⑷遠地点

 真夜中の繁華街は、まるで昼間のように賑わっていた。

 肌を露出した若い女、如何にも頭の悪そうな若い男。脂汗を掻いたスーツの男。その中に旅行鞄を下げた通行人を見掛けて、世間は丁度、お盆の時期に当たることに気付いた。


 この世に幽霊というものが存在するならば、今頃、地方は先祖の霊が宴会でもしているのだろう。おぼろげながら、翔太にも墓参りの記憶はあった。


 両親は中部地方出身で、幼少期には田んぼに囲まれた山村に行った。濃厚な湿気と緑に包まれ、其処はまるで異世界のようだった。点在する一戸建ての家とさわから流れる冷たい風、舗装された広い道には一台の車も見かけられなかった。


 青々とした稲が風に吹かれると、水面のように波を打った。

 お盆の夜には提灯を持って山奥の墓場まで行き、蝋燭の火に見立てた先祖の霊を迎えた。翔太はその火が消えないようにと提灯の中を何度も覗き込んだ。


 そういえば、砂月が蝋燭を吹き消したことがあったっけ。

 あの時は祖父母に酷く叱られて、翔太は父と一緒にもう一度山を登った。山は墨汁を垂らしたような闇に沈み、ぞっとする程、静かだった。


 闇が深く自然が強大である程、繋いだ手は心強かった。

 提灯を下げ、父と帰路を辿った。あの時、どんな話をしただろう。父はどんな顔をしていたのか。翔太はもう覚えていなかった。




『非通知の番号は逆探知出来ねぇ』




 スピーカーの向こうで、航は溜息を吐いたようだった。

 翔太は過去に回帰していた意識を戻し、航の言葉に耳を澄ませた。


 ノワールから連絡が来てから、凡そ三十分。電話の繋がらない湊の代わりに、翔太は彼の弟の航に助けを求めた。

 航は現在、大阪の笹森一家に身を寄せている。電話は繋がったが、航は逆探知やハッキングの技術を持っていないらしかった。


 責めるつもりは毛頭無かった。巻き込んでしまっていることを詫びれば、航は快活に笑った。アルトの澄んだ声に、ガチガチに強張った肩の力が抜けて行く気がする。




『非通知じゃ、例え湊でも打つ手が無いぜ。せめて、そいつの居そうな所とか、Phone numberとか分かんねぇの?』




 Phone number ――電話番号。

 それがあれば、ノワールの居場所が分かるというのか。

 翔太は航を待たせて、通話履歴からノワールの番号を探した。湊が姿を消した時に手掛かりを求めてノワールの仕事用の携帯電話に掛けたのだ。




「番号なら分かる。それで、ノワールの居場所が見付けられるのか?」




 縋るような気持ちで訊ねると、航は言った。




『知り合いに調べてもらう。時間が掛かるかも知れねぇ』

「それでも良い。頼んだ」

『Gotcha!! 湊の到着は明日の昼前になる。それまでは持ちこたえろ。Do your best!!』




 まったく、頼もしい味方だ。

 通話を終え、翔太は真夜中の繁華街を彷徨さまよっていた。事務所は銃撃され、警察も来るだろう。ノワールを放っておけなくて飛び出したが、行き先が分からない。


 航からの連絡を待つ方が確実だが、何もせずにはいられなかった。ノワールの行きそうな場所なんて見当も付かない。このタイミングで湊と連絡が取れないのは痛手だった。


 湊ならノワールの自宅も知っているし、手掛かりくらい掴めただろう。ノワールの居そうな場所……。


 ――何が幸せか分からない。本当にどんなに辛いことでも、それが正しい道を進む中の出来事ならとうげの上りも下りも皆、本当の幸せに近付く一歩一歩になる。


 宮沢賢治の銀河鉄道の夜。

 湊とノワールが、そんな話をしていた。あれは、確か駅近くの喫茶店。翔太は其処に一縷いちるの希望を懸けて走り出した。


 くだんの喫茶店は、駅から十五分程歩いた路地裏でひっそりと営業していた。コーヒーを売りにしている昔ながらの喫茶店には、ひげたくわえた店主がカウンターの向こうに立っている。


