⑷復讐者の哀歌

 瞼の裏の血管が透けて見える。


 湊は体を横たえたまま、心拍数を数えていた。安静時の心拍数よりもやや早いけれど、誤差の範囲内である。つまり、自分が平静の心理的状況にあることが分かる。


 頭の後ろに濡れている感触があった。殴られたから、出血しているのかも知れない。いや、そう思わせる為の罠かも?

 瞼が重いのだ。指一本動かせないのは、麻酔のせいだろうか。気を失っている間に何か打たれたか?


 ノワールの家を出て弟に電話をしていた時、後頭部を強く殴られた。そのまま意識を失くしてしまったのは、不覚だった。立花にまた未熟者と言われてしまう。


 話し声が聞こえる。それから、機械みたいな重低音。

 古い油と埃の臭いがする。記憶の中に引っ掛かる。此処が何処だか知っている。




「起きているんだろう、蜂谷湊」




 低く落ち着いた声が、空間に反響する。

 芯のあるその声は、緩やかな川の流れに似ている。声質から性格が分かる。冷静で、責任感が強く、自信家。


 体から糸が抜けるように、麻酔の効果が薄れて行く。湊は指先の感触を確かめながら、ゆっくりと目を開けた。闇に慣れた目が光にくらむ。




「Hello, Mr.Mochizuki」




 舌の縺れは無い。全身麻酔では無さそうだ。SLCの新薬だとしたら、厄介だな。

 白く滲む視界の奥に、銀縁眼鏡を掛けた壮年の男が座っていた。酷い既視感に吐き気がする。まるで、一年前の再現を見ているみたいだ。




「Are you paedophilia?」

「……最低な質問だな」

「Haha!」




 嘲笑いながら、視線を巡らせる。

 広い空間、床は冷たい。空気は埃っぽいのに、床は汚れていない。幾つかの可能性から最も確率の高い場所を精査する。腹の具合から時間経過も分かる。


 銀縁眼鏡の男の横に、段ボールの箱が見えた。

 埃の積もった機械類と割れた窓。――ああ、翔太が拉致された港の倉庫。

 ノワールの家からそれ程、距離は離れていない。誘拐が目的なら移動手段を用意するし、もっと遠い場所を選ぶ。




「俺とお話ししたいの?」




 湊は、ゆっくりと体を起こした。

 両手は後ろに縛られている。手錠だ。抜け出すのは、難しそうだ。携帯機器は持ち歩いていないし、助けは望めない。可能性があるとしたら、わたるか。


 望月は膝の上で両手を組むと、柔和に微笑んだ。




「大した精神力だ。流石、ヒーローの息子だね」




 わざと言っているな、と湊は思った。

 一年前、SLCに拉致された時の状況をなぞっている。

 分かり易く煽られている。湊は得意げに笑ってやった。




「アンタは悪の親玉かな」




 湊が言うと、望月は笑った。




「お話しようか、ヒーローの息子。この国の行く末について、語り明かそうじゃないか」













 18.空虚な祈り

 ⑷復讐者の哀歌あいか












 望月宗久もちづき むねひさは、警察庁公安部の部長。

 公安のゼロとは、端的に言えばスパイである。総括責任者ではないが、或る程度の肩書と権力を持っている。


 しかし、湊は望月という男のことをよく知らなかった。翔太の父とは同期だと聞いているが、どうして自分を巻き込んだのか分からない。しかも、議題が日本の行く末なんて、役者が違うんじゃないか。




