⑻牡羊の燔祭
湊から連絡が来た時、立花は形容し難い感情を覚えた。
それは満天の星に手を伸ばした時のように、零れ落ちる砂をすくい上げようとした時のように、指の間を擦り抜けて消えてしまう。
首都圏某所、スクランブル交差点を見下ろす喫茶店はまるで凄惨な殺人事件の現場のようだった。押し寄せる警察関係者とマスコミ、緊急車両によって封鎖された道路。野次馬は規制線の外から遠巻きに眺め、退屈な日常を消費しようとカメラを構える。
その情報が誘導され、捏造されていると気付くのはいつだろうか。加害者も被害者も、情報の波に押し潰され、最後に残るのは強者に都合の良い事実だけだ。
幼い頃に願ったヒーローは、いなかった。
窮地に駆け付けてくれる五人組も、不死身の勇者だっていない。英雄もいつかは忘れられ、歴史の中に消えて行く。
立花は、それを見ていると何故だか悲しくて、虚しくて、遣る瀬無い思いに駆られるのだ。
一年前、一人の子供を預かった。
そいつは世間知らずの理想論者で、目の前で死に掛けている人間を見れば保身も顧みずに手を伸ばし、銃口を前にしても怯えない一本芯の通った子供だった。
殺し屋という立花の仕事を理解しており、需要と供給というものを分かっていながら、それでも何か一つくらいは掴めるのではないかと手を伸ばし、
立花は、いつも苛立っていた。
何でもかんでも救える訳じゃない。自分の身一つ守れないガキが偉そうなことを言うな。――それはきっと、いつかの自分を重ね見ていたからだ。
俺は、あの子供をどうしたかったんだろうな。
理想と現実の違いを知れ、と。割り切って考えろと言いながら、いざそうなると虚しくて
着信、蜂谷湊。
立花はそれに応じた。スピーカーの向こうから聞こえる声は、出会った頃と変わらない澄んだボーイソプラノなのに、語る口調は不自然に大人びていた。
『プリシラをやったんだろ?』
立花は溢れそうになる溜息を呑み込んだ。
この子は、人が死ぬことをとても、とても嫌がっていた。それが、どうだ。今じゃそれを受け入れ、協力さえする。そうさせたのは、立花だ。
だけど、本当は。
本当は、そうなって欲しくなかったのだ。
「滞りなくな。
『逃げ道は塞いである。予定通りのルートで逃走するだろう。狙撃ポイントの候補は送っとくから、後は蓮治が決めてくれ』
「……分かった」
立花が言うと、電話口で湊は不安そうな声を出した。
豊かな感受性も、筋の通った考え方も、あの頃と変わらない。変わらないのに、もう戻れない。この子に明るい未来は無いのだ。
家族揃って食卓を囲んだり、友達と一緒に出掛けたり、就活に頭を悩ませたりするような、そんな当たり前の未来はもう来ない。
「プリシラは、どうして杜梓宸の護衛になったんだ」
立花には、それが不思議だった。
青龍会という組織が世界有数の巨大な犯罪組織であることは知っている。そして、総帥の血を引いた
後継者争いの為に李嚠亮を裏切り、抗争に負け、プリシラという異国の女を連れて日本まで逃げて来た。杜梓宸にとって、プリシラとは一体何だったのか。
湊は暫しの沈黙を挟み、そっと答えた。
『プリシラ・チハマドは、中東テロ組織のゲリラ部隊にいた。だけど、五年前、組織を裏切って逃走したんだ。……難民キャンプで、子供を助けたのが軍規違反にされたみたいだね』
何処でそんな情報を仕入れるのだろう。
この子の情報のパイプというのは、もう立花には把握出来なかった。恐らく、湊は父親のコネクションを引き継いでいる。それは膨大なネットワークとなって彼に欲しい情報を与えるのだろう。
『中国まで逃れたプリシラは、その腕を買われて杜梓宸に拾われた。その恩に報いる為に護衛となり、敵対勢力を粛清して来た』
「……」
『俺達が武器の密輸ルートを潰してから、勢力は衰え始めた。杜梓宸よりもリュウを支持する人が増えて、居場所が無くなったんだね』
湊の声は機械のように抑揚が無かった。
