⑼残照

 例えば手を繋いだなら、いつかは離す日が来る。

 初めから独りぼっちだったなら、離別の辛さも孤独の苦しさも知らずに済んだ。それでも、人が手を繋ごうとするのは何故なんだろう。




「遅かったな」




 翔太と航が事務所に戻って来た時、立花は雑巾を握っていた。スーツのジャケットはハンガーに掛けられ、ブラインドカーテンの前にぶら下げられていた。


 ワイシャツを脱いだ立花は、よれよれのTシャツを着ていた。スーツを着ていないと何処にでもいる若者に見える。立花はブラインドカーテンに積もった埃を雑巾で拭き取り、嫌そうに顔をしかめた。


 窓は開けられており、初夏の温い風が頬を撫でる。薄暗い室内で立花は荒れ果てた事務所の片付けと掃除をしているらしかった。

 訊きたいことは沢山あったが、雇用主があくせく働いている手前、翔太も片付けに加わった。航ばかりがぽかんと立ち尽くしていたが、立花が掃除機を運んで来ると手伝いを買って出た。


 三人で事務所を片付けた。

 脱ぎっぱなしだった服を洗濯機に放り込み、シンクに溜まった洗い物を片付け、換気扇の掃除をした。三人共、無言だった。


 翔太は床の染みを落とす為に雑巾を持ち出したが、汚れは中々落ちなかった。何の汚れなんだろう。

 掃除機を掛け終えた航は、手際良く机を拭いていた。立花の机で存在を主張する灰皿を片付けると、航は応対用の机を見て首をひねった。


 机の上には、傷があった。

 情報屋の渋谷が事務所にやって来た日、湊が机にナイフを突き刺して脅したのだ。航が何も訊かなかったので、翔太も立花も教えなかった。


 航は机を拭き終えると、水回りの掃除を始めた。

 立花や翔太よりも遥かに手際が良く、的確だった。そうして掃除が一段落した頃、航は給湯室で電気ケトルを稼働させた。事務所に漂う懐かしい匂いに、翔太は此処にいない少年を思い出す。


 航が持っていたのは、三人分のマグカップだった。

 ラベンダーのハーブティーだと、航が言った。


 そういえば、ハーブの棚はそのままだった。航の淹れてくれたハーブティーを飲むと、途端に倦怠感に似た安堵を覚え、つい息が漏れた。


 男三人でハーブティーを啜るという地獄みたいな状況なのに、三人共、噛み締めるようにそれを飲み干した。航がお替りを淹れるか尋ねたが、翔太は断った。今の事務員は翔太だ。自分の仕事である。


 航をソファに座らせて給湯室に向かおうとした時、唐突に立花が言った。




杜梓宸ト ズーチェンは死んだぞ」




 翔太も航も、驚かなかった。

 立花が呑気に事務所の掃除なんかしているのは、依頼が達成されたと言うことだろう。杜梓宸とプリシラの命と引き換えに大金を手に入れた自分達は、これからも闇の底を這いながら生きて行く。




「湊から伝言。大阪はもうじき落ち着く。そうしたら、戻れってさ」

「……どういうことだ」




 航は納得がいかないように憮然と尋ねたが、立花は煙草に火を点けたところだった。一仕事終えた後の一服は旨いだろう。立花は悠々と煙を吐き出し、副流煙を撒き散らしながら答えた。




「武器密売も違法薬物も、杜梓宸がやったことだ。それが明るみに出れば、笹森一家の汚名はそそがれる」




 つまり、汚名は全て杜梓宸に被せる訳だ。

 それは杜梓宸を目の上のたんこぶと言っていた青龍会にとっても、都合の良い結末だった。


 叩くなら折れるまで、潰すなら徹底的に。

 死体蹴りとは、このことだ。




「兄貴に助けられたことが不満か?」




 立花はゆったりと言った。

 静電気のような緊張が走った。翔太は気付かなかったふりをして、空のマグカップをシンクに置いた。


 事務所から、航の声が聞こえた。




「湊に助けられてんじゃねぇ。俺が助けられてやってんだよ」




 航はそう言って、笑ったようだった。


 強いな。

 翔太は口元が緩むのを抑えられなかった。


 彼等は、本当に強い。

 彼等はそうして生きて行くのだろう。二人で手を繋ぎ、凡ゆる困難を乗り越え、辛苦を糧として、地獄の底でも生きて行けるのだろう。

 湊の投げ捨てた明るい未来を、いつか航が拾って戻って来る。その為に彼等は手を繋いで地獄に行くのだ。


 高く跳ぶ為に長い助走を取るように、大きく歌う為に深く息を吸うように、彼等の地獄は明るい未来に繋がって行くと信じている。――落ちる所まで落ちたら、後は登るだけなのだから。