「君のご両親は、残念だった。惜しい人を亡くした」




 その口振りは、まるで両親と既知の間柄みたいだ。

 父の交友関係はよく分からないが、少なくとも、公安とは無関係だった。自分と望月を繋ぐ共通点はたった一つ、SLCである。




「君はご両親の仇を捕らえながら、復讐をしなかったそうだね」

「そんな昔のことは忘れちゃったな。俺は過去は振り返らない主義なんだ」




 従順に振る舞った方が良かったのだろうか。

 そう考えて、湊はすぐに否定した。こんな素性の知れない怪しい男に、両親の死も自分の覚悟も利用されたくない。


 銀縁眼鏡の奥に、不気味な炎が見える。

 これを、湊は知っている。理性を失くした人間の衝動、狂気の炎だ。


 この男は法改正を目論み、司法の名を借りた超法規的措置、浄化部隊を作ろうとしている。頭がいかれてる。そんなキチガイが考えることなんて、一つだけだ。




「アンタは、復讐者なんだね」




 望月の過去なんて知らないし、興味も無い。

 けれど、望月は嬉しそうに笑った。まるで、教師に褒められた生徒のように。




「復讐は何も生まないよ」




 湊は言った。

 本心だった。復讐は不毛だ。湊はこの国に来て、沢山の復讐者を見て来た。誰も彼も過去に囚われて、幸せそうな人なんて一人もいなかった。


 高速道路の玉突き事故で家族を失った古海ふるみ、娘を殺そうとした白滝しらたき、ゲルニカを憎んだ八田やた。誰も、笑ってなかった。




「亡くなった両親にも、そう言えるかい?」




 望月は訊ねた。

 湊は眉をひそめた。どうして此処で自分の両親が出て来るのか全く分からない。こいつに俺の家族の何が分かるって言うんだ。


 両親は死んだ。それだけのことだ。

 後のことは俺が自分で決めたことだ。他人の介入する余地も、意味も、理由も無い。




「君の両親は、復讐を望んでいたとは思わないかい」

「思わないね」




 湊は即答した。

 それは湊の中で既に解決している。




「人は生きて、死ぬ。それだけのことだ。復讐だの埋葬だの、生きてる人間の自己満足だ」




 貴方とは分かり合えないよ。

 湊が言うと、望月は薄く笑った。




「それは、君に家族が残されていて、司法による罰という救いがあったからだろう?」




 湊は答えなかった。

 その通りだった。あの爆弾テロで弟まで死んでいたら、湊はテロリストを一人残らず殺していただろう。司法が裁いてくれないのならば、俺が。


 そして、理解する。

 この人は、救われなかった人なんだと。




「……貴方の家族は?」




 訊いてみたい。

 同情でも憐憫でもなく、ただの好奇心として。いつか訊いてみようとして、もう二度と訊けなくなってしまった経験が、湊にはある。


 人は生きて、死ぬ。そして、死んでしまったら、その人が何を願い、何を思い、何の為に生きて来たのか二度と知ることは出来ないのだ。


 解釈は出来ても、答え合わせは出来ない。心が擦り切れるような虚しさを、湊は知っている。




「妻と娘が一人」

「今はどうしてるの」

「死んだよ。もう十年も前のことだ」




 予想はしていたけれど、悲しかった。

 人は誰も、見えない傷を抱えている。心の傷は簡単に癒えはしない。時間は万能薬だなんて言うけれど、時間だって病気になる。




「俺が仕事で家を空けていた時にね、若い男が押し入った。妻は滅多刺しにされて、十六歳の娘は凌辱され、殺された」




 湊は目を伏せた。

 この世には悲劇が溢れている。幾ら科学が発展し、警察が尽力しようとも、悲しい事件は起こる。それが司法の、人間という生き物の限界なのだ。




「犯人は十五歳の少年だった。家庭崩壊した劣悪な環境で育ち、精神的に未熟な子供だった。司法は、情状酌量の余地があると、更生の可能性があると言って、逮捕には至らなかった」




 それは、この国では有り触れた悲劇の一つだった。

 この国の法は未熟だ。罪人を罰することは出来ても、被害者を救うことは出来ない。死んだ人が生き返らないように、時間が戻らないように。


 法律に、血はかよっていない。




「その未成年者は精神病院に送られたんだが、二年後に、今度は担当医を殺害したんだ。……自分を虐待したお母さんに見えたのだと、言っていた」




 犯罪を未然に防ぐというのは、本当に難しいことなのだ。

 精神医療というものは雲を掴むように曖昧で、成果も目に見えない。将来的に罪を犯すと分かっていても、人は可能性を信じたくなる。


 昔、犯罪予測装置を作ろうとしたことがある。

 人工知能を搭載した出来の良い装置だった。他人の嘘を見抜くという自分の能力を核として、冤罪の可能性を限りなくゼロにしながら、将来的に凶悪犯罪を起こしそうな人間を見付けるのだ。


 しかし、実装には至らなかった。犯罪予測装置の精度が上がる程、犯罪は減少する。そうすると、犯罪予測装置そのものの精度が下がるのだ。分かり易いパラドクスである。


 湊は希望的観測というものが嫌いだ。

 だけど、信じてみたいと思う気持ちは分かる。

 天高くそびえる山のいただきに、いつか届くのではないかと。例え、その足元に幾つの屍体が積み上がっていようとも、登り続けたいし、手を伸ばしたいと思う。それがいつか、大勢の人を救うと信じて。




