⑵消失点

 呑気と見える人々も、心の底を叩いてみると、何処か悲しい音がする。


 あれは、何の本だったか。

 忘れてしまったな。


 湊は首を傾げながら、腕を組んだ。もう少し考えたら思い出せそうなのにな。何かきっかけさえあればすっきりするのに。


 そんなことを思いながら、湊は夜空を見上げる。満天の星は、手を伸ばせば一つくらい届きそうだった。星座を探すのも困難な豪勢な星空である。街の光が遠い程に星はまばゆく光り輝くのだ。


 星が、好きだった。

 アウトドアが趣味の父親の影響だったと思う。航と一緒に父の母国でナイトハイキングをした。先導する父の背中がとても大きく見えたことを今でも覚えている。


 今の自分はどうだろう。

 闇の中を走りながら、夜空を見上げる余裕があるのは、きっと大切な人が生きていてくれるからだ。地獄と知りながら付いて来てくれた大切な人。


 関係性に名前を付けるのは苦手だ。名前を付けてしまうと、既存の関係性にとどめてしまいそうで、嫌だった。自分にとって大切ならば、名称なんてどうでも良い。


 星空に向かって手を伸ばしたら、横から腕を掴まれた。湊が振り向くと、ノワールが少し悲しそうに笑っていた。




「星に手は届かないんだぜ」




 知ってるよ。

 湊はそう返して、笑った。

 伸ばした手を引っ込める。ノワールの手が離れて行くのが何だか勿体無かった。




「夜空にはこんなに星があるのにな。……手を伸ばしても、どれ一つ届かない」




 まるで、諦めたみたいにノワールが呟いた。

 星に手は届かない。そんなの、知ってる。地球に届く星の光は、実際は既に消滅していることもある。


 この見上げた夜空の幾つが、今も存在しているのだろう。

 考えると胸が苦しくなって、湊は振り払うように言った。




「でも、見て」




 湊は両手で四角形の枠を作った。切り取られた満天の星が、両手の中で煌めいている。ノワールが横から覗き込み、首を捻った。




「この手の中にある時は、あの星も俺のものさ」




 湊が言うと、ノワールが噴き出すように笑った。

 彼が笑っていると、湊も嬉しかった。――昼間は、何処かうつろな目をしていて、自分の言葉が届いているのかも疑わしい顔色だった。だけど、ノワールは素直に従って、検査を受けてくれた。


 ノワールは、SLCの新薬の人体実験の被害者だった。

 新薬――ブラックは、人の脳を破壊する。その効果がいつ現れるのか分からない。ノワールもペリドットも、立花も翔太も、時限爆弾を抱えている。猶予は少ない。症状が現れたら、もう間に合わない。


 検査の結果はまだ出ていない。

 湊は神を信じていない。祈り方なんて知らない。だから、父の遺したデータを元に、症状を緩和する薬を少しでも早く開発しなければならなかった。


 薬物の効果は、病とは違う。サンプルが手に入っていて、父の解析してくれたデータがあれば、そう遠くない未来、それは開発出来る。問題は、タイムリミットがどのくらい残されているかということだった。


 解析は済んでいる。だけど、臨床データが足りない。

 湊が作った薬が本当に効果的なのかは、試してみないと分からないのだ。臨床データが無ければ、それはSLCの悪質な人体実験と同じである。科学の進歩に犠牲は付き物だけど、それを選ぶのはその個人であるべきだと思った。


 俺はノワールを実験台にはしない。

 もうこれ以上、傷付いて欲しくない。

 笑っていて欲しいんだ。幸せでいて欲しい。ただ、それだけなんだよ。




「流れ星」




 ノワールが言った。

 良いものを見たみたいにノワールは微笑んだけれど、湊はそれが不吉な意味を併せ持っていることを知っている。特にヨーロッパでは人の死を連想し、不吉な象徴とされる。


 彼の母国では、縁起物か。

 ノワールは、星の流れている間に三回願いを唱えたら叶うと言った。物理的に無理だろうと、湊は早々に諦めた。恐らくそれは、一瞬の流れ星に三回も唱えられるくらいの根性があれば願いも叶うとか、そういう精神論の話なのだ。


 しかし、まあ、ノワールが嬉しそうにしているのだから、構わない。湊も夜空を見上げた。流星群なら兎も角、いつ流れるか分からない星に願いを唱えることは不可能である。それでも、湊は胸の内で願った。


