⑶路地裏のヒーロー
「携帯電話を貸してくれる?」
弟に定時連絡をしないと。
困ったように笑いながら、湊が言った。
湊自身の携帯電話は、ノートパソコンと共に落としてしまい、今は公安の捜査室に保管されているらしい。
「貸すのは構わねぇけど、大丈夫なのか」
湊の情報機器には膨大なデータが入っているはずだ。
ブラックの緩和剤、フィクサーのリスト、他にも凡ゆる方面に通じる情報のパイプ。そんなものを公安に預かられているというのは不安しか無い。
けれど、湊は平然と言った。
「俺の手を離れた時点で内部データは消滅してる。携帯電話に至っては爆発して黒焦げになってるよ」
そういえば、翔太が携帯電話を渡された時にもそう言っていた。遠隔操作で携帯電話そのものを爆破する。冗談では無かったらしい。
「必要なデータは暗記してる。あのリストも原本はアメリカだ」
あのリストとは、フィクサーのリストである。
湊の父親が遺した、この世で最も価値のある黄金のカードだ。湊のことだからセキュリティに関しては問題無いのだろう。自身の携帯電話が失くなってからは、立花や近江に借りていたらしい。
翔太が携帯電話を貸すと、湊が英語で礼を言った。
少し話して来る、と湊はカンバスを壁に立て掛けた。触らないでよ、と釘を刺して来るので、翔太は苦笑した。
ノワールの描いた湊の肖像画を眺めていると、胸の奥が温かくて、締め付けられるように痛む。長い睫毛や頬の丸み、少年期から青年期へ移り変わる刹那の美しさが一枚の絵画の中に封じ込められている。
彼等は関係性に名前を付けていなかった。
友達だと言っていたけれど、柔らかな光に包まれた湊の横顔は、翔太が見たことも無い程に安心し切った無防備な姿だった。
本当に、お互いが大切だったんだろうな。
ノワールと一緒なら地獄でも良かっただなんて、とんでもない殺し文句だ。まるで、彼等は――。
其処まで考えて、翔太は思考を止めた。詮索も邪推もするべきじゃない。彼等は互いが大切で、何に替えても守ろうとした。そして、湊は今もノワールを救おうとしている。それなら、翔太から言うことは何も無いのだ。
あの街でノワールと対峙した時、翔太は殺すしかないと思った。破壊された脳は元に戻らない。ノワールは殺さなきゃ止まらない。湊が来なければ、翔太はノワールを殺していたのだろう。――妹と同じように。
どちらが、マシなんだろう。
あの場でノワールは退いてくれたけど、次は本当の殺戮人形となって現れる。その時に俺は、湊は何を選ぶべきなんだろう。
湊の帰りが遅いな、と気付いたのは、三十分程経ってからだった。帰り道のことを考えるとうんざりするが、レンタルのマウンテンバイクを返さなければならない。
話したいことが沢山あって、話せる相手がいることは喜ばしいけれど、それは帰ってからでも出来る。
玄関を出て顔を覗かせると、
湊の姿が見えなかったので、ブロック塀の向こうを覗いた。マウンテンバイクは立て掛けられたまま、通りに人は無く、何処かで大学生の騒声が聞こえる。
「湊?」
呼び掛けるが、返事は無い。
嫌な予感がした。不安が積乱雲のように膨らんで行く。塀の向こうに身を乗り出したその時、聞き覚えのある声がした。
「悲しいですね、神谷翔太」
その声は、まるで氷のように冷たく、闇の中で静かに響いた。
翔太が振り返った時、其処には見覚えのある褐色の肌をした青年が立っていた。目の前にいても存在感が無く、まるで、亡霊のようだった。
褐色の肌に青い瞳。異国の顔立ちをしたその青年を、翔太は知っている。
ゲルニカを追っていた時、大阪の密売ルートを潰した日、ノワールと喫茶店で会った時、この男はまるで幽霊のように突然現れた。
