⑶曇点
湊から電話が来たのは、午後十時を過ぎた頃だった。
時差を考えると向こうは昼だろうか。取り留めも無いことを呑気につらつらと話している内に翔太は事務所に帰り着いて、立花が煙草を吹かせているのが見えた。
ノワールのことを話したのは、ほんの思い付きだった。
日本語しか話せないというノワールが、時々、理解不能の言語を使う。方言でもないし、英語でもないらしい。それでも、湊とは意志の疎通が出来ていたようなので、不思議だった。
電話の最中、湊の口調が変わった。それはまるで晴天に雨雲が現れるように、嵐の前に気圧が落ちるように、重く静かに沈んで行った。そして、最後は絞り出すみたいな掠れた声で別れも告げずに切れてしまった。
「……どうした」
扉の前で立ち尽くしている翔太を見て、立花が一段低い声で言った。
心配しているというよりは、不審がっているようである。翔太は嫌な胸騒ぎを抑えながら、自分の話した内容を振り返った。
「ノワールの話をしてたら、切れちまった」
「何かあったのか?」
「分かんねぇ……」
「何の話をしてたんだ」
立花は煙草を灰皿に押し付け、問い
「ノワールって、時々、変な言葉を使うんだ。方言でも外国語でもない言葉。湊は意思疎通出来てたみたいなんだけど」
「……どんな」
立花の目は、抜身の刃のように鋭かった。
野生動物のような警戒が、室内に弱い電流を走らせる。翔太はしどろもどろになってしまった。
「なんて言うのかな……。なんか、巻き舌みたいな、オクターブ高い声で、俺には分かんねぇんだけど……」
「……おい、それって」
立花が腰を浮かせた。反動で回転椅子が後方に滑り、壁に衝突する。背凭れの軋む音がまるで小鳥の悲鳴みたいだった。
「航が言ってた言語障害じゃないのか」
その瞬間、血の気が引く音が聞こえたような気がした。
ブラックは脳を破壊する薬。初期段階として視力の異常、手足の縺れ、そして、言語障害が現れる。
翔太も立花も、ノワールも、人体実験の被害者だった。幼少期に投与された薬は体外に排出されず、時限爆弾のように或る日突然、症状が現れる。
ノワールの理解不能の言語、縺れる舌。
――ああ、まさか、そんな。
翔太は絶句した。
ノワールは、既に症状が現れていた?
湊が言っていた。破壊された脳は元に戻らない。だからこそ、湊は対抗できる薬を開発しているはずだった。
まさか、間に合わなかったと言うのか。
絶望感に目の前が暗くなる。それが視力の異常なのか、精神的な錯覚なのかは分からない。だが、翔太は顔を上げた。
ノワールのことも気掛かりだけど、翔太は何より、湊が心配だった。
湊は、大丈夫なのか。
両親を亡くした直後でさえ、湊は冷静だった。だが、子供だ。ノワールがいなくなったら、湊は独りになる。
あの子はこの世界の
放って置くことは出来ない。ノワールがもしも、ブラックによる洗脳状態にあったとしたら、側にいる湊が危険だった。自分の妹がそうであったように、身近な人間を殺傷する可能性がある。
妹は先天的なサイコパスだったと言われているが、13歳の少女だった。では、ノワールは?
銃器を携帯し、殺し屋として活動するノワールが暴走したら?
考えるだけで、血が凍るようだった。
翔太は
ノワールが湊を殺していたら?
海の向こうじゃ、助けに行けない。
電話を掛けても呼び出し音が続き、留守番電話にさえ繋がらない。手に滲んだ汗で携帯電話が滑る。立花は既にジャケットを着込み、外出に備えている。
祈るように、翔太は目を閉じた。
頼む、ノワール。湊を殺さないでくれ。手を出すな。そうしたら、お前はもう戻れないぞ。湊をこれ以上の地獄に連れて行かないでくれ。
どのくらい時間が経ったのか。
スピーカーの向こうからブツリと鈍い音がした。
『翔太』
湊の声は、掠れていた。まるで全力疾走の直後みたいだ。
翔太はほっと息を吐き出し、そのまま崩れ落ちそうになった。立花も僅かに表情を和らげた。湊は生きてる。無事だ。まだ最悪の事態には陥っていない。
『さっきは……ごめん。ちょっと、混乱してて……』
「いや、良いよ。……大丈夫か?」
問い掛けながら、翔太は返答が予想出来た。この子はどんな状況であっても大丈夫だと言う。弱味を見せることは死に直結すると分かっている。
けれど、翔太の予想は裏切られた。
『大丈夫じゃない』
それはまるで呻き声のようだった。
穏やかならぬ気配を察したのか、立花がスピーカーを切り替えるように言った。翔太は湊に一言伝えて、指示に従った。
しんと静まり返った事務所の中に、湊の声だけが響く。
『ノワールがいなくなった』
いなくなった?
