⑹鉄火場

 煙草が吸いてぇな、と思う。


 立花は銃弾を数えつつ、廊下の向こうに意識を向けた。幽霊のような不気味な気配が、空気をじわじわと腐らせて行く。


 研究室のある15階フロアは、立花とギベオンの二人きりだった。粉々に砕けた硝子、薬品と硝煙、血の臭い。此処はまるで、あの孤児院のようだ。


 いつも腹を空かせていた。

 薬物ばかりを与えられ、食事は家畜の餌も同然。すすり泣く子供の声を聞きながらベッドに入り、馬車馬ばしゃうまのように労働させられ、不条理の雨の中、背中を丸めていることしか出来なかった。


 野の百合は如何にして育つかを思え。

 脳に焼き付く程、読み聞かせられた聖書の一節。あんなに聞かせられて来たのに、立花は最近までその意味も知らなかった。あの牢獄のような孤児院で過ごした日々は、立花にとっては無意味で無価値な、ただの地獄だった。


 神なんて信じていない。

 そんな奴がいたなら、どうしてあの時、俺達は救われなかったんだ。どうして、誰も手を差し伸べてくれなかったんだ。


 下らねぇ。

 立花は内心吐き捨てた。




「なぁ。お前、何でSLCなんて胡散臭ェ組織に寄生してんだ?」




 姿を隠したまま、立花は訊ねた。

 平和的解決も、相互理解も、立花の世界には存在しなかった。

 ギベオンが、しゃがれた声で答えた。




「居心地が良いからだよ」




 居心地、ねぇ。

 立花はぼんやりと、イメージした。


 SLCは海外の新興宗教で、その実態は悪質なカルト集団である。信者を監禁、拘束し、薬物漬けにする。そして、脱退の意思を示した時には苛烈な虐待を行うと言う。


 ギベオンは快楽殺人鬼だ。物珍しい眼球が欲しいだけ。

 倫理観の無い社会のゴミみたいな異常者には、居心地が良かったのだろう。




「お前の目的は何なんだ? 何でこんな下らねぇ計画に加担する? 欲しい眼球でも、あったのかい?」




 立花が訊ねると、ギベオンは嘲笑あざわらった。




「俺はな、あのガキが欲しいんだよ。他人の嘘を見抜く、あのガキが」




 ざわりと、静電気のような嫌悪が肌を撫でる。

 どういうことだ。SLCは湊の敵だった。ギベオンはSLCに寄生するだけの殺人鬼だ。其処に因果関係なんて、無いはずだ。


 ギベオンは、くつくつと喉を鳴らしていた。




「SLCはあのガキに御執心ごしっしんだ。あいつは、金の卵を産むにわとりなんだよ」




 ああ、そういうことなのか。

 仄暗い絶望感が、胸の内に広がって行く。

 海を越えても、何処まで逃げても、過去は必ず追い付いて来る。


 生きてるだけでプレミアが上がり、誰かに狙われ続け、命の限り利用される。SLCにとって、あの子供は利用価値のある便利な道具で、珍しい実験動物だった。


 地獄の底でも生き抜く覚悟があるなら、味方になってやる。立花はそう言った。そして、あの子はより深い地獄に落ちた。


 お前は、こいつをどうしたかったんだ?

