17.名前のない地獄

⑴臨界点

 インターネットが普及した現代の社会は、誰もがその恩恵を受けられるようになった。情報伝達の手段として、或いは獲得の方法として。自己主張の場として、コミュニケーションの一つとして、人は指先一つで情報の海へ飛び込むことが出来るようになった。


 文明の発達は著しい。けれど、その反面でモラルそのものは低下しており、匿名で他人を攻撃出来るSNSは、人の本性を覗ける掃き溜めになっていた。


 ネットリテラシーが重視される中、デジタルタトゥーと呼ばれる言葉が広まって行った。ネット上に公開された情報は、一度でも拡散してしまうと完全に削除することが不可能になる。


 インターネット上の消えないデータ。

 それが、デジタルタトゥー。


 二年前、米国某所。

 未成年の少年が新興宗教団体に拉致され、拷問される様を映した動画が違法に公開され、拡散した。薄暗い密室の簡素なパイプ椅子に少年は縛られ、大柄の男達に殴られながら、詰問されていた。


 どちらを殺すか、選びなさい。

 年老いた嗄れ声で、その新興宗教の教主は繰り返し問い掛けた。少年の前には二人の人間が引き立てられ、どちらが嘘を吐いているのか言い当てろと言うのである。


 余りにも馬鹿げた話だった。

 少年は、選ばなかった。選べば一方は殺される。教主は時間切れを宣告し、二人を殺した。そして、次の人間が引き立てられた。


 少年は頬を腫らし、胡乱うろんな目付きで教主を睨んだ。

 過去の映像であることも忘れ、彼の言葉に耳を澄ませる。


 不屈の闘志で、研ぎ澄まされた覚悟で、彼は徹底抗戦を宣言した。ノワールは、見事だと思った。映画を見ていたかのような充足感に、立ち上がって拍手を送りたいとさえ思った。


 少年は救出され、教主は逮捕された。

 けれど、ハッピーエンドなんてものはこの世には無く、傷痕だけが残った。少年の覚悟が鮮烈である程に関心を集め、情報は拡散し、彼を追い込む。それは丁度、光が強ければ影が濃く、深くなるように。


 デジタルタトゥー。

 それは、半永久的に残る呪いの一種だった。


 しかも、その映像はチャイルドポルノやスナッフビデオのように闇社会で流通し、頭のいかれたド変態共の餌となっている。少年の覚悟も信念も、闇社会の住人には関係が無かった。見目麗しい少年が拘束され、殴られている様に興奮する下種な人間が、この世界には大勢存在するのである。


 データは今も世界の何処かで複製され、変態共の餌になっている。そして、その少年の未来は絶たれ、社会復帰は不可能だった。


 ノワールには、それがたまらなく不快だった。

 彼の覚悟が変態の餌にされていることも、消えない呪いを刻み付けた奴等がのうのうと生きていることも、愚かな人々に投げられた石礫いしつぶてを彼が痛がらないことも、吐き気がする程に不快だった。


 ニューヨーク州のメトロポリタン美術館からバイクで二時間。フィラデルフィアの自由の鐘を鑑賞し、そのまま山道を登ること三時間の長旅だった。


 到着したのは白い箱のような建物で、其処は精神病院のような閉鎖的な雰囲気を漂わせていた。駐車場にバイクを停めると、湊は後部座席から飛び降りた。


 ノワールが建物について訊ねると、湊は病院だと言った。

 こんな山の中に建てられた病院が、真面なはずも無い。ノワールの警戒を察したらしく、湊はすぐに補足した。




「親父の知り合いの病院なんだ」




 それは秘匿性の高い富裕層御用達の医療施設で、病院と呼ぶよりも研究施設に近かった。訳ありの傷病者の治療や不治の病、未知の感染症の研究を行なっており、湊がSLCに拉致された時も此処に担ぎ込まれたのだと言う。


 湊がどうして此処に来たのか、ノワールは知らなかった。

 この子には何かやるべきことがあり、それは日の当たる道を歩いては成し遂げられないことなのだと言うことだけは分かった。両親の復讐でもなく、身を隠す為でもなく、彼はこの研究施設で何かをやろうとしている。