どういうことだ。立花が尋ねると、湊はスピーカー越しでも分かるくらい憔悴した声で言った。
『今見たらバイクが無かったんだ……』
ちょっと出掛けているだけなんじゃないか。
連絡は取れないのか。
そんなことを訊き掛けて、止めた。湊は希望的観測を嫌っているし、連絡だって取ろうとしただろう。弱目を隠しもせずに話しているということは、それだけ彼が追い詰められ、余裕を失くしているということに他ならなかった。
「俺に何が出来る」
翔太は訊いた。断片的な情報を与えられるよりも、具体的な指示を出された方がやり易い。そして、指示を出している間は、湊も冷静になれると思った。
『俺、日本に戻る……』
何故、そうなる。
会話は成り立っているのか。翔太が眉を寄せると、立花が言った。
「動けるのか?」
『出来るだけのことは、する。葵くんに頼んで――、いや、リュウに』
「……分かった。お前は一番安全なルートで、帰って来い。海の向こうじゃ何もしてやれねぇ」
うん、と湊が幼く返事をした。
相当に参っているらしい。立花もきっと湊の状況を把握したのだろう。やけに優しくて、鳥肌が立ちそうだ。
「お前は自分のことだけ考えて、余計な気は回すな。迎えに行ってやるから、その先のことは一緒に考えるぞ」
『うん……』
まさか、こんなに早く再会することになるなんて考えもしなかった。それは本来ならば喜ぶべきことなのに、胸騒ぎが止まらない。
湊とノワール。
夜道を並んで歩く二人の姿が、まるで走馬灯のように脳裏を過った。
17.名前のない地獄
⑶
「伏せろ!!」
立花の怒号が轟いたのは、その時だった。
スーツのジャケットが
砕けた硝子が
銃撃されている。
翔太は身を伏せたまま、立花の方を見遣った。
立花は壁に張り付いて狙撃手の方向を睨み、既に銃を構えていた。銃弾が激しく降り注ぐ。
身動きが出来なかった。翔太はソファの影に身を隠し、銃撃が止むのを待った。ブラインドカーテンが焦げ付き、焼け落ちる。テーブルに置かれていたマグカップが吹き飛び、床にコーヒーがぶち撒けられる。
せっかく、掃除をしたのに!
床の心配をする程度に余裕が出て来た所で、銃撃は嘘みたいに止んだ。それでも、翔太も立花も警戒を解かなかった。
恐る恐るとソファの影から窓の向こうを覗く。通りを挟んだビルの窓が開け放たれているのが見えた。
立花が硝子の吹き飛んだ窓枠に駆け寄った。駄目押しの一発が窓の
立花が階下に向けて発砲する。マズルフラッシュによって照らされた立花の横顔は、背筋が寒くなるような無表情だった。
「逃がさねぇ!」
立花は
翔太は追い掛けるべきか
非通知からの着信――。
翔太が人差し指で画面に触れると、薄闇の中に穏やかなテナーの声が響いた。
『よう、翔太』
まるで、何事も無かったみたいに。
スピーカーの向こう、ノワールが言った。
翔太はスピーカーの音量を上げ、声を荒げた。
「お前! 何処にいやがるんだ!!」
湊が、今どんな思いで!!
けれど、ノワールは静かだった。そして、次に聞こえた言葉は、既に言語の形を成していなかった。
『られるぅかわられれた』
相槌も打てない程のショックだった。
ぐちゃぐちゃで、
ブラックによる後遺症、脳の損傷による言語障害。
ノワールが口を開く度に、翔太は心臓をナイフで抉られるような痛みに襲われた。破壊された脳は元通りにならない。湊が再三言って来たことだ。
ノワールは何かを喋っているけれど、翔太には何一つ理解出来なかった。それでも、ノワールは何かを伝えようと音を零し続ける。その声を聞いていると、悔しくて悔しくて、手当たり次第に八つ当たりして、叫び出したくなる。
『頼むよ、翔太……』
ぽつりと落ちた言語に、翔太ははっとした。
まだ、間に合うのかも知れない。手を伸ばせば届くのかも知れない。
『あたまが、われそうにいたいんだ。あにきが、おやじがよんでる。でも、みなとが』
水中で
『あたまがいたい。あたまが。らあらぁれるあわれれ……』
「……!」
ぐ、と息が詰まった。
熱い雫が頬に零れ落ちる。
翔太は嗚咽を噛み殺しながら、懸命に返事をした。
スピーカーの向こう、ノワールが苦しんでいる。助けを求めている。それなのに、自分は何も出来ない。
『あたまのなかでだれかがさけぶんだ。うろぅがかられ……クソッ!!』
ノワールはまだ正気を保っている。
ブラックの後遺症は言語障害、手足の痺れ、視力の異常。今のノワールはどの段階にあるんだ。ブラックは人の脳を破壊し、殺戮人形にする。ノワールの意識はいつまで持つんだ。
せめて、湊に。
『ああもう!! 何だってんだよ!!』
電話口でノワールが怒鳴った。
そして、通話は突然、途切れてしまった。
非通知の番号には折り返しの電話が掛けられない。
湊だった。
これから飛行機に乗る。
短いメッセージに、胸が潰れそうになる。ノワールの状況を伝えるべきだ。だけど、どんな言葉で、何を伝えたら良いのか。
どのくらい時間が掛かるんだ。間に合うのか。
翔太は湊に電話を掛けたが、繋がらなかった。飛行機の中だから電源を切ったのかも知れないし、他の理由があるのかも知れない。ただ、今の翔太が頼れる相手は、湊しかいなかった。
何か、何か出来ないのか!!
時刻は午前零時を過ぎた所だった。その数字を見て、翔太は咄嗟に電話帳を開いていた。名前は無い。秘密の暗号だと言って、006と数字だけを記した。
――湊が出られない時は、俺に掛けろ。留守番電話よりはマシだろ?
湊の弟、航。
何もしないより、マシだ。
翔太は、
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