『プリシラが言ってたらしいね。戦場でしか生きられない人間もいるって。……これは、俺の予想で蛇足。杜梓宸が戦争を望むのは、プリシラの為だったんじゃないかな』
正しく、蛇足だ。
立花が吐き捨てると、湊は少しだけ笑った。
『追い詰められた杜梓宸は、日本の協力者を頼る。戦争推進派の
「切り捨てられるってか」
『そうだよ。……悲しいね、報道のフィクサーと呼ばれ、青龍会総帥の右腕とさえ恐れられた杜梓宸が、こんな島国で裏切られて殺されるなんて』
悲しいな。
大勢の上に立ち、組織を成長させ、プリシラという切り札を持ちながら、最期はこんな所で惨めに暗殺されるのだ。
だからと言って、立花は依頼を取り止めることは無いし、湊も追い詰める手を緩めない。殺すか、殺されるか。この世界には勝者と敗者しかおらず、準優勝も痛み分けも存在しない。
一旦切るぞ、と言うと、湊は「また後でね」と答えた。
立花は携帯電話をポケットに押し込み、狙撃地点へ移動する為にスムラクをケースに仕舞った。
向かった先は霞ヶ関から車で十分程の邸宅だった。湊の提示した狙撃地点から内部が狙える手頃な場所に移動する。寂れた商業ビルの男子トイレだった。受付も警備員も、監視カメラも無い。あまりにもすんなりと行くので、罠ではないかと
着信履歴から番号を呼び出す。数コールと待たぬ間に湊は応答した。電話の前で待っていたのだろうか。
「狙撃地点に着いた。……リクエストはあるか?」
『そうだね。出来れば、氏家議員の目の前で殺してくれると、後が楽なんだけどな』
立花は笑った。
性格の悪い子供である。
『杜梓宸が死んだら、氏家議員がフィクサーとしてその後を継ぐだろう』
「邪魔者が一気に片付く訳か」
『そう。でも、無理はしなくていいよ。どうせ、そいつも潰すつもりだったから』
怖い子供だ。
この子供にはその力がある。権力や武力ではない。情報とコネクションによって逃げ道を塞ぎ、追い詰める。この子がこの国で獲得したのは、そういう遣り方だった。
「氏家議員の情報は何処から仕入れたんだ?」
『情報元は信頼してくれて良いよ。俺の爺ちゃんだから』
俺の爺ちゃんということは、フィクサーその人ということではないか。気紛れに受けた依頼が、とんでもなく大事になってしまった。
貸しを作るのは得策ではないが、身内の湊が仲介するなら、まだマシだ。湊の味方でいる内は、その矛先が此方に向くことはないのだから。
あの頃と立場が逆転してしまったな。
立花は苦笑し、スムラクを構えた。望遠レンズには、枯山水の中庭と、それに面した客室が見えた。板張りの渡り廊下を二人の男が歩いて行く。先を歩く初老の男は氏家議員で、後を追う優男が杜梓宸だ。写真でしか見たことが無かった。そして、もう二度と会うことも無いだろう。
二人きりなのは、都合が良かった。
立花は引き金に指を掛け、水底に沈むように集中する。周囲から音が消え失せ、まるで世界に一人きりになったみたいだった。
『イサクの
湊がそう言ったのは、立花が銃弾を放った後だった。
客室に入ろうとした杜梓宸の頭は熟れたトマトみたいに破裂し、畳も板張りの廊下も真っ赤に染まっていた。氏家議員が腰を抜かして尻餅をつき、使用人や秘書が駆け寄って行く。
とどめが要るだろうか。
立花は観察しながら、湊に話の先を促した。
『聖書なんだ。アブラハムは神の試練として、息子のイサクを生贄に捧げるよう命じられる。アブラハムは模範的な信仰者だった。だから、泣きながら息子を生贄にする為にモリヤの山を登る』
「……」
『アブラハムがイサクを祭壇に上げて刃物を振り上げた時、神の御使が現れてそれを止めるんだ。そして、アブラハムが周囲を見渡すと、茂みに角を絡めた牡羊がいて、息子の代わりに生贄にした』
どうして、そんな話をするのだろう。
