⑺願ったもの

「SLCと手を組んだ理由は、何なんだ」




 翔太は拳を固めた。

 平和的解決も、相互理解も不可能。それでも、翔太は訊かなければならなかった。人の可能性を、明るい未来を、少しでもマシな選択をしたいから。


 望月はよどみなく、そして穏やかに言った。




「SLCは莫大な資産と権力を持っている。彼等の作る薬は未来への可能性なんだよ」

「あれは、人の脳味噌をぶっ壊す悪魔の薬だ」

「君は理解が浅いね。あれはまだ未完成なんだ。将来的には、人の悪性を制御することが出来る」




 翔太は唇を噛み締めた。




「それは、洗脳だ」




 望月はそれらしい言葉を並べてはいるが、結局の所、やろうとしているのは恐怖による支配と、人々の洗脳なのだ。SLCというカルト集団と同じだ。


 望月は微笑んでいる。




「違うね。我々が目指しているのは、人格の矯正きょうせいだ」




 何が違うのか、翔太には分からなかった。

 この人がやろうとしているのは、人々を操り人形にして、犯罪を失くすことなのだ。では、其処に人間である意味はあるのか?




「薬によって人の悪性を抑制し、司法による浄化部隊が権威と畏怖によって法を遵守させる。……冤罪の可能性を君は危惧きぐしていたけれど、蜂谷湊くんの能力があれば、その可能性は限りなく低くなる」




 湊は、他人の嘘を見抜く能力を持っていた。

 本人は超感覚的知覚能力、つまり超能力の一種と仮定して研究をしていた。医療に導入し、紛争地で医療援助する父を助ける為に。


 SLCは、湊に執着していた。

 奴等にとって湊は便利な道具で、珍しい実験動物だった。

 そんな奴等が人を洗脳して、真面な世界を創れるとは到底思えない。




「これは、なんだよ」




 望月が、言った。


 翔太は、胸の中に冷たい風が吹き込むような虚しさを覚えた。望月という男は、世界に対して深い諦念を抱いている。憎悪、憤怒、怨恨、羨望。全てがぐちゃぐちゃに混ざって、最早、元の形すら分からない。




「……言いたいことは、分かったよ」




 もう、無理なんだ。

 どれだけ話しても平行線で、俺達の価値観は交わることは無い。自由と支配、どちらがマシか。そんなこと、翔太が考える必要も無かった。




「アンタは、クソ野郎だ」




 翔太が言うと、銀縁眼鏡の奥で望月が目を細めた。




「正義も悪も、俺には遠い世界の話だ。秩序だの大義だの偉そうなこと言ってるけど、結局、アンタは可哀想な自分を慰めたいだけなんだよ」




 望月の眉間に皺が寄る。

 翔太はポケットの中で拳銃のグリップを握った。




「誰かに同情して欲しかったんだろ? だから、SLCなんていかれたカルトに走ったんだろ?」

「SLCはカルトではない! 彼等は科学によってこれまで多くの人を救って来たんだ!」

「いいや、カルトだよ。それもかなり悪質な犯罪組織だ。其処に寄生するアンタも、同じくらい汚ェ」




 反吐が出る。

 翔太は舌を打った。




「アンタのいかれた計画のせいで、何人死んだんだ? 何人殺せば気が済むんだ? 浄化部隊なんて名前で誤魔化しても、やろうとしていることはただの人殺しじゃねぇか!」




 望月が地面を蹴った。次の動きが読める。

 右ストレートを初動で読み、腕を掴んで引き倒す。床に叩き付けられた望月が呻き声を漏らした。

 翔太は関節を押さえながら、恫喝するように怒鳴った。




「アンタに何が出来るって? 何が変えられるって? テメェの家族一人助けられなかった最低最悪のクソ親父が、今更何を守れるって言うんだ!!」




 こんな男の訳の分からない、いかれた計画のせいで俺の家族は奪われたのか? こいつのせいでノワールは死に、湊は今も苦しんでいるのか?