 16.繋いだ手

 ⑼残照ざんしょう












 深夜、不意に目が覚めた。

 喉の渇きを感じて給湯室でコップ一杯の水を飲み、ぼんやりと窓の外を眺めていた。草木も眠る丑三つ時に出歩く人間は一人もおらず、翔太は日中のことを思い起こしながら睡魔の訪れを待っていた。


 水滴の落ちる音が聞こえる程の静寂に、微かな話し声が聞こえた。頭の上から届いた声に耳を澄すと、その正体が分かった。

 事務所を出て、階段を登る。立花の居住区となっている三階を通過し、翔太は屋上の扉を静かに開け放った。


 屋上は洗濯場だった。伽藍とした物干し竿が夜空の下で寂しげに沈黙している。夜空を突くような貯水槽、赤く錆びた欄干。その奥に凛と伸びた背中が見えた。


 航は、誰かと電話をしているようだった。


 足音を殺して近付くと、スピーカーの向こうから懐かしい声が聞こえた。英語だったので、何を話しているのかは聞き取れなかった。けれど、二人共、まるで子守唄のような凪いだ声をしていた。


 通話を切ったタイミングで声を掛けると、航は大袈裟に驚いて後退った。翔太の顔を見ると航はほっと胸を撫で下ろし、猫のような目を軽く擦った。




「盗み聞きとは、良い趣味してんな」




 口を開けば憎まれ口。翔太は苦く笑った。

 航の目元が赤かった。まったく、可愛い弟分である。




「大丈夫か?」




 彼の性格を考えると、別の言い回しをするべきだった。翔太は小さな後悔と共に、奥歯を噛み締めた。

 けれど、航は携帯電話をポケットに入れると、肩を竦めて笑っただけだった。




「俺が選んだ地獄だ」




 彼等は、いつもそう言う。

 地獄と分かっていながら、立ち止まりも引き返しもしない。守られることも歯痒いけれど、伸ばした手を掴んでもらえないのも、中々にこたえる。


 航は夜空を見上げて、目を細めた。




「俺は湊の地獄をマシにする。あいつが落ちるなら、俺が繋ぎ留める。……だから、あんまり心配すんな」




 航はそう言って微笑んだ。その笑みは、湊にそっくりだった。


 何処までも、お見通しという訳だ。

 翔太のお節介なんて無意味だった。彼等は血塗れの闇の中で、今も足掻いている。




「俺の親を殺した爆弾魔、捕まったってよ」




 何でもないことみたいに、航が言った。そのせいで、翔太も理解が遅れた。航ばかりが、すっきりしたような顔で口を開く。




「湊の連れが半殺しにして、ギリギリ生きてるらしいぜ」




 湊の連れということは、ノワールか。

 どういう状況だ。いや、それよりも、生きているというのは。


 翔太が窺うように見遣ると、航は挑発的に鼻で笑った。




「湊は司法で裁くって言ってる」

「……お前はそれで、いいのか?」




 航は眉間に皺を寄せ、小難しい顔をして唸った。




「どうなんだろうな……。どうでも良くなっちまったよ」




 あーあ、と零して、航は頭の後ろに手を組んだ。

 見上げた夜空は解像度の低い画像みたいだった。彼等の焦がれた満天の星なんて拝めない。




「俺は確かに憎んでいたはずなんだ。そいつは生きてる価値も無いクソ野郎だった。……だからこそ、湊がそんな奴の為に手を汚すことにならなくて――、良かった」




 憎しみなんて、長くは続かない。

 彼等の母の言葉は、正しかった。湊は少しでもマシな地獄を選び、航は明るい未来を諦めない。手を繋いだのは、共倒れする為ではなく、共に生きる為だった。




「湊は暫く動けねぇ。だから、俺は自分に出来ることをやる」

「あんまり危ないことはするなよ」

「保護者面すんな」




 航は中指を立て、舌を出した。

 頼もしい悪ガキである。翔太が苦笑すると、航は思い出したみたいに指を鳴らして携帯電話を出した。




「俺の番号、教えてやるよ。湊が出られない時は、俺に掛けろ。留守番電話よりはマシだろ?」




 翔太が携帯電話を取り出すと、航はまるで自分の持ち物みたいに慣れた動作で電話番号を打ち込んだ。

 電話帳には番号と、名前の代わりに数字が記されている。




「006?」

「そ。秘密の暗号だぜ?」




 航は悪戯いたずらっぽく笑うと、携帯電話を投げ渡した。翔太がそれを空中で捕まえた時には、すでに航は屋上の扉の前に立っていた。