 どうか、ノワールの未来が明るいものでありますように。

 彼が笑っていて、幸せでいられますように。

 その生活を脅かすものが何も無く、健やかでありますように。


 ノワールと話している時、感じることがある。

 彼は溌剌はつらつとして陽気なのに、ふとした瞬間に闇の淵に沈んでしまいそうな危うさがあった。それは、湊にも覚えのある感覚だった。


 彼は、罰を求めている。許されてはいけないと自分を戒めるみたいに、暗がりに足を踏み入れようとする。それでも、湊が手を伸ばせば応えてくれる。それは、何故なんだろう。


 一瞬の流れ星に、ノワールは何を願っただろう。

 湊は、何故なのかそれを問い掛けることが出来なかった。


 ノワールの首元で銀色のチェーンが、微かな金属音を立てた。誕生日プレゼントのお返しにあげたドッグタグ。ノワールは意外と律儀なので、今も首から下げてくれている。


 湊の首にもネックレスが掛かっていた。それは、父が異国から持ち帰った土産の品の天然石だった。

 湊はターコイズ、航はラピスラズリ。互いにネックレスにして肌身離さず持っている。それが父の遺品になることも、自分たちは覚悟していた。




「なあ、例えばさ」




 ノワールが、思い出したかのように唐突に言った。




「願い事が一つだけ叶うとしたら、お前は何を願う?」




 何を。

 湊は考えた。


 一つだけなのか。




「ノワールに幸せでいて欲しい」




 湊が言うと、ノワールは目を真ん丸にして、苦く笑った。

 なんだそれ、と揶揄からかうような口調で、ノワールは泣きそうに見えた。




「弟じゃなくて、良いのかよ」

「そんなことを星に願ったら、航に怒られそうだ」




 湊が零したら、ノワールは腹を抱えて笑った。何がそんなに面白かったのか分からないけれど、彼が楽しそうにしているからそれで良かった。


 それで、良かったんだよ。












 17.名前のない地獄

 ⑵消失点しょうしつてん












 翔太からメッセージが届いていた。

 暇な時に連絡してくれ、と書かれていた。


 緊急性は無いのだろう。湊は眼精疲労に痛む首筋を揉みながら、マグカップに手を伸ばした。持ち上げた手が想像する以上に軽くて驚いた。注いでいたはずのコーヒーは既にからになっている。


 目の前のパソコンには膨大な薬物のデータ数値が映し出されていて、疲労のせいか酷く目が滑った。集中が途切れている。コーヒーを淹れ直そうと席を立ち、湊は携帯電話を手に取った。


 違法薬物ブラックとは、解析してみると向精神薬と覚醒剤の延長線上に位置する薬だった。脳の扁桃体を侵食し、外界からの凡ゆる刺激を快楽物質に変換する。中脳辺縁系のドーパミンが過剰に活動し、幻聴のような症状が現れる。


 脳神経系に直接的な刺激を与え、容易に快楽気分を引き出すことが出来る。故に依存性が高く、影響力は既存の違法薬物とは段違いである。


 つまり、これは人の脳を操り、破壊する悪夢のような薬なのである。ティーンエイジャーの間で出回り始めている薬は粗悪品に近く、純度が低い。だが、常用するようになれば人格は破壊され、後戻りは出来ない。


 問題なのは、SLCが直接行った人体実験である。

 投与された薬は粗悪品に近かったのか、それとも。

 翔太は無事だったが、妹の脳はまるで虫食いのように破壊されていた。脳のCTスキャンを見た時、吐き気がする程の悍ましさを覚えた。


 SLCの最終目的なんてものには、毛程も興味が無い。暗い部屋に閉じ篭って、都合の良い情報だけを取り入れる気味の悪い連中なのだ。科学者を名乗っていることすら腹立たしかった。


 マグカップを片手にコーヒーマシンの元まで行き、湊はスイッチを入れた。低い唸りを上げて稼働する様をぼんやりと眺めながら、機械みたいに研究に没頭する白衣の背中を眺める。此処では誰もかもが己の研究に熱中し、他人に無関心である。芳ばしい香りを嗅ぎながら、湊は、自分にもこんな未来があったのだろうかと夢想した。


 社会や政治、哲学のような概念的な活動には昔から興味が無かった。未知の病原体を研究したり、数学の難問を解いたり、誰かと何かをするよりも、自分一人の力で成し遂げられることに関心が深かった。


 文学よりも数学が好きで、言葉よりも数字の方が納得出来た。自分は人と関わる職業は向いていない。大勢の知り合いよりも、本当に信頼出来る友達が数人いればそれで良かった。


 父は医者だった。湊は、そんな父の後押しが出来るような研究者になりたかった。たまに、弟とツーリングに行ったり、友達とキャンプしたり、一人で朝から晩までサーフィンしたり出来たら、それで充分だった。他人の評価に価値を感じたことがなく、家庭を持ちたいとも思わないし、性欲というものも生まれ付き希薄だった。


 両親が生きていた頃、湊は米国最高峰の大学に飛び級で進学していた。脳科学を専攻するかたわらで、超心理学を研究し、バスケットボールクラブで汗を流し、休日は仲間とキャンプしたり、一人で読書に没頭したりした。


 そんな未来も、あったのかな。有り得たのかな。

 いや、こんな考えは不毛だ。自分はもう、その未来を捨てたのだ。この手は血塗れで、足元はもう泥に埋まっている。きっと、歯車のように消費され、ろくな死に方はしない。――親父が、そうであったように。