望遠レンズの向こうは大騒ぎだ。立花はスムラクをケースに戻し、逃走の為にビルを降りた。階段も廊下も、誰もいなかった。すんなりと建物を脱出し、路上に停めていたアメリカンバイクに跨る。
航が大阪から乗って来たものだ。借りることは特に話していないけれど、まあ良いだろう。元々は湊の持ち物だ。
『俺はね、それを読んだ時、とても悲しかったんだ。アブラハムは神の試練を乗り越えて、息子のイサクは助かった。……それなら、代わりに殺された牡羊のことは、誰が悼んでくれるんだろう』
アブラハムとイサクは神の試練を乗り越えた。
では、舞台装置でしか無かった牡羊はどうなのか。
間抜けな羊だ。だけど、それだけでは飲み下せない感情が立花にも確かに残った。
誰が悼んでくれると言うの。
戦場でしか生きられなかったプリシラを、時代の流れに呑み込まれた杜梓宸を、明るい未来を捨てざるを得なかった湊を、誰が。
『……笹森一家の風評被害は間も無く落ち着くよ。そういう風に手を回してある。そしたら、航に大阪へ戻るように伝えてくれ』
アブラハムとは、一体誰を指していたのか。
イサクは、牡羊は。そんなこと、立花には分からない。
「なあ、湊」
呼び掛けると、
緊急車両のサイレンが遠くから聞こえる。この場に留まる意味は無い。だけど、立花はどうしても訊かなければならないことがあった。
「お前は、幸せか」
明るい未来を捨てて地獄を選び、ヒーローに憧れた少年は望まぬものになってしまった。それでも、この少年は笑うのだ。
『さあね。……ただ、最期の瞬間にそう思えるように生きて行こうと思う』
強くなったな。
そんな称賛を口にする程、立花は器用ではない。
そうか、と溢せば、湊は笑ったようだった。
「お前を子供のままにしてやれなくて、悪かったな」
そんな自己満足の謝罪を告げて、立花は通話を切った。
バイクは街を走って行く。この国からいなくなった少年の笑顔が走馬灯のように脳裏を過った。
俺はな、湊。
お前に幸せな子供でいて欲しかったんだよ。
16.繋いだ手
⑻
汚れた世界の片隅で、復讐を誓ったドブネズミがいた。
そいつは不条理な紛争で家族を亡くし、理不尽な社会に愛する者を奪われ、復讐の為に生きて来た。下らない世界に一矢報いて、ザマアミロと嘲笑するような仄暗い妄想だけが、そいつの希望だった。
その為に選んだのは、キューリと呼ばれる手製のパイプ爆弾だった。闇の中、たった一人でそれを作り続け、愚かな夢を見た。いつか自分が認められ、故人が救われるような。
米国某所、某時刻。
湊はそのドブネズミと対峙した。そいつは汚れた廃ビルの闇の中、雑多な密室で爆弾を作り続けていた。伸び放題の
扉を開け放った瞬間、そいつは湊を見て笑った。黄ばんだ歯列が薄気味悪く、その眼球は白濁していた。
湊が何かを言うより早く、ノワールが前に躍り出た。そいつは
血液が、まるで墨汁のように飛び散った。
そいつの呻き声は地獄の底から響いたように聞こえた。手首を真っ赤に染めながら、そいつは机に駆け寄った。其処でノワールが二発、発砲した。両足は撃ち抜かれ、そいつは糸が切れた人形みたいに崩れ落ちた。
歪んだ笑みを浮かべて、そいつは手を伸ばす。
机の上にあったのは、お手製のパイプ爆弾だった。
湊の脳裏に、父の死に様が過ぎった。
ああ、死にたいんだ。
湊は理解した。
こいつは、死にたかったんだ。終わりにしたかった。自分はやり遂げたんだと、大義の為に死んだのだと、歴史に名を残したいのだと分かった。
――どいつも、こいつも。
頭の中が真っ赤に塗り潰される。己の意思とは関係無く、体が動いていた。湊はそいつの首根っこを引っ掴み、汚れた床に叩き付けた。
腐臭が、血の臭いが、そいつの悲鳴が。
全てがぐちゃぐちゃに掻き混ぜられる。頭が収縮するような鈍い痛みが駆け抜ける。湊は馬乗りになって、そいつの
こんなものは、嫌いだ。
錆び付いた思考回路に、理性が叫ぶ。
銃も爆弾も、大嫌いだ。
こんな奴の為に、俺の両親は殺されたのか?