 消毒液の匂いが染み付いた建物は清潔感に満たされている。人の気配はあるのに、何処からも生命の匂いがしない。きっと、天国というものがあるのならば、こういう感じなんだろうと思った。


 湊は受付嬢に声を掛けると、ノワールを連れて応接室に入った。大きな窓にはレースの遮光カーテンが下げられ、真っ白な壁は防音材が入っている。扉の閉まる音さえ掻き消され、監視カメラの類は見当たらない。


 カフェテリアのような丸テーブルと椅子が二脚。湊に促され、ノワールは座った。見た目は華奢な椅子だったが、座ってみると柔らかく、驚く程に座り心地が良かった。


 密室に二人きり。湊は膝の上に両手を組んで、目を伏せていた。長い睫毛が微かに震えていた。ノワールは、彼が深く傷付く覚悟で何かを切り出そうとしていると分かった。呼吸を整えるように息を吐き出し、湊は顔を上げた。




「これからの話をさせて欲しい」




 湊はそう口火を切った。

 透き通るような眼差しで、湊は此方を見ていた。




「SLCのことか?」




 ノワールが訊ねると、湊は頷いた。




「俺が奴等と遣り合ったことは話したね?」

「ああ」

「SLCの教主は逮捕されて、組織は壊滅状態になった。でも、その時の動画がインターネットに流れてしまって、俺は母国での生活が難しくなった」

「……知ってる」




 湊の声はフラットだった。其処には憎しみも怒りも無い。童話を語り聞かせるみたいな、まるで他人事みたいな響きを帯びている。




「俺はケジメを付けたし、教主も服役している。だけど、その残党が今度は君の母国で暗躍しているんだ」

「……?」




 話の真意が見えて来なかった。

 湊はそいつ等を恨んでいる風ではない。

 わざわざ海を渡って、こんな山奥の研究施設で話すことなのだろうか。




「SLCは、君の国で孤児を対象に人体実験を行なっていた」

「科学による人類の救済って奴か?」

「そういう名目らしいけど、やっていることは薬物による悪質な人体実験なんだ。……俺は大切な人をSLCの新薬によって奪われた。だから、今度は守りたい」




 熱意と覚悟は痛いくらい伝わって来るけれど、ノワールには湊が何をどうして欲しいのかが読み取れなかった。こんなことは初めてだった。彼の考えていることなんて言葉にしなくても分かって来たのに、いざ言葉にされると真意が見えない。


 嫌な緊張と焦燥ばかりがつのる。

 その時、白い部屋の中が不意に暗闇に包まれたように感じられた。視界の半分にカーテンが下げられたようだった。

 湊の声が急に遠退いて霞む。ノワールは目を擦ったが、視界は何も変わらなかった。




「その新薬はブラックと呼ばれ――、――俺は――の為に――、君に――」




 顳顬こめかみが貫かれるような頭痛と耳鳴りに襲われ、ノワールはテーブルに腕を突いた。湊の顔は、見えない。カーテンが視界を覆っている。聴覚がノイズに侵され、その声すら届かない。




「――して欲しいんだ――」

「……?」

「君の家族は――の被験者だった――」




 湊の声が聞こえない。

 ノワールが黙ると、湊が不安そうに名前を呼んだ。


 脳が情報を拒否している?

 俺はそんなに弱い人間だったのか?

 分からない。湊の声が聞こえないのだ。


 記憶の断片が浮かび上がる。

 親父の拳、浴びせられた熱湯、真っ青になって駆け寄る兄貴。夕焼けに染まった湊の横顔、黒い錠剤、ストリートファイトの声援、硝煙の臭い。


 心臓の音がやけにうるさい。

 何だ? 何が起きているんだ?