「俺は大阪に戻る。此処より出来ることがありそうだからな」

「休んで行けば良いのに」

「休んでる暇なんか無ぇよ」




 航はポケットからバイクの鍵を取り出して、指先でくるりと回した。微かな金属音と共に輝いたそれは、星のまたたきに似ていた。

 疲労困憊に睡眠不足、心身共に疲弊しているだろう。それでも、航は白い歯を見せて笑っていた。




「じゃあな、翔太。また会おうぜ」




 扉を開いた航が半身で振り返る。

 翔太は其処に、湊の姿を重ね見た。


 これで航が居眠り運転で事故を起こしたら、俺が湊に殺されるだろうな。

 そんなことを思いながら、翔太は手を振った。




「またな」




 錆びた蝶番が軋んだ音を立てる。閉じて行く扉を眺めながら、翔太は欄干の下を覗いた。

 建物から出て行く航の頭頂部が見える。立ち止まりもしなければ、振り返りもしない。やがて聞こえて来たエンジンの唸りが夜の闇に響いて行く。白いヘッドライトが夜の街に光り、消えて行く。


 ヘッドライトの光は遠くまで照らさない。

 航はそんなことを言っていた。だけど、翔太には十分な道導みちしるべに見えた。星が遥か彼方かなたでも光り輝くように、彼の決意は翔太にもまぶしかった。




「……せっかちだな」




 不意に声が聞こえた。

 翔太が振り向くと立花が立っていた。幽霊みたいな男である。今更驚くのも馬鹿らしく思えて、翔太はそのまま夜の街を眺めていた。




「昔、湊に訊かれたんだが」




 独り言みたいに、立花は言った。




「この世が等価交換ならば、最後の時に何を支払うか」




 どういう状況の時に、そんな問いを投げ掛けられるのだろう。少なくとも、翔太は一生口にすることは無いだろう。




「なんて答えたんだ?」

「答えてない。意味が分からなかったからな」




 立花は居心地悪そうに舌を打った。

 翔太の知らない立花と湊の時間があって、会話があって、繋がりがあった。擦れ違うことも、衝突もあった。だけど、彼等は向き合って来たのだろう。立花が、意味が分からないと言いながら今も覚えていたように。




「あいつは、明るい未来と言った」

「……湊らしいな」




 きっと、その時にはもう、覚悟は決まっていたのだろう。

 明るい未来があると信じながら、それを捨てる覚悟があった。しかも、等価交換ということはそれに見合う何かを掴みたかったのだ。


 立花と湊は、生きている世界も見えているものも、言語すらも違ったのだ。同じ場所で息をしていても、異なる世界を生きている。会話が噛み合わないのは当然だった。


 湊が本当に訊きたかったのは、刑罰ではない。

 最後の時に、貴方は何を望みますか。その為に何をしますか。――なんて、傲慢な!


 要するに、湊は立花に生きたいと願って欲しかったのだ。

 殺し屋で、真っ当な人生なんて期待すらしていなかった立花に!


 立花はつまらなそうに目を眇めた。




「俺は、覚悟なんてものは命でしか測れないと思ってた。だが、生き様で証明出来る奴もいる。……お前は、どっちだ?」




 立花は煙草に火を点けた。

 航のバイクはもう見えない。けれど、彼はヘッドライトを頼りに走り続けているのだろう。翔太は、きっと彼等のようには走れないし、高みにも登れない。


 ――けれど。

 死に方は選べなくても、生き方は決められるはずだ。




「前に、アンタが言った。俺は後悔の残らない道を選ぶ」




 未来のことなんて分からないし、過去は変えられない。それならば、目の前のことを一つずつ乗り越えて行くしかないのだ。


 世界は残酷に美しく、冷徹れいてつに選択を迫る。

 けれど、最後の時に、笑っていられたら良いと思う。

 見るべき目を持っていれば、地獄にしか咲かない花も見付かるだろう。




「それなら、足掻あがくしかねぇな」




 紫煙が、かすんだ夜空に溶けて行く。


 そうだな。

 足掻くしかない。

 神を信じない俺達は、祈り方なんて知らない。この現実で生きて行く。配られたカードで生きて行くしかないのだ。

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