幸福だったか。
名前を呼んでくれる人がいること、気持ちに寄り添ってくれる人がいたこと。それがどんなに心を支えてくれたか。
汽笛が鳴る。たたん、ととん。電車の音がする。
その向こうで、胸を突き上げるような音が聞こえる。
翔太は立ち上がった。汽車は星の海を走り続ける。けれど、車内は白く
「あいつのこと、頼んだぞ」
ノワールは、花が
翔太が頷き、立ち上がった。世界は白く霞み、ノワールの顔さえもう見えない。だけど、死んで
歌が聞こえる。テナーとボーイソプラノの美しく澄んだ歌声が優しく響く。翔太は其処に、そっと声を乗せた。
Hallelujah, Hallelujah, Hallelujah, Hallelujah......
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