 先日、命を落とした馬鹿な若者が問い掛けた。湊の友達で、ペリドットの実弟。俺はあの子供をどうしたかったのか。


 親を亡くし、友人を殺され、命を狙われながら今も生きている。幸せな子供であって欲しいと願いながら、――俺が地獄へ背中を押したのか。




「……救えねぇな、俺もお前も」




 立花は、深く溜息を吐いた。

 この世は何処まで行っても袋小路ふくろこうじで、設計ミスだらけの欠陥品そのものだ。幾ら足掻いても、大切なものは指の間から擦り抜けてしまう。




「テメェも祈れば良いさ。そうしたら、どっかの慈悲深い神様が救って下さるだろうぜ」




 ギベオンは笑っている。鼻に付く気味の悪い声だった。




「SLCは居心地の良い隠蓑かくれみのだった。しかも、ガキ一人捕まえるだけで、一生遊んで暮らせるような大金が手に入る。最高だろ? 神様万歳だぜ」




 苛立ちが、じわじわと胸の奥に食い込んで行く。


 俺達は人殺しだ。人を殺してメシを食ってる。どうせろくな死に方はしないし、求めてもいない。――だけど。




「つまんねぇよ、お前」




 立花は吐き捨てた。

 何を聞いても、返って来るのは薄っぺらい答えばかりだ。飢えを満たす為に獲物を食らう野生の獣の方が、まだマシだ。


 どろどろとした殺気が纏わり付く。

 立花は振り払うように壁に身を寄せた。




「テメェの性根は、さぞ腐ってんだろうな。だから、そんな害虫みてぇな生き方しか出来ねぇんだ。幾ら綺麗な目玉を集めたって、テメェの汚ェ目玉じゃ何も見えやしねぇさ」




 SLCという組織が、如何に下らなく、害悪であるかは分かった。其処に寄生する殺人鬼がどうしようもないクズであることも。そして、そんな馬鹿な奴等の為に未来を捨てた子供がいることも、暗闇の底で足掻いている人間がいることも。


 ハヤブサは裏社会の抑止力。

 初めて、その意味が分かった。こういう馬鹿を野放しにしちゃいけない。こいつ等は平然と秩序を乱し、価値のあるものを奪って行く。


 硝子を踏む音がする。接近する気配を感じ取り、立花はタイミングを見計らった。


 神も仏も、立花の世界にはいなかった。

 いたのは、天使の皮を被った悪魔と、薄汚い野良犬だけだ。だけど、それで充分だった。




「祈り方なんぞ知らねぇな。愛だの救済だの、俺の世界じゃいつも品切れでね」




 立花は一気に躍り出た。

 散弾銃の白い閃光が網膜もうまくを焼く。立花は弧を描くように壁際を駆け抜けながら、銃弾の嵐を躱した。弾痕が壁に亀裂を走らせる。破裂音が空気を震わせる。


 ギベオンの散弾銃の下を潜り、顎の下から発砲する。一発は天井を、もう一発はギベオンの鼻を掠めた。硝子の散乱した床を背中で滑りながら後方を陣取る。散弾銃の銃口が此方を向く、刹那、立花は引き金を引き絞った。


 一発はギベオンの右肩を抉った。散弾銃の銃口が下がる。

 とどめを刺す。立花が指先に力を込めた瞬間、ギベオンのジャケットのすそから何かが転がり落ちた。


 手の平程の鉄の塊――手榴弾。

 ピンは抜けている。投げ返す時間は無い。立花は身をひるがえした。途端、重々しい音と閃光が、凄まじい熱波と共に破裂した。


 真っ黒な煙がフロアを埋め尽くし、天井からスプリンクラーが冷たく降り注ぐ。不明瞭な視界の中、幾つもの散弾が飛び出した。


 立花は咄嗟に階段の踊り場に滑り込み、そのまま勢いよく転がり落ちた。金属の非常扉に弾丸が突き刺さり、耳障みみざわりな音を立てる。壁に衝突しながら、立花は頭上に向けて発砲した。