「アンタの家族は、アンタが殺したんだよ!!」




 翔太が叫んだ瞬間、関節が嫌な音を立てた。

 確実に押さえ込んでいたはずなのに、望月は軟体動物のように擦り抜け、懐に手を伸ばした。翔太は既に引き金を引いていた。


 乾いた破裂音が響き渡り、硝煙の臭いが鼻を突く。銃弾は望月の脇腹を貫き、白い壁に突き刺さる。望月の銃口が此方を向いている。金色の銃弾が空気を切り裂き、翔太の頬を掠めた。


 床を転がり、机の影に隠れながら望月を狙った。

 パン、パンと単発の銃声が響く。装弾数は六発。装填する時には隙が生まれる。無駄撃ちは出来ない。


 銃弾が追い掛ける。机の影を疾走しながら、翔太は望月の足を狙った。銃弾がパイプ椅子に弾かれる。

 望月が机を迂回うかいして回り込む。乾いた音と共に、左肩と脇腹に熱が走った。翔太は構わず床を転がり、机を蹴り上げた。


 机がパイプ椅子を巻き込んで吹っ飛ぶ、凄まじい音がした。

 翔太にはそれがコマ送りに見えた。吹き飛ばされた机や椅子が宙に浮き、望月が咄嗟に防御の姿勢を取る。体が軽く、やけに視界が明瞭だった。


 高次元の集中――。

 湊と一緒に、訓練した。


 翔太は銃口を構えていた。

 親指と中指の付け根で、フレームの高い位置を握る。銃の中心線が手首を通るように支え、軽く前傾姿勢で、重心は前へ。体は目標に対して正面を向き、肘は伸ばし切らず、銃口を下げない。