 コーヒーの注がれたマグカップを見下ろして、湊はそっと息を吐いた。あまり翔太を待たせるのも良くないと思い、湊はマグカップを持って研究室を出た。無人の廊下を通り抜け、休憩室の扉を開ける。暇を持て余したノワールが昼寝していることもあるけれど、今は誰もいなかった。


 丸テーブルにマグカップを置き、湊は携帯電話を取り出した。履歴から番号を呼び出して掛けてみると、まるで電話口で待っていたみたいなタイミングで繋がった。




「Hello, Shota」




 咄嗟に英語が出てしまったので、しまったと口を押さえた。

 母国は居心地が良い。自然に溢れているし、この施設の人間は他人に無関心である。油断していたことに気付き、湊は椅子を引き寄せて座った。




「調子はどう?」




 今度は日本語で。

 湊が訊ねると、翔太は穏やかに答えた。




『元気だよ。お蔭様でな』




 お蔭様って、変な言葉だ。

 オカゲサマ、オカゲサマ。日本語は身の回りの物事を人間に例える。それは八百万やおよろずの神に対する自然宗教に起因して――……。


 其処まで考えて、止めた。

 翔太は先日の事件の結末と、笹森一家の状況を教えてくれた。どちらも湊の想定内で、むしろ自分の方が詳しい情報も多かったけれど、黙って聞いていた。


 時々、翔太は思いがけない話をする。

 SLCの人体実験の被害者だったり、大阪で公安の刑事に会っていたり、ペリドットと渡り合う身体能力を発揮したりするのだ。翔太の過去や事情については彼以上に把握しているはずなのに、突然、瓢箪ひょうたんから独楽こまが出て来る。


 予想外のことや、想像を超えて来る事柄は面白いけれど、今はそれを楽しめる程の余裕は無かった。だから、一つひとつ丁寧に拾い上げて行く。




『そっちって、電波が悪かったりするの?』




 世間話の流れで、翔太が訊いた。

 湊は少し考えてから答えた。

 自分の居場所を伝える必要は無い。




「場所によるかな。どうして?」




 聞き取り難いのだろうか。

 電波は悪くないはずだ。翔太の携帯電話の調子が悪いのか。今は直してやれないから、困るな。

 其所等の携帯ショップに持ち込まれても厄介だ。電子機器に詳しい人間で、日本にいて信頼出来る人。


 コーヒーを啜りながら湊が考えを巡らせていると、翔太が言った。




『この前、ノワールと電話したんだ。雑音なのか英語なのか分からないけど、聞き取り難くてさ』




 ノワールの携帯電話?

 いや、そんな予兆は無かったな。今朝も些細な用で電話したけれど、特に電波障害は無かった。




『そういえば、ノワールって日本語しか話せないらしいけど、時々変な言葉使わないか?』




 方言のことだろうか。

 ノワールの出身地は関東だ。翔太と同じだろう。

 変な言葉って、何だ。


 何だろう。

 とても、とても嫌な感覚がする。不安が胸の中で膨らんで、心臓を圧迫しているみたいだった。

 足元が震えるような、この場から逃げ出したいような。


 何だ?

 聞きたくない。聞くのが怖い。

 翔太が、言った。




『巻き舌って言うか、舌がもつれてるみたいな――』




 その瞬間、頭の上から雷が降って来たかのような衝撃に襲われた。思考回路が真っ白に染まって、息をすることも出来なかった。何処か遠くで雷轟らいごうが聞こえる。


 手にしていたマグカップが転がり落ちて、コーヒーと共に陶器が砕け散る。それはまるで、誰かの断末魔のようだった。


 喉を両手で締められているみたいに、空気が細く抜けて行く。冷や汗が一気に吹き出して、頭から血の気が引いて行くのが自分で分かった。




『湊?』




 頭蓋骨の内側から殴られているみたいだった。

 取り繕わなければ、組み立てなければ、こんな所で立ち尽くしている時間なんて。




「後で掛け直す」




 湊は通話を叩き切り、走り出した。

 景色は見えなかった。誰が何を言っているのかもどうでも良かった。研究施設を飛び出して、裏手の駐車場に回り込む。

 耳鳴りが酷かった。まるで、周期蟬しゅうきぜみの鳴き声みたいに耳障みみざわりだ。


 俺のせいなのか?

 俺が、有り得ない未来なんか夢見たから?


 何処で間違えたの?

 どうして、気付かなかったの?

 こんなに近くにいたのに?


 予兆は、確かにあったはずなのに!!




「ノワール!!」




 湊の叫び声は、無人の駐車場に木霊こだました。

 柔らかな木漏れ日の下、初夏の風が頬を撫でる。


 停めてあったはずのバイクは、忽然と姿を消していた。

 エメラルドの瞳をしたあの青年は、もう何処にも見付けることが出来なかった。

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