 手応えは無い。ついでに眼帯も無い。何処で落とした。

 背中が焼けるように熱かった。

 この場所は分が悪い。立花は神経を研ぎ澄まし、階段を駆け上がった。


 散弾銃をぶら下げたギベオンが、廊下の向こうから迫る。

 痛みを知覚していないらしい。恐らく、SLCの薬だ。馬鹿なことを。立花は舌を打つ。


 銃口の前を横切って、立花は上層階を目指した。武器の性能差を埋めるには、土俵を変える必要がある。翔太は15階に行った。なら、もっと上だ。


 目指すのは、ヘリポートのある屋上だった。













 19.空を見上げて夢を見る

 ⑹鉄火場てっかば










 階下から爆発音がした。

 壁が震える程の激しい爆発に、畳み掛けるような散弾銃の銃声。階段からは真っ黒な煙が噴き出して、壁に亀裂が走った。


 何が起こっているのかは、分からない。翔太は最上階のフロア表示を見詰め、つばを呑み込んだ。

 階下には立花とギベオンがいる。どんな戦いをしているのか想像も出来ないが、自分に出来ることをやるしかない。


 最上階は、会議室と社長室の二部屋しか無かった。

 会議室の扉がこれ見よがしに開かれている。翔太はノワールの銃を構えながら、慎重に様子を窺った。


 その時、会議室の奥から穏やかな声がした。




「入りたまえよ、神谷翔太くん」




 翔太は躊躇ためらった。

 自分が来ることを予期していたのか、それとも、監視していたのか。翔太は手の平の汗をぬぐい、深呼吸をしてから部屋に足を踏み入れた。


 会議室の壁一面は窓になっていた。ロックダウンされた街は夜の海のように暗く、人々の生活する街の光はまるで星のように遠かった。


 部屋の奥、革張りの回転椅子に一人の男が座っている。敵意や殺意は無い。両脚を組んで、まるで待ち構えていたかのように優雅に微笑んでいた。


 公安警察、情報課のトップで、階級は警視正。

 ペリドットの親玉で、国家の中枢に食い込む司法の番人。

 そして、翔太にとっては父の上司であり、家族の仇でもあった。


 望月は椅子を促したが、翔太は無視した。

 戦闘になった時、一瞬の遅れは命取りになる。この人は間違いなく自分の敵で、決着をつけなければならない相手だった。仲良くお喋りするつもりも無い。




「大きくなったね、翔太くん」




 遠い親戚みたいに、望月が微笑んだ。

 馴れ合うつもりは無い。翔太の目的は一つだった。

 何故、俺の家族は奪われたか。




「呑気にお喋りするつもりは無い。……俺は、アンタに訊きたいことがある」

「君のお父さんのことだね?」




 望月は柔和に笑っていた。

 語調は柔らかく、物腰も穏やかである。公安警察だと知らなければ、カウンセラーや教育者のような印象を受けただろう。


 望月は銀縁眼鏡のブリッジを上げ、そっと言った。




「彼は、立派な警官だったよ」

「……どの口が言うんだ」




 翔太は吐き捨てた。

 そんな親父をそそのかして、妹を人体実験に送り込み、俺の家族は壊された。全ての元凶は、この男だった。




「彼は、苦しんでいたんだ。娘を救いたかった。だから、我々の計画に参加した」

「参加だと? お前が騙しただけだろ」




 耳障りの良い言葉で飾り立てたって、こいつのやった事は変わらない。どんな大義名分があったとしても、俺の家族は奪われ、もう二度と戻らない。




「君は、妹さんのことをよく分かっていないね。あの子は」

「サイコパスだったんだろ。倫理観や良心の呵責かしゃくを持たない捕食者」




 望月の言葉の先をさらって、翔太は言った。

 もう、分かってる。俺の妹は生まれながらの捕食者だった。野放しにしてはならない化物。――だけど、俺にとっては、たった一人の家族だった。




「うちの脳科学の研究者が言ってたよ。……サイコパスは脳の機能障害で、誰にも変えることが出来ない。けれど、全てのサイコパスが罪を犯す訳じゃないってな」




 望月は脚を組み替え、うっとりと微笑んだ。




蜂谷湊はちや みなとか」




 翔太は答えなかった。

 望月はSLCと手を組んでいる。SLCは湊の敵だ。情報を与える必要は無い。




「親父は、砂月さつきを助けたかったんだろ。……この国は、サイコパスと呼ばれる人間に対して理解が足りないから」




 親父は、望月ではなく、湊のような専門家や、その父親のような精神科医を頼るべきだった。砂月の生まれ持った性質は、特殊であっても悪ではないのだと、教えてくれる人に出会うべきだったのだ。




「アンタの過去を、聞いたよ。十年前に、奥さんと娘さんを奪われたって。未成年で、心神喪失無罪で、司法は犯人を裁けなかった。……俺の言ってることは、間違ってるかい?」