 そして、並べられた赤い革張りのカウンター席。

 見覚えのある、見間違うはずの無い男が座っていた。




「ノワール!!」




 人目もはばからず、翔太は声を上げた。

 店主と数人の客が何事かと振り返り、白い目を向ける。

 からすのような黒髪と、宝石のようなエメラルドの瞳。駆け出しの殺し屋、湊の友達。――ノワールは、ゆっくりと振り向いた。


 ノワールは、最後に見た時に比べて日焼けしていた。

 翔太が駆け寄ろうと足を踏み出したその時、カウンター席に座っていた一人の男が腰を浮かせた。




「探したよ、神谷翔太くん」




 喪服のような暗い色のスーツにグレーの髪、銀縁眼鏡を掛けた壮年の男だった。知的な顔は何処か神経質そうな印象を与えた。


 突然、耳鳴りがした。

 耳の奥を貫くような痛みが走り、翔太は頭を抱えてうずくまった。


 誰かが、喋っている。

 血塗れの家の中、革靴が無遠慮に踏み入って来る。

 玄関でうずくまった翔太に、そいつが言った。


 ――また、失敗だ。


 見上げた視界に、銀色の眼鏡が冷たく光る。

 靴裏のガムでも睨むような視線で翔太の腕を引っ掴み、そいつは言った。


 ――神谷も犬死いぬじにだな。


 砂月は俯せに倒れたまま、動かない。流れ出す血液が川を作り、家の中は鉄の臭いに満たされている。

 そいつは父の遺体を見て、唾を吐き捨てた。


 ――まあ、良いさ。こいつもSLCに任せて……。


 瞬間、翔太は燃え上がるような憎悪に支配された。目の前が真っ赤に染まり、何処か他人事のようだった過去の記憶が実感を伴って蘇る。


 妹を実験台にしたSLC、父をそそのかした公安の闇。

 俺はこいつを知っている。いつか、父が上司だと言って共に夕食を取った。テーブルを囲んだそいつは、確かに目の前の男だった。


 名前は、確か。




「望月……!」




 父を唆して妹をSLCに引き渡した、諸悪の根源。

 俺の家族を壊した男。


 望月宗久もちづき むねひさは、眼鏡のブリッジを押し上げると意味深に笑った。




「覚えていてくれて嬉しいよ」




 翔太は獣のように身を伏せ、いつでも飛び掛かれるように身構えた。胸の中で憎しみの炎が音を立てて燃え盛る。父の笑顔が、母の声が、砂月の手が、頭の中に鮮明に蘇る。


 俺は、家族を。

 俺は、砂月を。


 望月ばかりが、悠々とマグカップを片手に微笑んでいる。




「ハヤブサの所に潜んでいたとは思わなかったよ。どうやって世間から身を隠していたんだい? 探すのに苦労したよ」




 まさか、事務所の襲撃もこいつの仕業か?

 立花が追い掛けたのも、計画の内だった?

 分からない。分からないけれど、ノワールが何も言わないのが何より恐ろしかった。




「君はね、邪魔なんだよ」




 望月がそう言った時、ノワールが席を立った。

 宝石のようだったエメラルドの瞳は、まるで腐った沼の底みたいに暗く濁っている。その手には銀色に光る拳銃が握られていた。


 正気を失っていることは、傍目にも分かった。感情の死に絶えた無表情で、ノワールは翔太に拳銃を突き付けている。

 その時になって店主も客も異常事態を察したらしく、腰を浮かせて逃げ惑った。銀色の銃口がゆっくりと追い掛ける。




「止めろ!!」




 翔太の制止は、届かない。

 ノワールは無表情のまま、まるで機械のように逃げ出す客や店主を一人ずつ撃ち殺して行った。


 発砲の破裂音も、薬莢の転がる乾いた音も、硝煙の臭いも悲鳴も、遠い世界の出来事みたいだった。一瞬で店内を血の海にしたノワールは、無表情で其処に立っている。


 まさか、もう意識は無いのか?

 殺戮人形に成り下がってしまったのか?

 間に合わなかったと言うのか?


 ノワールと過ごした日々が脳裏を駆け巡り、翔太は叫んだ。




「そいつ等は、SLCは敵だぞ!!」




 その瞬間、ノワールの瞳が揺れた。

 頭痛をこらえるみたいに顳顬こめかみを抑え、ノワールは絞り出すような声で言った。




「分かってんだよ……そんなこと……!」




 ノワールの意識が薬物に抗っている。

 まだ、間に合うかも知れない。この声は届くのかも知れない。




「じゃあ、誰が救ってくれるんだ? 誰が助けてくれるんだ? どうせ、誰にも何も出来ない!!」




 破壊された脳は、元に戻らない。

 それはまるで、地獄の底から響くような、血を吐くような叫びだった。




「それなら、自分の地獄くらい自分で選ぶさ」




 ノワールはきっと、自分の状態を把握している。

 きっと、望月が唆した。こいつは、仲間も平気で裏切り、遺体を侮辱するような最低最悪のクソ野郎だ。


 だけど、翔太は此処でノワールを失う訳にはいかなった。




「湊にも、そうやって言えんのか?!」




 濁った眼球が、鮮やかな色を取り戻して行く。

 ノワールはまだ、正気を保っている。間に合うはずだ。此処で諦めたら、一生後悔する。


 湊は、ノワールが本当に大切だったのだ。その為に地獄を選んだ。それなのにノワールが救えないんじゃ、湊の心の行き場が無いだろう!




「湊……、ああ。ヒーローの息子か」




 望月は薄く笑った。




「なるほど、君の居場所が掴めなかった理由が分かったよ」




 どういうことだ。

 公安は俺を追っていた?


 ノワールは茫洋とした目付きで、まるで遠くを眺めるかのように呟いた。




「捨て犬に見えたんだよな……。放っておけなかった」




 記憶が混雑している?

