20.泥中に咲く

⑴最期の晩餐

 立花と航が近江おうみ古屋ふるやに到着したのは、予定通り昼前だった。

 出迎えてくれた近江は立花の怪我を見て驚いて、そして、ほがらかに笑った。




「お前がこんな大怪我するのはいつ以来だ!」




 背中に突き刺さった硝子片は、航が抜いた。

 細かな破片は、老いた近江の目には見えなかったのだ。航は医者の息子だった。手の平の火傷も処置してくれたが、応急処置なので、医師に診せた方が良いと言った。


 居間に寝そべって処置を受けていたら、とこ酒瓶さかびんが幾つも並べられていることに気付いた。陽気な師匠は、本当に美味い酒を用意して待っていてくれたらしい。


 三日程経った夕刻、一台の外車がやって来た。山奥の田舎いなかに見合わない真っ赤なスポーツカーだった。立花は、こんな派手な車で乗り付けて来る奴の気が知れないなと思いつつ、其処に誰がいるのか見当を付けていた。


 運転席から降りて来たのは、ペリドットだった。立花でさえ負傷していたのに、この男は擦り傷一つ無い。忌々しいことだ。

 助手席の扉が開いて、湊が降りて来た。見たことの無い紺色のシャツを着て、まるで何処かのお坊ちゃんみたいだった。


 湊は相変わらず包帯でぐるぐる巻きになっていて、ついでに両手はグローブみたいなギプスに覆われていた。ドラえもんみたいだな、と近江が笑った。




「傷、診せて」




 湊は車から救急箱を運び出した。開腹手術でも出来そうなくらいの品揃えだった。立花が手の平を開くと、湊は項垂れて、独り言みたいに何故か謝った。




「お前のせいでもないし、お前の為でもない」




 立花が言うと、湊は力無く笑った。

 あの高層ビルから脱出する為に、避難用救助袋の蓋を開けたのだ。火災の中だったので、金属の蓋が熱されていた。湊のドラえもんみたいな手の平も、きっと同じ状況だろう。




「翔太は、どうなった」




 手の平に軟膏を塗られながら、立花は問い掛けた。湊は答えない。ペリドットは溜息を一つ零した。




「公安で保護してるが、昏睡状態だ。輸血と手術をして一応生きてるが、目を覚ますかは分からない」




 そうだろうな、とは思っていた。

 生きていただけで大したものだ。助け出された結果が植物状態でも、立花にとっては想定内だった。燃え盛るビルの中で、立花はもう覚悟を決めていた。瓦礫がれきの中から遺骨でも拾えれば充分だと思っていたのだ。


 期待なんてするから、傷付く。

 立花は包帯を巻く湊の頭を撫でた。




「お前は十二分じゅうにぶんの働きをしたし、あいつは役目をまっとうした」

「死んだみたいに言うんじゃねぇよ」




 航が悲しそうに言った。

 こいつ等、仲良かったからな。立花は肩を落とした。そうしている内に立花の両手は湊に包帯が巻かれ、ドラえもんみたいになっていた。




「こんなに巻く必要あったか?」

「これで暫くは、休業だね」




 湊が意地悪く笑った。

 立花は、あの高層ビルで湊が言っていたことを思い出した。ギベオンに追い詰められ、屋上から転落した。死を覚悟した立花に、湊が手を伸ばした。その時に、泣きながら言ったのだ。