「……貴方は、何を憎んだの」




 罪を犯した少年か、それとも裁かなかった司法か。

 望月という男は、湊が想像していたよりも、普通の人間に見えた。けれど、人は誰しも狂気の炎を宿している。きっと、自分も。




「法は万能じゃない」




 望月が言った。

 その声は割れた硝子片のように鋭かった。




「ならば、誰かが補うべきだ。例え、それが悪だと呼ばれてもね」




 胸を貫かれるようだった。

 望月の言葉が、痛い程に分かるのだ。

 この人には、揺るぎない信念がある。そして、それは正誤では測れない。法の番人だからこそ、法の無力さに憤る。


 ただ、悲しかった。

 復讐は不毛だ。この人のやろうとしていることは間違ってる。誰かが止めなければならない。――だけど。


 それなら、誰がこの人を救ってくれるの?


 おぼれる者が間違ったものを掴んだとして、それを誰に責められると言うのか。だって、誰も彼を救わなかった。




「……俺は、それが間違いだとは思わないよ」




 沢山の復讐者を見て来た。自分には想像も出来ないくらいの憎しみが、悲しみが、葛藤があったことだろう。それを一概に不毛だから辞めろと断ずるのは、本当に正しいことなのか。


 警察組織の薬物汚染を嘆いた殺し屋がいた。

 スマイルマンと呼ばれる毒殺専門の殺し屋だった。彼女は違法薬物を呪い、警察官に毒を盛り、最期は立花によって始末された。


 毒をもって毒を制する遣り方では、新たな毒をもたらすだけだ。

 哀しい復讐の輪廻りんねを終わらせる為には、誰かが止めなければならない。




「俺は、理不尽に対して復讐を考えるのは間違いだとは思わない。加害者を恨み、憎むのは当然だと思う。ただ、過去の為に未来を捨ててしまうのは……、勿体無いと思うんだ」




 立花が、言っていた。


 復讐に生きるのは、地獄だぞ。

 お前なら違う道だって示してやれるんじゃねぇのか?


 あの日の立花の声が鮮明に蘇る。

 正論で納得出来るなら、何も知らず、何も聞かず、誰とも関わらず、静かに暮らせば良い。だけど、湊はそれを選ばなかった。何故か。――家族が、大切だったから。


 家族を守る為に、司法による罰という復讐を選んだ。

 望月と自分は、相似形だ。有り得た未来の形。

 自分には、弟がいた。両親が命を懸けて残してくれた。だから、踏み止まれたし、マシな未来を選べた。この人は、そうじゃなかった。




「司法も精神医療も、これからもっと発展して行くよ。俺達は浄化部隊なんて頼らずに済む、マシな未来を創って行く。貴方にはその力も、方法もあるんじゃないのか?」




 死者は蘇らないし、過去は変えられない。

 けれど、この人は生きているし、未来がある。




「貴方が飛び切り幸せになって、見返してやるって方法は無かったのかい」




 この手はきっと、届かない。

 分かり合えないことも、引き返せないことも知っている。

 だけど、手を伸ばすことくらいは、許されたって良いじゃないか。




「加害者が羨み、苦渋を噛み締める様を笑ってやれよ。貴方が思うより、世の中はとてもシンプルに出来ているよ」




 望月は静かだった。論破したとは、思わない。分かり合えたとも、思えない。この人は深い絶望の底を彷徨さまよいながら、復讐を選んだ。その為にSLCという馬鹿な連中の手を取った。




「一年前のSLCとの動画を見たよ。……何度も、何度もね」




 独白みたいに、望月は言った。

 SLCに拉致された時の映像だ。それはチャイルドポルノとかスナッフビデオと一緒に裏社会に出回って、ド変態共の餌になっている。


 湊は、そのことに対して生理的嫌悪感は抱いているが、それ以上に気にめていなかった。自分はやるべきことをやった。後のことはそれを見た人が判断すれば良い。どうせ、他人の心なんて変えることは出来ない。




「拉致されて、殴られて、目の前で理不尽な選択を迫られて、それでも君は折れなかった。……君のような人間がこの国にもいたらと、願わずにはいられなかったよ」




 話せて良かったよ、と言って望月は席を立った。

 扉の向こうに消えて行く背中に、湊は声を掛けた。




「ねえ、望月さん」




 湊が呼び掛けると、望月は振り向いた。

 この人にも家族がいて、守るべきものがあって、信じている正義があった。




「もう、引き返せないの?」




 湊が問うと、望月は苦く笑った。

 馬鹿な質問をした。引き返す時点なんて、とっくに過ぎてしまっている。望月は答えず、扉の向こうに消えた。

 扉の閉じる音が、虚しく聞こえた。

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