この男がどんな人間なのか知らない。だが、正体は知っている。―― SLCの一員、ベリル。
何でこんな所に。
そう思い至った瞬間、嫌な予感が稲妻のように全身を駆け抜けた。
湊がいない。
まさか、嘘だろ。
想定し得る最悪の状況だった。
「君は悪魔に取り憑かれています。可哀想に」
ベリルの言葉は意味不明だった。
恍惚な笑みが薄気味悪く、鳥肌が立つ。
「湊は何処だ」
低く問い掛けると、ベリルは言った。
「これは悪魔払いなんですよ」
会話が成立しない。
言語障害とは違う。意思疎通が全く出来ない。まるで、機械と話しているみたいだ。
「君もハヤブサも、僕等が助けてあげますよ」
「
会話は最早、無意味だった。
その胸倉を掴もうと翔太が手を伸ばすと、褐色の手の平が腕を掴んだ。違和感があった。翔太は目の端でそれを捉え、寒気がした。
ベリルの左手には、六本の指があったのだ。
偽物じゃない。本物の六本目の指。
翔太の脳裏に、近江の声が過った。
先天性奇形――。
生まれながらの薬物中毒者、ドラッグベビー。
翔太は腕を振り払い、足元を払った。ベリルが後方に跳び
ベリルが一歩下がる。翔太が踏み込もうとする刹那、ベリルは野を駆けるウサギのように、後脚で蹴り上げて来た。革靴が顎先を掠める。ベリルの動きは軟体動物のようにぬるぬるとしていて、予測が出来ない。
空手でも、ボクシングでもない。
重心は低く、まるで滑るような足運びをする。
ベリルが構えた瞬間、その体はぐるりと一回転して鋭い蹴りを放った。受け止めた腕が鈍く痛む。まるで、木製バットで殴られたみたいだ。
一歩距離を詰めようとすると、ベリルが視界から一瞬消え失せて、蹴りが腹を抉る。
踏み出した足に、ベリルが絡み付く。関節を押さえられて翔太はアスファルトの上に倒れた。頭の上から肘鉄が降って来て、翔太は転げるようにして躱した。
体勢を立て直す為に距離を取ろうとすると、ベリルが一瞬で間合いを詰めて来る。足音も予備動作も無い。しかし、型がある。これは、武道だ。
鳩尾を蹴り上げる足を受け止めると、喉の奥から熱いものが込み上げた。翔太は奥歯を噛み締めてその足を引っ掴むと、顔面目掛けて爪先で蹴り上げた。
真っ赤な血液が飛び散った。
翔太は口の中の血と共に胃液を吐き出し、ベリルは鼻血を拭った。
高揚感が胸を突き上げる。
相手はSLCの刺客、殺されるかも知れない。
湊の姿が無い。けれど、翔太はその殺し合いの中で、確かに楽しさを感じていた。
次は顔面を殴ってやる。
翔太が足を踏み出したその瞬間、クラクションが鳴り響いた。ヘッドライトの光が視界を白く染め上げ、まるで頭から冷水を浴びせられたかのように冷静になる。
黒いBMWが弾丸のように走って来る。
二人共、
乾いた破裂音が数発。一発はベリルの脇腹を貫いた。
暗いパワーウィンドウの中、金色の瞳が煌々と輝いている。立花は、空気を凍らせる程の殺気を放ちながら銃口を突き付けていた。
ベリルは三日月のように口角を吊り上げると、沈むように闇の中へ消えて行った。翔太の制止も届かない。住宅地の窓が開き、何事かと住民が顔を覗かせる。
「乗れ」
立花が苦々しく言った。翔太は助手席に回り込んだ。
缶ビールを片手にした若い男が、見下ろしている。風呂上がりみたいな親子が窓から覗く。翔太が扉を閉めると、立花はアクセルを踏んだ。
18.空虚な祈り
⑶
「死神に取り憑かれてんじゃねぇの」
ハンドルを握った立花が、苦虫を噛み潰したみたいな顔で言った。その言葉がベリルと重なって、翔太は言い返していた。
「その死神は金色の目をしてんだろうな」
立花が喉の奥で笑った。