 望月は否定も肯定もしない。翔太は拳を握った。

 分かってるんだ。この男が、親父を唆して砂月を人体実験に差し出した理由も。大義や正義なんてものじゃない。




「砂月は、アンタの家族を殺した犯人に見えたのか?」




 望月は、人形のような無表情だった。

 息が詰まるような沈黙だった。何処かで銃声が聞こえる。立花か、それともギベオンか。分からない。けれど、室内は互いの息遣いすら聞こえそうな静寂に包まれている。




未然犯罪みぜんはんざいというものを、知っているかい」




 子供にでも語り聞かせるみたいに、望月は言った。




「将来的に罪を犯すだろう人間を、この国の警察はブラックリストに入れて管理している。善良な人々を守る為にね」

「砂月は、善良な人間じゃなかったってのか?」

「君の妹さんはね、知的好奇心を満たす為に動物を虐待し、殺していた。小鳥や野良猫、飼犬や小学校の飼育小屋のうさぎ。どうやって殺していたのか、知っているかい」

「知ってるよ。俺は、いつもその死体を埋めていた」




 砂月は、死に興味があるようだった。だから、翔太に何度も何度も問い掛けた。人は死んだら、何処へ行くの。

 あの時、俺はもっとちゃんと向き合うべきだった。そして、一緒に墓を建てるべきだった。砂月が少しでも生き易いように、手助けをしなきゃいけなかった。




「司法には限界がある。法律が裁けない罪人もいるだろうさ。……だからって、そいつ等全員を悪人と決め付けちまうのは、乱暴じゃねぇか?」




 砂月はサイコパスだった。生まれながらの捕食者。

 立花は、自分と同じだと言っていた。そして、湊は砂月の感覚が分かると。




「では、君ならどうやって線引きをするんだい?」




 望月は腕を組んだ。押し潰されるかのような威圧感が迸る。




「どうやって、君は大切な人を守るんだい?」




 どうやって?

 砂月が両親を殺した時、俺は家にいなかった。帰宅した時には血塗れの砂月が包丁を持って玄関に立っていた。

 あの時、どうしたら良かったのか。どうしたら、砂月を守れたのか。




「この国は、ルールと言うものを甘く見ている。だから、血も涙も無い殺人鬼が今ものうのうと生きている。管理出来ないなら、粛清するしかない。例え、それが血の粛清であろうとも、いつか大勢の命を救ういしずえになる」




 望月は銀縁の眼鏡に触れ、つまらなそうに言った。




「秩序もルールも必要だ。存在するだけでは意味が無い。人々が遵守じゅんしゅする為には、或る程度の拘束力と畏怖いふが必要なのさ」




 望月の言葉は、尤もらしく聞こえる。

 大切な人を亡くした人間は、加害者を憎む遺族は共感するだろう。だけど。




「この世には救い難い悪人もいるだろうさ。生きてるだけで他人に迷惑を掛けるような、害虫みてぇな人間もな。……でも、全ての人間がそうだとは思わないよ」




 どうしたら、伝わるのだろう。

 翔太は躊躇ためらいながら、問い掛けた。




「罪の重さは、誰が判断するんだ? それは誰の価値観なんだ? 冤罪や更正の可能性は? 人は誰しも道を誤る時がある。死んだ人間は蘇らない。アンタの遣り方じゃ、人の可能性を潰しちまうよ」




 この世は兎に角、グレーゾーンが多い。

 犯罪なんて無くなれば良い。翔太だってそう思う。けれど、それはきっと、不可能なのだ。


 だから、足掻いている。弁護士の幸村が、悪人と知っていても弁護を引き受けたように。殺し屋の立花が、復讐は不毛だと退しりぞけるように。


 望月はゆったりと微笑んだ。




「大義の為の犠牲だ。何かを成し遂げる為には、何かを切り捨てなければならない」

「……それが、人の心でもか」

「そうだ」




 望月は、断言した。


 ちりちりと、顳顬こめかみあぶられているかのような怒りが込み上げる。望月の言っていることは尤もらしいけれど、それは恐怖政治と同じなのだ。


 大義の為には犠牲も止むを得ないなんて、そんなの権力者の言い訳だ。犠牲者の気持ちはどうなる。仕方が無かったと言って慰めるのか。


 翔太には、納得出来なかった。

 そして、理解する必要すら無かった。正誤も善悪も翔太には分からないし、どうでも良いことだった。望月の言う妄言が正しいのか、そうでないのかは、歴史が決めるだろう。


 だが、翔太も譲る気は微塵みじんも無かった。

 この国には、まだ正義の意思が残っている。どちらが前かも分からない闇の中で、少しでもマシな未来を願って命を懸けている人間がいる。


 いつか、望月が正しかったと言われる時代が来るかも知れない。法律に支配され、家畜のように管理され、浄化部隊に恐怖しながら生きる世界がマシだと思える日が来るかも知れない。


 だけど、それは今日じゃない。

 ならば、あらがうべきだ。例えそれが途方も無く遠い道程みちのりであったとしても。

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