 誰にも死んで欲しくないと、生きていてくれと。


 けれど、俺達は殺し屋で、社会の闇に生きている。明日死ぬかも知れない。そんな生き方が好きだし、他の未来なんて望んでもいない。




「やっぱり、お前はガキだな。甘過ぎるよ」




 立花は包帯の巻かれた手を湊の頭に乗せ、俯く顔を覗き込んだ。この子供とは随分と喧嘩をした。言い争ったし、脅したし、あんまり腹が立った時には縛り付けたこともあった。

 生きている世界が違う。背負っているものが違う。歩いて行く道も当然、違う。――だけど、それで良いのだと思った。




「……だが、まあ、表の社会じゃ、それも美徳になるんだろうさ」




 この甘さを優しさと言って、無謀を勇敢と称賛して、愚直を誠実と迎え入れる世界もあるのだろう。立花には生涯、縁の無い世界だ。


 こいつはまだ、引き返せる。

 だから、ちゃんと手を離してやらないといけない。




「日の当たる道を歩けよ、湊。これ以上、沈んじゃいけねぇ」




 それが、裏社会に生きる立花にとっての、精一杯だった。湊は俯いたまま否定も肯定もせず、黙っていた。

 そして、顔を上げた時には、濃褐色の瞳に青白い炎を灯して笑っていた。




「……蓮治は、俺を見縊みくびっているよね」




 湊は言った。

 空気が、びりびりと震えるようだった。




「何処を居場所とするかは、俺が決める。……言っただろ?」




 押し潰されそうな苛烈な威圧感を放ちながら、無力だった子供は不敵に笑っている。蝉時雨も猛暑も掻き消す強烈な存在感で、湊は言った。




「蓮治に選ばされたんじゃない。俺が決めたんだ」




 一陣の風が吹き抜けた。真正面から風を受けた湊は、まばたきの一つもせずに真っ直ぐに立花を見据えていた。

 呆れてしまって、立花はつい笑ってしまった。




「お前は本当に、可愛くないガキだな」




 人の厚意を無下にしやがって。

 立花が言うと、近江も笑った。


 湊が一泊して行くと言うので、ペリドットは一足先に東京に戻ることになった。公安は猫の手も借りたいくらいの大忙しらしい。


 氏家うじいえ議員が失脚し、自殺したのだ。自宅からは同派閥議員との密談や汚職の証拠が見付かり、政財界の重鎮が芋蔓式に逮捕された。摘発したのは公安とされているが、実際の所は分からない。本当に自殺だったのかさえ、真相は闇の中である。


 それと同時に、SLCという新興宗教が国際テロリストとして主要各国に認定された。本拠地であるキューバもSLCの撲滅に動き出した。それは、彼等の作り出したブラックという悪魔の薬によるテロが露見した為だった。


 ブラックという薬は脳を破壊する。その危険性をいた論文が世界に出回った。執筆者はよく分からない名前の外人だったが、よくよく読んでみると、蜂谷湊のアナグラムだった。


 SLCは事実上、壊滅した。彼等の神は一人の少年の論文によって死に、教義は出鱈目でたらめで、資金そのものが汚れた金であることも発覚した。世界各地で工作員が暗躍し、逮捕者が出ている。


 立花が田舎で療養していた間に、世界は目まぐるしく変わっていた。ペリドットは一頻ひとしきり語り終えると、再び運転席に戻った。

 パワーウインドウがするすると下りて、エメラルドの瞳が夕陽に光る。




「何かあったら連絡するから、ゆっくり休めよ」




 ペリドットは、湊に言った。

 そのまま派手に排気ガスを噴き出して、真っ赤なスポーツカーは山の向こうに消えて行った。


 田舎の古屋には立花と近江、それから湊と航が残された。

 訊きたいことも話したいことも特に無かったので、立花は早々に古屋に戻り、古臭い台所に立った。育ち盛りの子供に、近江の精進しょうじん料理みたいな地味なメシは良くないと思ったのだ。


 鶏胸肉があったので、チキンカツを作ろうと思った。自立して事務所を構える時に置いて行った調理器具の数々が懐かしかった。焦がしてしまったフライパン、使い込まれた菜箸、油の染み込んだ鍋。


 途中、航が手伝いを申し出た。

 兄貴と話さなくて良いのかと尋ねたら、航は黙って親指で居間を指し示した。湊は板張りの床で力尽きたみたいに眠っていた。


 立花も両手がドラえもん状態だったので、助かった。航は料理の手際が良かった。慣れているのだろう。包丁ほうちょうさばきも安心して見ていられるし、かゆいところに手が届くような的確な補助をする。

 かまどで米をいたことは無いらしいので、立花が教えた。航は興味深そうに観察し、貪欲に自分の知識にしようとしているようだった。


 米が炊けるまでに、オクラとネギの味噌汁を作った。

 航は胡瓜きゅうり麺棒めんぼうで軽く叩いて、キャベツを千切りしていた。特に会話は無かった。心地良い静寂だった。


 夕食の用意が整った頃、航が湊を起こしに行った。

 近江がブランケットを掛けてくれたらしい。湊は大欠伸おおあくびをしていた。


 ソースチキンカツ丼にオクラとネギの味噌汁。ついでに近江が作った大根の糠漬ぬかづけを皿に乗せて、夕食は完成した。冷蔵庫から冷えた麦茶を出していると、いつの間に台所にやって来たのか、近江が立っていた。