「ノワール?」




 湊が呼んだ。その瞬間、カーテンがぱっと取り払われて、視界が明瞭になった。作り物みたいに綺麗な顔が、自分を心配するように見ている。


 要するに――。

 ノワールは口にした瞬間、凄まじい違和感に襲われた。舌が麻痺しているみたいに言葉が出て来ないのだ。話しているはずなのに、舌がもつれて言葉にならない。


 要するに、俺の家族はSLCの新薬の実験台だった。

 湊はその新薬の解毒剤――という表現が適切かは分からないが、兎に角その効果を抑える薬を開発しようとしている。

 大切な人を奪ったSLCの新薬。今度は守る。新薬の実験台になった大勢の孤児。其処には、自分や兄貴、ハヤブサや翔太が含まれている。




「SLCの新薬は人の脳を破壊し、殺戮人形にする」




 ああ、翔太の妹のことか。

 翔太の妹は両親を殺した。そして、翔太が正当防衛の末に返り討ちにして亡くなった。それも、SLCの新薬のせいか。


 それにしても――。

 目の前にいるこの少年は、なんだろう?


 眼球をり貫いて太陽に透かしたら、ステンドグラスのように美しく輝くだろう。薄い筋肉を削ぎ落として、滴る血液で絵が描けるだろうか。血液は酸化すると黒ずんでしまうから、保存料が必要だ。生皮を剥がして縫い合わせて――違う!!


 何だ?

 俺は何を考えているんだ?

 そんなこと思っていない。誰かが頭の中をいじっているみたいに酷く不自由だった。けれど、白く霞む世界の中で、澄んだボーイソプラノが凛と響く。


 湊の声がする。

 言葉が縺れる。頭の中はぐちゃぐちゃにとっ散らかっていて、まるで嘔吐物みたいに無秩序だった。


 言語は既に崩壊しているのに、湊は気付いてすらいない。それはまるで、水槽の向こうを眺めているみたいだった。




「やるべきことは、……分かった」




 たったそれだけの言葉を言うにも、酷い苦労をした。

 湊は黙って頷くと、拳を向けて来た。




「俺を信じろ」




 お前が信じろと言うのなら、疑う理由なんて一つも無かった。ノワールは拳をぶつけた。そして、この瞬間が永遠になることを、切に祈った。












 17.名前のない地獄

 ⑴臨界点りんかいてん














 八月某日、ペリドットは都内のカプセルホテルにいた。

 カーテンで仕切られたベッドだけの部屋は、不自然な芳香剤の臭いに包まれ、まるで公衆トイレのようだった。黄ばんだ壁には意味不明の落書きが残され、頭の上からは獣のようないびきが聞こえる。其処は都内で最も安価で低水準の宿だった。


 其処は利用者を問わなかった。社会復帰不可能の負け犬や、莫大な借金を背負った低所得者、後ろ暗い事情を抱えた闇の住民が入れ替わり立ち替わり訪れた。焦点の合わない薬物中毒者も、銃器をぶら下げた男もいた。だが、此処には不干渉のルールがあった。だから、ペリドットも素性を訊ねなかったし、誰もペリドットをとがめなかった。


 ペリドットが血塗れで訪れても、受付係は黙って受け入れた。一畳も無いシャワールームで体を洗い、返り血を浴びた服を捨て、ペリドットは宛てがわれたベッドに寝転んだ。


 錆び付いた低い天井を眺めていると、何処からか声が聞こえる気がした。鼾なのか呻き声なのか、それは細波さざなみのように響き、ペリドットを混沌とした眠りに誘った。


 誰が救ってくれると言うの――。


 不意に声が聞こえ、ペリドットは瞼を開けた。狭い天井が軋み、カーテンの向こうから足音が聞こえる。けれど、それはペリドットの元を素通りし、何処かのベッドに潜り込んだようだった。


 ああ、嫌な仕事だったな――。


 ペリドットは頭の後ろで手を組み、溜息を吐いた。

 国家公認という大義名分の元に人殺しを始めてから、三年。国家を脅かす危険因子を粛清し続け、まるで足元が泥に沈んで行くようだった。目を閉じると、殺した奴等の恨みがましい眼差しが蘇る。亡者は夢の中で幾度と無くペリドットを責め立てた。