どうやら立花は仕事帰りらしかった。後部座席にはスムラクを入れた黒いケースと、もう一つ、大きな棒状の塊があった。何を積んでいるのか知らないが、検問でもあったら一発でアウトだ。
「湊は拐われたのか?」
「多分な。今すぐ殺す理由は無い」
あれは、生きてこそ価値のあるカードだ。
立花は言った。他意は無いだろう。けれど、翔太には立花まで湊を人間扱いしていないみたいで、気分が悪かった。
「あいつは何者なんだ。左手の指が六本あったぞ」
「夢でも見たんじゃねぇの」
立花は滑らかに運転しながら、そう言って笑った。
湊が拐われたと言うのに余裕があるのは、すぐに殺されないと分かっているからだ。
SLCは湊の嘘を見抜く能力を欲しがっている。その癖、悪魔だなんて吹聴しているのだ。
「近江さんから聞いたんだけどよ」
思い出したみたいに、立花が言った。
「あいつ、大学でとんでもないもの作ってたらしいな」
「とんでもないもの?」
「人工知能と犯罪予測装置」
翔太は頭を抱えた。
マッドサイエンティストじゃないか。どうしてそんなトラブルになりそうな物騒なことばかりするのだ。しかも、フィクサーのリストまで持っているし、狙われない方が不自然である。
湊の弟は、気性こそ荒いが、素直で真面だった。
上が破天荒だと下は苦労するだろう。
翔太が現実逃避していると、立花が言った。
「あいつは本物の天才なんだ。その証拠に頭がいかれてる」
「……違いない」
笑う余裕が出て来て、翔太は肩を落とした。
「ブラックの緩和剤をどうやって作ったか聞いてるか?」
「湊が親父と共同開発したんだろ?」
「あいつ等が何を使ったかだよ」
何を?
湊は薬物そのものを入手していた。ゼロの研究データも持っていたし、他に使うものなんて無いだろう。翔太は科学医療に関する知識が無かったので、具体的にどんな方法を取ったのか想像も出来ない。
立花は前方を睨んだまま、フラットな口調で言った。
「お前の血を使ったらしい」
流石に、絶句した。
湊という少年は天使のような笑顔で、研ぎ澄まされた正義感を持っている。けれど、兎に角、頭がおかしい。倫理観とか道徳観念は、全部弟にあげてしまったのだろう。
「たまにいるんだよ、そういう頭の
「言い過ぎだろ」
「優しい方だろ。ああいう奴はしぶとい。殺そうとしても中々死なない。ゴキブリみてぇなもんさ」
確かに、湊は見た目こそ可愛らしいけれど、悪知恵やしぶとさはゴキブリに通じるものがある。
「あいつ等、家の中に食い物が無くても湧いて出て来るだろ。何食ってんのかと思ったら、人間の爪とか髪の毛も餌にするらしいな」
「止めろ、痒くなる」
立花は少しだけ笑った。
「だから、まあ、あんまり心配すんな」
立花の手が伸びて、頭を撫でた。
凍り付いていた心臓が、溶けるみたいだった。
励ましのつもりだったのだろう。不器用な優しさが、立花らしくて、翔太は笑っていた。緊張感はもう無くなっていた。
格好良い男だな、と初めて思った。
いつも余裕を崩さず、冷静に仕事を遂行し、途中で投げ出さないし、弱音も吐かない。窮地には何処からともなく颯爽と現れて、手を差し伸べてくれる。殺し屋の癖に、ヒーローみたいじゃないか。
裏社会の抑止力、最速のヒットマン、ハヤブサの三代目。
先代ハヤブサの近江が、立花を拾った理由を語ったことがある。死なせるには惜しいと思った、と。
「近江さんがアンタを後継者に選んだ理由が、分かる気がするよ」
翔太が零すと、立花の金色の目が見遣った。
へぇ、と立花は興味も無さそうに相槌を打った。
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