「なあ、蓮治。大切なものは出来たか?」




 いつもの問いだ。

 立花は麦茶のボトルを取り出して、四人分のグラスをすすいだ。壁に寄り掛かるようにして立つ近江は、出会った頃に比べて随分と小さくなったように感じられた。


 立花はグラスを濯ぎ終え、顔を上げた。




「出来たよ。命より大切だと思えるもんがさ」




 立花が答えると、近江は満足そうに笑った。













 20.泥中に咲く

 ⑴最期の晩餐ばんさん












 四人で食卓を囲み、手を合わせる。

 湊と航のどんぶりは嫌味のつもりで大盛りにしてやったが、二人はお替りをした。残されるよりはマシだが、立花はセルフサービスだと台所へ取りに行かせた。


 近江は静かだった。老人にチキンカツは重かっただろうか。

 気の毒に思えて、近江の分のチキンカツは湊の皿に移動させてやった。




「無理すんなよ」




 無理して食うなと言う意味だったが、近江は苦笑した。その内に、湊と航が喧嘩しながら帰って来た。内容はよく分からないが、恐らくどっちもどっちだろう。


 食べ終えると、湊が皿洗いを買って出た。残念ながら、湊の手もドラえもんである。皿は航が洗った。

 近江は囲炉裏いろりの前に座ったまま、ぼんやりとテレビを見ていた。世間は大騒ぎである。立花は風呂を沸かす為に席を立った。


 近江の古屋はたきぎ風呂だったので、湯が温まるまで時間が掛かる。薪を割るなら航を呼ばなければならないが、残りがあったので遠慮無く使った。


 燃え盛る炎を見ながら、立花は初めてこの場所に来た時のことを思い出した。近江は元々首都圏で活動する殺し屋だったのだが、後継者として立花を拾ってからは拠点を変えた。立花は此処で銃やナイフ、閃光弾など様々な武器の使い方を教わった。


 後継者を育てるのに、人気ひとけの無い田舎は都合が良かったのだろう。その頃の立花は、料理も風呂も知らなかった。箸の持ち方さえ危うい立花に、近江は根気強く教えてくれた。


 二十歳になる前、眼病で倒れた立花を熱心に看病してくれたのも近江だった。病気になった時に誰かが側にいてくれたのも、初めてだった。後遺症で虹彩が金色になっても、近江は気味悪がらず、俺とお揃いだなと笑った。


 二十五歳の頃、三代目を継いだ。ハヤブサの象徴として、右目の下に刺青いれずみを入れた。近江と同じ、群青ぐんじょうたかだった。


 変な男だった。

 片目が金色で、胡散臭く、けれど、時々、天を突く山の頂を見ているかのような雄大さを感じさせた。


 初代のことを聞いたことがあった。初代ハヤブサは、近江の父だった。家業を継いだのだと近江は笑っていた。確か、酒を飲んでいたと思う。


 ハヤブサは社会の抑止力。最速のヒットマンと呼ばれる理由を聞いた時は、呆れてしまった。近江の信条とは、逃げるが勝ちなのである。だからこそ、こんな歳まで生きて、引退後は田舎で悠々と隠居生活をしている。


 浮き雲のように掴み所が無く、けれど、何処にもいなくならない。立花にとって、生まれて初めて出会った頼れる大人だった。


 湯が沸いたので、一番風呂は近江に譲ろうと声を掛けに行った。その時、居間では湊と航、近江が何かを話していた。




「立花は、なんであんなに口が悪いの」




 航の声だった。

 お前に言われたくない。立花が乗り込んで言い返してやろうと思ったら、近江が穏やかに言った。




「不器用な奴なのさ」




 立花は、出るタイミングを見失ってしまった。

 湊が言った。




「蓮治はずっと優しかったよ?」




 居心地が悪くなって、もう一度、湯加減を見に行こうかと思った。けれど、近江が言った。




「拾った時、あいつは何もかもを失っていた。……死なせてやった方が良かったのかも知れない」




 聞いたことの無い話だった。

 自分を拾ったのは気紛きまぐれだとしか、聞いていない。だから、俺は幸運だったのだと。


 近江は穏やかに、まるで語り聞かせるように言った。




「でも、俺はあいつに生きていて欲しかった。だから、仕事でも恋人でも何でもいいから、命より大切なものを作れって言ったんだ」




 ああ、だからか。

 だから、近江は何度も何度も、訊いて来たのか。

 大切なものは、出来たか?

 そう言って、近江はいつも自分を気に掛けてくれていた。




「生きていてやれよ、お前等。進む先がどんなに苦しくても、負けるなよ」




 湊と航が、返事をした。

 俺には反発ばかりする癖に、こんな時ばかり。

 いい加減隠れているのも面倒になって、立花は思い切りふすまを開けた。小気味良い音が響き渡ったが、彼等は生温い空気の中で笑っていた。




「おかえり、蓮治」

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