 そいつ等は、負け犬だ。耳を貸す必要は無い。

 割り切ったつもりでいたのに、ふとした瞬間に脳裏を過り、罵詈雑言を浴びせ掛ける。けれど、そうして責められている方が、楽だった。


 あいつ等――、弟と同い年くらいだったか。

 そんなことを思うと、たまらなく苦しくて、遣る瀬無くて、いつまでも自分を責めて戒めたくなる。


 虐殺者ジェノサイドと呼ばれるいかれた殺人鬼がいた。

 そいつ等は、双子の兄妹だった。兄の名は安幸やすゆき、妹の名は紗和さわ。本名なのかどうかは知らない。戸籍すら無かったが、恐らく、ペリドットよりも若く、もしかしたら未成年だったのかも知れない。


 道徳観念も倫理観も無い殺人鬼で、人を殺すことが自分達の使命だと信じていた。閑静な住宅街のマンションの一室で、彼等は何の変哲も無い一家を虐殺した。


 ペリドットが到着した時、家の中は血塗れだった。妻は玄関で殴殺され、二人の子供は床にガムみたいに潰れていた。特に損傷が酷かったのは父親で、彼は寝室で滅多刺しにされていた。


 二人の殺人鬼は、寝室にいた。

 住宅街で発砲は出来ない。ペリドットは床に落ちていた包丁を拾った。ナイフを片手に襲って来る安幸の頸動脈を切り付けると、ドドメ色の血が噴水みたいに吹き出した。


 本当にいかれた殺人鬼というのは、首を落とされるまで止まらない。安幸は血を噴き出し、腕を失くしても立ち向かって来たし、紗和は父親の死体に跨っていた。


 ペリドットは二人の首を切断した。家の中には六名の死体が転がり、正に地獄絵図だった。それを国家がどのように処理するのかは知らないが、この事件は報道されることは無いだろうし、彼等の墓石も建たないだろう。


 後から、彼等の生い立ちを知った。

 安幸と紗和は、父子家庭で、悪夢を煮詰めたみたいな地獄の底で生まれた殺人鬼だった。国民番号すら与えられないような低所得層の生まれで、家庭というものは崩壊していた。

 彼等は激しい虐待の元で育った。安幸は幼い頃から金銭を得る為に外で働き、紗和は父親の性的な餌だった。紗和が父親を殺害した日から、二人は闇の中に沈み始めた。


 社会に復讐するみたいに、極普通の家庭を襲い、子供が虫を踏みにじるように虐殺を続けた。そして、最期は自分に惨殺され、遺体すら残らない。


 誰が救ってくれると言うの。

 問い掛けたのは、安幸だったか、紗和だったか。

 襲い掛かる前だったのか、死に際だったのか。それとも、幻聴だったのか。ペリドットにはもう思い出せなかった。


 彼等の世界には何処にも救いが無くて、手を差し伸べてくれる人間もいなかった。だから、その死をいたんでくれる人も、慰めてもらうことも無い。闇から生まれ、闇に消えて行く。そういう塵芥ちりあくたのような、泡沫うたかたのような存在が、この社会には一定数存在する。


 誰が救ってくれると言うの。――誰も救いはしない。

 だから、それで終わりなんだ。物語の続きは無い。


 生きていれば、救いはあるだろうさ。

 じゃあ、死んだ人間は誰が救ってくれるんだ?


 どうせ、この世は理不尽で不条理で、設計ミスだらけの欠陥品そのものなのだ。神も仏もこの世には存在しない。未来なんて不確定で、過去を変えることは誰にも出来やしない。


 因果応報は自動的に行われないし、誰かがその報いを受ける。いつか誰かがなんて期待しない。明るい未来なんて考えたこともない。


 自分もろくな死に方はしないだろう。新陳代謝のように消費され、墓も建てられずに消えて行く。それで良い。そういう生き方を選んだ。俺の何を犠牲にし、搾取しても良い。だから、せめて、たった一つくらい。


 たった一つの願いくらい、叶えさせてくれよ。


 呑気な馬鹿共が嫌いだ。権力争いに忙しない保身馬鹿も、何も知らない愚か者も、理想ばかりの世間知らずも大嫌いだ。


 ペリドットは瞼を下ろした。

 獣の寝息が聞こえる。父親の怒号が、弟の悲鳴が。

 そして、その全てを遮断するように、ペリドットの意識は途絶えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る