 けれど、ノワールは穏やかに、愛おしむように、繊細な硝子細工を手に取るみたいに滔々と言った。




「俺のこと、真っ直ぐ見て来た。怖がったり、憐れんだり、蔑んだりしなかった。あいつだけが、俺のことを対等に見てた」




 ノワールの瞳には、柔らかな光が宿っている。

 それは、湊によく似た柔らかで優しい、包み込むような温かい光だった。




「良い奴だったよ。俺の駄目な所も情けない所も、全部笑って許してくれるくらい。一生の内で会えるかどうかも分からないような、……奇跡みたいな奴だった」




 喫茶店の中は血塗れだった。此処も今に警察が来る。

 その時に逮捕されるのは、ノワールだ。兎に角、此処からノワールを連れ出さなければ。




「地獄でも良かったって、言ってた」




 ノワールは、独り言みたいに呟いた。

 意識は混濁しているのかも知れない。時間が無い。

 どうにかして、ノワールを。




「弟がいるって、言ってた」




 ノワールは幼子のような拙い声で、泣き出しそうに顔を歪めていた。それは、見ているだけで息が詰まるような悲しい顔だった。

 エメラルドの瞳から、涙が一粒溢れ落ちた。しかし、その瞳は次第に光を失くし、暗く淀んで行く。




「……俺には、時間が無いんだよ……!」




 ノワールの指先に力が篭る。

 その銃口は翔太に向けられていた。


 駄目なのか。間に合わないのか。――此処で、終わるのか。

 家族の仇にやっと辿り着いたのに、ノワールは目の前にいるのに、何も出来ず此処で終わるのか?


 銃声が響いたのは、その時だった。











 17.名前のない地獄

 ⑷遠地点えんちてん











 硝子の割れる音は、まるで豪雨のようだった。

 真っ赤な血液が飛び散り、床を濡らして行く。ノワールが呻き声を上げ、後退った。翔太は咄嗟に身をひるがえし、扉に向かって走った。


 金色の双眸そうぼうが、ノワールと望月を捉えていた。

 翔太が扉の外に転がり出ると、立花は冷ややかに一瞥した。

 コーヒーを売りにした喫茶店ののぼりが風に揺れる。立花はとどめを刺そうと引き金を絞る。翔太は横からそれを遮った。




「ノワールは湊の友達だぞ!」

「だから、何だ。俺達は殺し屋だ。湊の味方が俺達の味方とは限らない」




 立花が冷たく言い放った時、街路の向こうから破裂音が聞こえた。立ち竦む翔太の横で、立花はまるで初めから分かっていたみたいに、受け流すようにしてそれを躱した。




「しつけぇな」




 立花が悪態吐く。

 闇の向こう、青い瞳をした褐色の青年が銃を構えて立っていた。




「お呼びじゃねぇんだよ、三下」




 立花が吐き捨てたその時、喫茶店から凄まじい熱波と爆風が吹き荒れて、翔太は路上に投げ出された。立花は一瞬、喫茶店の方へ目を向けたが、すぐに新たな襲撃者に意識を戻した。


 翔太は、その男に見覚えがあった。

 ゲルニカを追っていた夜に対峙し、大阪の青龍会の密売現場で横槍を入れて来た青い目の男。SLCの一員、名前は確か、ベリル。




「お会いするのは、三度目ですね」




 その容姿は異国を感じさせるけれど、話す言葉は流暢な日本語だった。ベリルは青い瞳に、ぞっとするような冷たさを孕みながら、微笑んでいる。




「僕等の邪魔をしないで頂けますか、ハヤブサ」




 立花は笑った。




「無理な相談だ」




 残念です、とベリルは貼り付けたような笑顔で言った。

 ノワールと望月はどうなったのだ。爆発に巻き込まれてしまったんじゃないか。――いや、それならベリルが此処で呑気に会話をしているのはおかしい。


 時間稼ぎだ。


 翔太は直感し、店の裏口に回った。けれど、其処には半開きの扉があるだけで、ノワールも望月も、見付けることは出来なかった。




「貴方のぎょくは、飛行機で此方にいらっしゃるんですね」




 ベリルが言った。

 玉――湊のことだ。どうして、それを知っている?

 DoDの航空機やFBIのチャーター機は使わなかったのだろう。手続きに時間が掛かる。空港ならばパスポートが必要だ。まさか、それをハッキングでもしたのか?




「急がないと、蜂の巣になっちゃいますよ。――ああ、でも、僕の仲間はオキュロフィリアなので、眼球だけは綺麗に取っておいてくれるでしょう」




 何なんだ、その異常者は。

 翔太は立花に目配せした。湊の到着は昼前だ。急げば間に合う。此処でベリルを仕留められなくても、湊を殺されるよりは余程マシだ。


 立花は舌打ちを漏らした。




「……次会う時が、テメェの最期だ」




 ベリルは既に戦うつもりは無いらしく、銃口さえ下ろしていた。立花は去り際にそんなことを言い捨て、喧騒に包まれる繁華街を駆け出していた。

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