⑻夜空に咲く
体が重かった。
頭は鉛でも詰まったように、衣服は水を吸ったように、一歩を踏み出す度に容赦無く気力と体力を削り取った。
それでも、湊は走った。関節がぎしぎしと鳴って、
何も考えなかった。立ち止まったら、それは死ぬ時だと分かっていた。此処で諦めたら、自分の魂は根元から折れて、もう二度と立ち上がることは出来ない。
ただ、走る。走る。走る。
武装した男達の死体が積み重なり、廊下は血の海となり、階段は爆煙で真っ黒に染め上げられ、何処かで銃声が響き渡る。
走る。走る。走る。走る。
振り返るなと、言われた。だから、走った。それしか出来ないならば、それだけをやるべきだ。他のことは後回しで良い。今は少しでも早く、――立花の元へ。
銃殺された男が仰向けに倒れている。湊は
どん、と何かにぶつかった。湊は尻餅をついて、それが壁であることを知った。前すら見えていない。自分を笑う余裕も無い。立ち上がって、走る。汗が目に染みて、邪魔だったので手で拭った。真っ赤だった。返り血なのか、出血なのかも分からない。
何かが胸を突き上げる。口を開けば、零れ落ちそうだった。
湊は唇を噛んだ。血の味が、した。
リュックの中でタブレット端末が陳腐な音を立てた。
任務達成の合図。航は無事だ。ペリドットは何処にいるのか分からない。残党狩りをしつつ、航を助けに行ってくれたはずだった。
あとは、ギベオンを始末するだけだ。
SLCに寄生する殺人鬼。立花が食い止めてくれているはずだ。だけど、翔太が行けと言うから。嫌な予感が心臓を
此処は何処だろう。俺は何処に行けば良い。
蓮治、これで良いの。翔太を助けに戻るべきじゃないの。
人の体からどのくらいの血液が失くなったら命の危険があるのか、死に至るのか、分かっている。輸血と手術が必要だった。だけど、そんなものは何処にも無いから。
応急手当は出来ても、開腹手術は出来ない。湊は脳科学の研究者で、ただの子供だった。
俺に何が出来るの。
息が上がって、喉の奥からひゅうひゅうと奇妙な音が漏れた。膝ががくがくと震え、視界が
走っているのか、歩いているのか、前に進んでいるのか、その場で足踏みしているだけなのか。もう、何も分からない。
足が
弱音や泣き言は呑み込んだ。嫌な想像は放逐した。湊は肘を突き、縫い付けられたかのように重い体を床から引き
「ミナ」
声が、聞こえた気がした。
それはもう二度と聞けるはずの無い、穏やかなテナーの声だった。ふっと体が軽くなり、痛みが引いて行く。湊は声の主を探したが、それは何処にも見当たらない。
「ミナ、こっちだ」
湊は歩き出した。何処に向かっているのか分からない。冥界だと言うのならば、それでも良かった。
高層ビルの階段を駆け上がり、辿り着いたのは閑散としたオフィスだった。事務用の机が整然と並び、開け放たれた窓にブラインドが揺れる。突風が吹き込み、何かの書類を吹き飛ばして行く。窓の向こうはもう夜だった。
ずっと、夜の中にいる気がする。出口の無いトンネルを、ずっと独りで走っているような。
歌が聞こえる。
Hallelujah, Hallelujah, Hallelujah, Hallelujah......
19.空を見上げて夢を見る
⑻夜空に咲く
屋上は、サッカーでも出来そうなくらい広かった。白いコンクリートの床に、オレンジ色の蛍光塗料でヘリポートが描かれている。吹き付ける風は冷たく、痛いくらいだった。
ロックダウンした街の上には、無数の星が光っていた。街の光は遠く、まるでこの場所が深い谷底にあるみたいだ。
立花は
ギベオンは散弾銃を持っていた。立花が撃ち抜いた右肩は、痛みを感じていないようだった。対して、此方は銃弾も残り少なかった。
スムラクは車に置いて来てしまったし、閃光弾や
一度、撤退するべきだ。体勢を立て直す。
そして、ギベオンは何処かで狙撃して始末しよう。――ああ、でも、此処には翔太がいる。助けに行ってやらないと。
状況が分からない。今、他はどうなってる。無事なのか。
「逃げてんじゃねぇよ、チキン野郎!!」
追い付いて来たギベオンが、
立花は身を潜めたまま、ギベオンの胴体を狙った。頭部よりも的が大きかったからだ。
ホローポイント弾は、貫通力が無い分、体内に残り大きなダメージを与える。これを作った奴はサディストか、マッドサイエンティストだろう。
右の肺、
硝子片の上を滑ったせいで、背中は血塗れだった。派手に切れたらしく血が止まらない。
ギベオンは血を流しながら、散弾銃を抱えて笑っている。追い詰められる前に、頭を吹き飛ばすしか無い。
こんな窮地は、久々だ。
立花は指先のケロイドを撫でた。馬鹿だった頃の自分は、発砲後の銃口が熱くなることも知らずに触ったのだ。これは昔を忘れない為の戒めだった。
野の百合は如何にして育つかを思え。
頭の中に蘇る、地獄のような孤児院の記憶。振り上げられた拳、
結局、何処まで逃げても、忘れたふりを続けても、過去は必ず追い付いて来る。ならば、やるべきことは一つだ。踏み止まっても守れないのなら、踏み込むしかない。