こんな奴の為に、弟の未来は奪われたのか?
銃口を突き付け、永遠にも思える沈黙が流れた。
罵詈雑言を吐き捨て、
大義の下で死ぬことを願っているのならば、惨めに犬死にさせてやろう。お前の命には塵一つの価値も無くて、これまでの人生は無意味で、お前はただの殺人鬼なんだと。
誰にも知られない闇の底で、銃弾に撃ち抜かれて、細切れの肉片となって、最期は
「……何してんだ」
ノワールの声が、遠くに聞こえた。
湊は銃口を下ろし、応急処置を行なっていた。
「助けるのか……?」
湊は両足と手首に布を巻き、携帯電話を取り出した。
家族同然の付き合いをして来たFBI捜査官へ連絡を入れる。場所を告げ、湊は携帯電話をポケットに戻すとそいつを床に転がした。
血は止まらない。こいつは死ぬ。
だからこそ、こんな所で死なせて
「両親が死んだ日、俺は決めたんだよ」
両親は爆弾で殺されたのではなく、守る為に死ぬことを選んだ。きっと、復讐は望まない。
ノワールは何かを言いたげにしていたけれど、止めはしなかった。湊は手首に布をきつく巻き付けると、そいつの胸倉を掴んだ。
「お前を、裁きの場に引き摺り出してやる」
そいつの喉がひゅっと鳴った。
名誉の死なんてさせない。こいつは生きたまま地獄に落ちれば良いんだ。
こいつを利用した鷹派のフィクサー共も、この薄汚いドブネズミも、決して許しはしない。生きて罪を償うなんて生温いこともさせない。
「お前は法律の下で、
そいつは極寒の中にいるみたいに体を震わせて、何かを叫んだ。言語だったのかも知れないし、悲鳴だったのかも知れない。けれど、湊にはどうでも良いことだった。
「何度でも、死刑台に送り返してあげるからね」
自分がどんな顔をしていたのか、湊には分からなかった。
もう、どうでも良かった。どうせ、人の死に意味なんて無い。生きている人間が都合良く解釈するだけなんだ。
だから、俺もそうする。
俺の親父はヒーローだった。
生きて家族を守り、死んで世界を変えてくれた。
母は全身全霊で愛し、守ってくれた。湊はそれを誇りに思うし、心の底から尊敬している。
両親はやるべきことをやった。だから、俺もそうする。
正義も悪も下らない。そんなものはただの言葉で、復讐も埋葬も等しくエゴである。それでも、両親の死を無駄にしない。忘れないことだけが、自分に出来ることだった。
サイレンの音がする。
湊はそいつを蹴飛ばして、
とどめは刺さない。失血死するならそれで良い。此処で死なないならば、生きて地獄に落としてやる。
建物を出ると、緊急車両が回転灯を光らせて走って来るのが見えた。湊は頬に付いた返り血を拭った。
この国の司法には顔が利く。あいつは必ず死刑になるだろう。そいつの憎んだ社会が、そいつを殺すのだ。電気椅子がそいつの死に相応しいと思った。
「Hallelujah……」
不意に口から零れ出たのは、歌だった。
どうして歌っているのかも分からない。
これで良かったのか? 本当に?
俺がとどめを刺すべきだったんじゃないか?
けれど、その時、テナーの声が重なった。
「Hallelujah…… Hallelujah…… Hallelujah……」
その歌声を聴いていると、何もかもがどうでも良くなってしまって、下らなくて、虚しくて。腹を抱えて笑いたいような、声を上げて泣きたいような奇妙な心地になる。
――本当に強い奴は、笑うんだぜ。
今は亡き父の声が蘇る。
なあ、親父。俺はちゃんと笑えているかな。
湊は鼻を啜り、そっと肩を寄せた。
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