 立花が、教えてくれた。


 何の為に強くなるのか。それは、信念を貫く為であり、己に勝つ為であり、人を導く為である。

 フルコンタクト空手の師匠が、語った。


 冷静に、柔軟に、勝機を見逃さないこと。

 地下格闘技場で、ノワールから学んだこと。


 考え過ぎない。自然体であること。

 近江とのトレーニングで、身に付けた。


 指先は軽かった。痛みも出血も、意識の外にあった。

 翔太はそうするのが当然であるように、引き金を絞った。

 金色の銃弾が流れ星のように駆け抜ける。空気を切り裂くスパイラル回転。銃弾は望月の眉間を貫き、真っ赤な血が迸った。


 コンマ数秒の亡失。机やパイプ椅子が音を立てて落下する。

 その下に埋もれた望月は、うつぶせのまま動かなかった。後頭部からは赤黒い血液が脳漿のうしょうと共に流れ落ちる。


 激しい運動直後のように、酷く息が上がっていた。

 翔太はその場にしゃがみ込み、そのまま仰向けに倒れた。

 脇腹と肩から血が流れる感覚がある。脈動は耳元で聞こえ、視界がかすんだ。起き上がらなければと思うのに、体が動かない。まるで、水の中にいるみたいだった。


 連絡、しなきゃ。

 翔太はポケットに手を伸ばそうとした。

 望月を殺ったぞ。家族の仇を討った。ケジメを付けたんだ。

 湊に、立花に言わなきゃ。


 ああ、でも。


 なんだか、すごく眠いな。

 寒いのに、暖かい気がする。


 何でだろうな。


 連絡、しなきゃ。

 鉛にでもなったみたいに腕が重い。ポケットに向かって伸ばしたはずの手は空を切った。体が動かない。


 俺、死ぬのか。

 背中一面に濡れている感触がある。痛みは無い。頭がぼんやりして、何だか気分が良かった。雲の中にいるみたいに世界が白く滲んでいる。伸ばした手だけが、奇妙に赤い。


 どうせこの世は欠陥だらけの欠陥品そのものなのだ。祈っても、縋っても、何も変えることは出来ない。


 それでも、翔太は手を伸ばした。


 何故なのかは、分からなかった。そうしたいと思った。血塗れのこの手で守れるものがあるならば掴みたい。たった一つで良い。揺るぎない、確かなものが欲しい。


 きっと、俺は誰かに。














 19.空を見上げて夢を見る

 ⑺願ったもの













「翔太!!」




 それは、まるで夜明けを告げるかねの音のように。

 力の抜けた腕が落ちる刹那、小さな手の平がそれを掴んだ。




「翔太! しっかりして!!」




 ぼんやりとかすむ視界の中で、まるで其処にだけスポットライトが当たっているみたいだった。


 独りぼっちの俺の前に現れた、天使。




「湊……」




 湊の小さな手の平に、ぎゅっと力がこもる。

 包帯からは血が滲み、頬には青痣あおあざが残り、頭からすすを被って、まるでお爺さんみたいな酷い有様だった。出会った頃の天使のような面影は無い。


 ああ、俺はきっと。

 俺は、きっと


 夏の夕暮れ、影法師。蝉時雨の中を砂月と歩いたみたいに。

 繁華街の雑踏を、はぐれないように湊と彷徨さまよったみたいに。

 汚れた路地裏、血塗れのまま、航と駆け抜けたみたいに。


 俺は誰かと、繋がっていたかったんだ。




「湊……、俺、やったぞ……」




 口の中は血で一杯だった。

 せ返ると血が噴き出す。湊は翔太の手を握ったまま、何かをこらえているかのような顔で何度も頷いた。




「でも……、達成感なんて、無かったな……」




 復讐は不毛。非生産的。何も生まない。

 立花が何度も言った。その通りだった。だけど、後悔は無かった。過去を切り捨てて生きることなんて、誰にも出来やしないのだから。




「翔太、俺が必ず助けるから……」




 湊はそう言って、手の平を握った。

 その言葉で、翔太は理解した。


 ああ、俺、死ぬんだ。

 もう無理なんだ。終わりなんだ。


 呆気無い幕切れだ。俺は何も成し遂げられず、結末も見届けられないのだ。こんな空虚な場所で、家族の仇の死体の側で、死ぬんだ。


 俺にどのくらいの時間が残されているの?

 せめて、この子を、この血腥ちなまぐさい地獄から救ってやりたかったよ。助けて、守ってやりたかったよ。




「湊……行け」




 翔太は、体中の力を振り絞って湊を押した。

 この子はこんな場所にいるべきじゃない。立花もペリドットも、航も戦ってる。助けが要るかも知れない。

 指先が震える。普段の十分の一の力も無い。湊はその手を掴んで離さない。




「いやだ……」




 ぽろりと、湊の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。




「翔太がいないと、いやだ……」




 ぽろぽろと、透明なしずくが落下する。

 湊は口元に下手糞な笑みを浮かべ、泣いているんだか笑っているんだか、よく分からない顔をしていた。


 本当に強い奴は、笑うんだ。

 彼の父が言った。だから、この子は泣きながら笑うんだ。それがとても苦しくて、辛くて、翔太の目から涙が落ちた。




「行けよ……湊……!」




 泣きながら、翔太は湊を押した。けれど、湊は地べたに座り込んだまま、翔太の手を握っていた。




「立てないんだ……、翔太がいないと、駄目なんだ……」

「行け……!」

「もう、いやなんだよ……!」




 湊は翔太の手を握ったまま、殆ど泣き声みたいな声で言った。止め処無く流れ落ちる涙をそのままに、湊は子供のように「いやだ、いやだ」と訴える。




「置いて行かれるのは、もういやなんだよ……!!」




 その時になって、翔太は初めてこの子の傷に気が付いた。

 悲しみも怒りも呑み込んで、どんな時も冷静に、大人顔負けの知恵と技術で生き抜いて来た。この子は傷付いても立ち上がれる人間だと、図太くて、丈夫な子なんだと、思っていた。


 でも、本当は、そうじゃなかった。

 この子は、ずっと我慢がまんしていただけだったんだ。


 家族を失くし、大切な人を奪われ、自分の夢すら諦めた。

 この子はもう傷だらけだ。


 それでも、この子の願いは、ずっと変わらなかった。


 生きていて、と。

 其処にいてくれ、と。

 ただそれだけを、何度も、何度も。


 でも、もう無理なんだ。

 俺はお前を守ってやれないんだ。

 だからせめて、もうこれ以上失わずに済むように。


 力を振り絞る。この体じゃ、もう何処にも行けやしない。


 動け、動け動け動け動け動け動け!!

 俺の腕だろ!

 この手にあるものくらい、守ってみせろよ!


 この子にこれ以上の地獄を、これ以上の傷を与えてなるものか!




!!!!」




 その瞬間、湊の顔が強張った。


 この子は、自分が何をすべきか判断出来る子だ。

 考える力がある。誰かを愛することが出来る。大切なものがある。帰る場所がある。


 例えば手を繋いだなら、いつかは手を離す日が来る。

 翔太は、小さな手の平を振り払った。湊は顔をくしゃくしゃにして、背中を丸めて、声にならない声で泣いた。そして、顔を上げた時には真っ赤な目で、唇を噛み締めて、ゆっくりと、ゆっくりと立ち上がった。




「必ず、迎えに来る。だから、待っていて……」




 出来ない約束、果たせない願い。

 それでも、人は祈らずにはいられない。

 湊は投げ出された翔太の小指に、自分の小指を絡めた。


 湊が何かを言った。翔太にはもう、聞き取れなかった。




「振り返るなよ……」




 翔太は言った。もう、湊の声も顔も分からなかった。

 瞼が重い。眠くてたまらない。


 誰かが、呼んでいる。砂月の声がする。

 人は死んだら、何処へ行くの。


 なあ、俺も、誰かの思い出の中で生きて行けるのかな?


 其処で、暗転。

 翔太の意識は、消えて失くなってしまった。

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