銃撃の途切れた瞬間を狙い、立花は身を滑らせた。
ギベオンの胡乱な眼球が追い掛ける。銃口が此方を向く、その瞬間、立花の銃口が火を噴いた。
体勢が乱れていたせいか、一発しか当たらない。しかし、それはギベオンの首筋を貫き、致命傷を与えていた。
だが、ギベオンは笑っていた。首筋から噴水のような鮮血を撒き散らし、狂気的な笑みを浮かべ、散弾銃の引き金を引いた。
タタタタタタタタタタタタ。
闇の中に白い光がフラッシュする。立花は転がるようにして銃弾を避け、そして、背筋が凍るような浮遊感に襲われた。
其処には闇に染まる虚無が広がっていた。立花の体は宙に浮き、転落寸前に屋上の淵を掴んでいた。
銃弾は残り一発。ぴちゃぴちゃと
どちらが、マシか。
立花の脳裏に、選択肢が過ぎった。
此処でこんな寄生虫に撃たれるくらいなら、自分から手を離した方がマシだ。
ギベオンは、銃口を突き付けて笑っていた。
「ゲームセットだぜ、三代目」
ギベオンの革靴が、立花の指を踏んだ。
「ダークヒーローだか裏社会の正義だか言われていたが、呆気無いもんだな」
立花は鼻で笑った。
「正義だの仁義だの、そんなもんはとっくに犬に食わせちまったよ」
「じゃあ、テメェは俺と同じ薄汚い殺人鬼って訳だ」
「テメェと一緒にすんじゃねぇよ、外道」
立花が吐き捨てると、ギベオンは口角を釣り上げた。
「じゃあな、三代目。楽しかったぜ」
ギベオンの
胃の中が引っ繰り返るような浮遊感だった。手も足も届かない。自分がとどめを刺さなくても、ギベオンはどうせ死ぬ。ただ、あいつの眉間に銃弾をぶち込めなかったことだけが、心残りだった。
地面に衝突するまでどのくらい掛かるだろう。頭蓋骨がコンクリートに当たって砕ける乾いた音を知っている。血の臭い、溢れる
人殺しには相応しい、惨めで、無様で、ゴミみたいな死に様だ。大義の為に死ぬこと、名誉の為に戦うこと、自分には縁の無い話だ。立花はそっと目を閉じた。その時、何処からか子供の声が聞こえた。
レンジはいつも窮屈そうだね。
この世が等価交換ならば、最期の時にレンジは何を払うの?
透き通るような濃褐色の瞳が、真っ直ぐに見詰めて来る。
ああ、あいつが、また。
あいつがまた、俺を呼んでる。
「――蓮治!!」
立花は、目を開けた。
身を切り裂くような突風、浮遊感。何処までも落ちて行く視界の端から、細い腕が伸ばされる。それはまるで、あの頃掴んでやれなかった子供の掌のようだった。
あの時、守れなかった命が。
届かなかった掌が。
今度は、届く。――今度は、届く!
手を伸ばしたのは、無意識だった。包帯に覆われた細い腕、掌から血が滲む。関節の軋む嫌な音がして、立花の転落は
窓から上半身を乗り出した湊が、立花の腕を掴んでいた。
どうして、此処にいるんだ。どうして、どうやって。
ぽたりと、立花の頬に雨粒が落ちる。宙ぶらりんになりながら、立花は恐る恐ると見上げた。
酷い、酷い顔だった。
両目は充血して、瞼は腫れ、頬には青痣、擦り傷。煤塗れの血塗れで、湊は泣く寸前のような情けない顔をしていた。
「お前まで、落ちるぞ……」
立花が言うと、湊は顔を
「落ちる時は一緒だって、約束したろ……」
Pinky promise.
嘘を吐いたら死ぬことを誓い、針を自分の目に刺します。
あんな口約束を、律儀に覚えていたのか。
湊は、手を離さなかった。転落すると分かっていても、この手は離されないのだろう。落ちるなら、何処までも一緒に。
だけど、立花は決して、この子を地獄に連れて行きたい訳じゃなかった。幸せでいて欲しかった。日の当たる世界で、この世の不幸なんて知らないみたいに、笑っていて欲しかった。こいつが離さないなら、俺が。
立花が振り払おうとしたその時、湊が絞り出すような掠れた声で言った。
「俺はもう、誰にも死んで欲しくないんだよ……」
ぽたり、ぽたりと雫が落ちる。
雨じゃない。湊の目から、大粒の涙が零れ落ちる。
「お願いだから、生きていて……」
ああ、そうなのか。
それはまるで、春が来て雪が溶けるように、
なるほど、こいつには、まだ俺が必要らしい。
屋上からギベオンが身を乗り出す。湊も立花も動けない。散弾銃の銃口が見下ろす。間に合わない。――せめて、湊だけでも。
立花が覚悟を決めた、その時だった。
口笛のような音がして、胸に広がるような爆音が鳴り響いた。
夜空がぱっと照らされる。
よく晴れた夜空に、幾つもの巨大な菊型の花が
地獄にも花が咲くことを知ってる。
いつかの湊の声が鮮明に蘇る。
――そうか、これが。
体の痛みも重さも感じなかった。動揺したギベオンが空を見上げる。立花は湊の腕を引っ掴み、軽く宙返りをすると窓の
ギベオンが身を乗り出す、その瞬間。
立花は引き金を引き絞った。
乾いた破裂音は、花火の音に掻き消された。ギベオンの眉間に真っ黒い穴が開き、その体がぐらりと揺らぐ。立花は窓枠に立ったまま、真っ逆さまに転落する憐れな殺人鬼を見送った。
頭蓋骨の割れる音は、聞こえなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます