⑸最愛

 閉ざされた扉を、呆然と見詰めていた。

 望月との会話を振り返り、湊はただ、虚しかった。

 あの人は、自分の有り得た未来だ。きっと同じ立場だったなら、俺はもっと破滅的で残酷で、救いのない復讐を選んだ。


 航がいなかったらと思うと、ぞっとする。

 そして、命を懸けて弟を守ってくれた両親に心の底から感謝した。俺は、親父とお母さんのお蔭で、踏みとどまれたよ。


 俺はたくさんの幸福と奇跡の上に生きている。

 生きていれば、何とかなる。例え、今この瞬間が地獄であっても、諦めずに頑張れる。


 扉が開かれたのは、その時だった。




「探しましたよ、悪魔の手先」




 扉の隙間からひっそりと顔を出したのは、見たことの無い異国の青年だった。褐色の肌、青い瞳、愉悦に歪む口元。

 聞き覚えのある声だ。誰だ。一体、何処で。


 湊が思考の中に潜った時、その青年は扉の隙間を擦り抜けて、後ろ手に鍵を掛けた。此方を見下ろして恍惚と笑うその目を見た瞬間、全身に悪寒が走った。


 青年は革靴を履いていた。血が付いている。

 ゆっくりとした歩調で、勿体ぶるように距離を詰めて、湊の前にしゃがみ込んだ。




「教主様の仇」




 身構えることは、出来なかった。

 革靴の爪先つまさきが容赦無く鳩尾みぞおちを抉った。喉の奥が焼けるような熱が込み上げて、湊は身体をくの字にした。けれど、その青年は愉しそうに喉を鳴らしながら湊の肩を踏み抜いた。


 呻き声を上げる間も無い。

 青い瞳がじっくりと見下ろして来る。湊が何かを言おうとした時、今度は首筋を蹴り付けられた。


 脳の芯が揺れて、視界が点滅する。




「お前が、教主様を、お前が!!」




 青い目をした青年は、執拗に湊を甚振いたぶった。意識を失わないギリギリの強さで、躊躇ちゅうちょ無く人体の急所を抉って来る。

 嵐のような純粋な暴力だった。殴られ、蹴られ、呪詛を浴びせられ、まるで親の仇みたいに。


 腹を思い切り蹴り上げられて、湊は激しくせ返った。少量の胃液と、血痰。側頭部を蹴り付けられると、耳から真っ赤な血が滴り落ちた。


 抵抗は出来なかった。両手と両足を縛られている。湊は芋虫のように這いながら距離を取ろうとしたが、青い目をした青年は追い掛けて、何度も何度も、何度も何度も蹴り上げた。


 甚振られているのなら、これは腹癒せだ。自分を殺すメリットは無い。――だけど、この青年から迸る憎悪は一体何だ。


 この伽藍堂の瞳は何だ。まるで、人形のようだ。


 青年は暴力を止めなかった。身動きの取れない湊の上に馬乗りになって、硬い拳で何度も顔を殴った。視界が滲む。意識が霞む。痛みが遠退いて、ぼんやりとして来る。けれど、青年は拳を振り上げる。




「お前のせいで、僕は!!」




 朦朧もうろうとする意識の奥で、扉の開く音がした。湊は狭い視界で、反射的に目を向けた。黒い皮靴、黒いスーツ。闇から抜け出したかのような漆黒に身を包み、その瞳だけがエメラルドのように美しく輝いている。




「……ノワール……」




 ノワールは、返事をしなかった。

 茫洋とした目付きで、最早、焦点すら合わない。

 青い目の青年はノワールを一瞥すると、鼻で笑った。




「こいつは僕が始末します。貴方は特等席で眺めていれば良い」




 青い目の青年が言うと、ノワールは素直に椅子に座った。さっき望月が座っていた場所だ。




「ノワール……ッ」




 呼び掛けた瞬間、腹を蹴り上げられた。せ返る間も無く、暴力が降り注ぐ。

 生理的な涙が零れた。痛みは既に知覚出来なかった。ただ、其処にノワールがいて、生きているだけで良かった。

 例え声が届かなくても、手が伸ばされなくても、操り人形と化していても、生きていれば、それだけで良かった。




「……何を笑っているんだ」




 青い目の青年が、訝しげに問い掛ける。

 答える術は無い。喉の奥が焼けそうで、口の中は血で一杯だった。


 どうせ、お前になんて分からない。

 分かってたまるか。


 こいつはSLCの一員で、教主を神のように崇めている。思考停止した怠惰な亀である。こんな馬鹿の質問に答える必要は無いし、相手にする理由も無い。


 ノワールが生きている。

 それ以上に、湊が望むことは無かった。


 ねぇ、ノワール。

 君に伝えたいことがたくさんあったんだよ。

 君は、俺の窮地には必ず助けに来てくれたね。俺がどんなに情けなく惨めでも、見放さなかったね。


 喫茶店では、いつもショートケーキを食べていたね。

 君は甘いものが好きじゃなかったのに、頂上の苺は俺にくれたね。


 俺の両親の仇を前にした時、君は自分のことみたいに怒ってくれたね。俺はそれが、嬉しかったんだ。まるで、こんな自分でも良いって、言ってくれているみたいだった。


 真っ暗だった世界に、ぽっと光が灯ったみたいだったんだよ。


 君は俺の心を守ってくれた。

 今度は、俺の番だ。


 こんな馬鹿の暴力も呪詛も、俺の魂には傷一つ付けられない。こいつはただの人形だ。


 息を荒くした青い目の男が、おもむろに懐へ手を伸ばした。

 真っ黒い鉄の塊が突き付けられる。怖くは無かった。俺は自分が後悔しないように全力で生きて来た。この世は等価交換。俺の死がノワールを生かすのならば、それで充分だった。


 青い目の男が引き金を絞る。

 湊は両目を開けて、ノワールを見た。最期の瞬間に見るのは、こんな馬鹿な男ではなく、ノワールが良かった。俺が死ぬその瞬間にノワールの目に映るのなら、それだけで。


 それだけで、良かった。












 18.空虚な祈り

 ⑸最愛











 銃声が轟いた。

 死の瞬間とは、感覚が無いものなのだろう。

 湊は静かに目を閉じようとして、頬に落ちる生温かい液体に気付いた。


 それは、雨垂あまだれのようにぽたぽたと。




「ノワール……?」




 青い目の青年の放った銃弾は、湊の心臓を貫くはずだった。湊もそれを覚悟していた。けれど、その銃口の間に、スーツの男が割り込んだ。

 ノワールは湊を庇うようにして、其処にうずくまっていた。




「ノワール!!」




 どうしてだ。

 どうして、ノワールが。

 脳は破壊され、殺戮人形として操られ、思考する力も、会話する余力も残されているはずは無いのに。




「お前には、平和な世界で、笑っていて欲しかったんだよ……」




 絞り出すような声で、ノワールが言った。咳き込むと同時に真っ赤な血液が花のように散った。殆ど伸し掛かるような状態で、ノワールは血を吐いた。




「馬鹿な……、お前はもう、薬で……」




 青い目の男が愕然と呟く。

 其処で、湊は漸くその男の正体を悟った。

 SLCの殺し屋、ベリル。大阪の密売ルートを潰した時に、横槍を入れて来た男だ。立花が電話しているのを、湊は横で聞いていた。




「ノワール!!」




 湊が叫ぶと、ノワールは力無く笑った。

 ベリルが銃を構える。覚束無い手付きで、まるで素人みたいに余裕無く、照準を合わせる。




「ノワール、逃げろ!!」




 けれど、ノワールは動かない。

 エメラルドの瞳は、出会った頃と同じように美しく、透き通っている。

 両手両足を縛られ、武器も無く、反撃も逃走も出来ない。ベリルが発砲する。乾いた音が何度も響いて、その度にノワールの体を貫いた。真っ赤な血液が雨のように降って来る。


 湊は叫んでいた。




「俺を殺せ!!!!」




 ノワールが死ぬくらいなら、俺が。

 けれど、ノワールは動かなかった。全身を鉛玉に貫かれながら、ノワールはただえている。そして、湊はそれを見ていることしか出来なかった。




「ノワール!!」




 湊が叫んだ、その瞬間だった。

 錆びた扉が勢い良く蹴り飛ばされる。突如として現れた闖入者は、ノワールと同じ、エメラルドの瞳をしていた。


 ベリルの銃口が向くより早く、彼は引き金を引いていた。耳を劈くような銃声が轟いて、ベリルの呻き声がした。


 湊には、状況を把握することが出来なかった。頬に落ちる真っ赤な血液が、途切れる吐息が、エメラルドの瞳が、湊の世界の全てだった。


 血の色は、命の色をしている。

 温かい滴が零れ落ちる度に、涙が溢れた。

 脳は破壊されている。薬物で洗脳されている。だけど、ノワールがまるで、出会った頃のように笑うから。




「待て!!」




 ペリドットの怒号が響き渡る。

 湊はただ、ノワールの目を見ていた。

 初めて出会った秋の夕暮れ、分け合った焼き芋、油絵を描く最中、悪戯っぽく笑うその顔が。




「新ァ!!」




 ペリドットが駆けて来る。

 湊は医者の息子だ。どのくらい出血したら人間が死に至るのか、分かっている。ペリドットはノワールの体を引き起こして、血を吐くように弟の名を呼んだ。




「兄貴……」




 掠れるようなその声に、涙が止まらなかった。

 ノワールの下には血が広がっている。

 助けたくて、守りたくて、けれど両手も両足も動かせなくて。湊は見ていることしか出来なかった。




「兄貴、ごめんな……」




 血の泡を零しながら、ノワールが言った。


 喋らなくて良い。喋らなくて良いんだ。

 ペリドットが、泣き出しそうな声で言った。




「何度でも、兄ちゃんが守ってやるから!!」




 ノワールが真っ赤な血を吐き出した。

 その横顔から血の気が引いて行く。生命の灯火が消えて行く。それでも、湊は手を伸ばせない。




「兄貴にばっかり背負わせて……迷惑ばっかり掛けて……ごめんな……」

「迷惑なんて、一つも掛けてねぇ!!」




 ペリドットのエメラルドの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。その手はノワールの手の平を掴んでいた。




「頼む!! 死ぬな!! 死なないでくれッ!!」




 ペリドットの悲痛な叫びが木霊こだまする。湊は床を這いながら、ノワールの元に近付いた。




「兄貴の弟で、本当に良かったよ……」




 ノワールが、力無く言った。

 湊は頬に涙を張り付けたまま、縋るようにノワールの胸に頬を寄せた。心臓の音が聞こえる。少しずつ弱って行く。応急処置は間に合わない。輸血も、手術も。


 弱って行くノワールの心音を聞きながら、湊は涙を止められなかった。ノワールはもうすぐ死ぬ。俺には何も出来ない。その事実が湊にはえ難かった。




「手ぇ取ってやれなくて……、悪かったな」




 美しいエメラルドの瞳は、湊を見ていた。




「あの時、お前の手を取ってたら、何か変わってたのかな……」




 光の粒が、エメラルドの瞳から零れた。

 ペリドットの手の平から、ノワールの手が滑り落ちる。




「あああああああぁぁああああぁあッ!!!!」




 ペリドットの絶叫が迸る。それは身を引き裂くような悲痛な叫びだった。




「……人殺しでも、良かったんだ……!」




 頬を涙で濡らしながら、ペリドットが子供のようにしゃくり上げる。




「弟が無事で笑っていてくれたら、それだけで……!」




 薄暗い倉庫の中、まるで世界は死に絶えたみたいに静かだった。ペリドットの手がノワールから離れる。そのエメラルドの瞳には、怨嗟と憎悪の炎が燃え盛っていた。




「――何も!!」




 ペリドットの腕が伸びる。湊は抵抗しなかった。

 その腕が胸倉を引っ掴み、鼻が付きそうな距離でペリドットが叫んだ。




「何も、守れないじゃねぇか!!」




 ペリドットの手には拳銃が握られていた。


 湊は、この場で殺されても構わないと思った。ペリドットにはその権利があるし、湊にはそれを退しりぞけるだけの理由が見付けられなかった。




「――正義は、何処にあるんだよ!!」




 湊には、答えられなかった。

 正義の所在なんてものは、湊にだって分からない。これだけ足掻いて足掻いて、それでもたった一つさえ救えない。目の前にいたのに、声は届いていたのに!


 ペリドットの指先に力が篭る。

 その時、場違いに冷静な声がした。




「止めろ」




 カチリ、と。

 聞き慣れた軽い金属の音がした。

 撃鉄を起こす音だ。湊は声の方向を振り返り、その名を呼んだ。




「蓮治……」




 透明人間みたいに、立花は其処に立っていた。黒い鉄の塊ばかりが存在感を主張し、今にも引き金を引こうとしている。




「こいつに手ェ出すなら、お前は俺の敵だ」




 立花は噛み締めるように言った。

 血と硝煙の臭いが包み込む。一触即発の緊張感は、まるで丸腰で樋熊ひぐまとでも対峙しているみたいだった。


 その時、糸が切れた操り人形みたいに力無く、ペリドットの腕が下げられた。戦意を無くした拳銃は、まるで玩具みたいに見えた。




「どうして、お前ばかり……!」




 エメラルドの瞳は涙に濡れている。しかし、その双眸そうぼうには深い絶望と憎悪の炎が燃え盛っていた。

 立花はペリドットを横目に睨みながら、湊の側に膝を突いた。もう動かないノワールの遺体をそっと見遣り、湊の両手両足を拘束する手錠を撃ち抜いた。


 銃声が尾を引いて響き渡る。

 湊は自由になった四肢を引き摺るようにしてノワールに駆け寄った。スーツには幾つもの銃弾が穴を開け、床は血溜まり、既に息も、心音も無かった。指先から温もりが消え、少しずつ、硬直が始まるだろう。


 家族も、守れなくて。

 弟まで地獄に巻き込んで。

 目の前にいたのに、友達すら救えなくて。


 俺は、俺は一体、何をしているんだ?

 何の為に此処にいるんだ。何の為に――?


 目の前が暗くなり、呼吸すら手放そうとしたその時、かしゃんと、金属の音がした。ノワールの首元に銀色の光が見える。誕生日プレゼントのお返しに湊があげた、ドッグタグ。


 “When it is dark enough, you can see the stars.”

 どんなに暗くても、星は輝いている。


 湊の送ったメッセージ。

 少しでも彼の力になれたら良いな、と思った。

 真っ暗な闇の中を進むノワールが、道に迷わないように。


 馬鹿なことを。

 俺は、なんて馬鹿なことを。

 他人の意思を変えることなんて出来やしない。今までだってそうだったじゃないか。どうせ、他人の心なんて。


 ドッグタグを掴んだ時、裏面に凹凸の感触があった。

 裏返してみると、其処には覚えの無い英文が記されていた。


 “You light up my life.”

 お前は俺の人生に光をもたらしてくれた。


 ――心臓が貫かれるようだった。

 湊はそれを彫った覚えは無い。ならば、これを刻んだのは。


 それを、どんな気持ちで……。

 湊には、想像することが出来なかった。胸が張り裂けそうで、潰れそうで、悲しくて悔しくて、今にも声を上げて叫び出しそうだった。


 湊はうずくまり、声を殺して泣いた。




「地獄だって、良かったんだ……」




 返事が無いと知りながら、湊はその手を握った。

 冷たい手だった。肉刺まめ胼胝たこで硬くなった手の平は、もう二度と自分を撫でたり、手を伸ばしたりしない。




「君と一緒に、いたかったんだよ……」




 それ以上に、望むものは無かったんだ。

 涙が頬を伝い、冷たくなったノワールの手の平に落ちる。返事は無い。未来永劫、無いだろう。

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