⑺羽化不全

 翔太は、走り続けた。


 街はパニックに陥っている。ペリドットと邂逅したあの日のように、ゲルニカを追い掛けたあの夜のように、湊が地獄を選んだあの時のように、街は対岸の火事のように燃え盛る。


 警官が規制線を張り、野次馬が群がり、回転灯がチカチカと光る。それは翔太にとって、家族を亡くした日のフラッシュバックだった。

 顳顬こめかみの辺りが鋭く痛み、視界がぐにゃぐにゃと揺れて、足元の感覚が無い。それでも、走り続けた。家族を守れず、妹を手に掛け、それでも生き続けている。


 理由は一つだった。

 手を、繋いでいたから。


 駅前でトラウマのフラッシュバックからパニックを起こした日、湊が翔太の手を握っていた。翔太が闇の底に落ちそうな時、いつも湊が其処にいて、導いてくれた。


 湊は此処にいない。

 でも、今は航がいる。

 誰かのことを思う時、自分は冷静でいられる。踏み止まっていられる。もつれそうになる足を引き摺って、暗がりに落ちそうになる意識を繋ぎ止めて、人混みを掻き分けて、喧しい街の中を駆け抜けた。


 人気ひとけを避けて路地裏に辿り着いた時、すっかり息が上がっていた。酸欠で頭が痛くて、口の中は血の味がした。翔太はコンクリートの壁に凭れ掛かり、自重でそのままずるずると座り込んでしまった。


 二人分の荒い呼吸が路地裏に響く。

 呼吸が落ち着いて来てから、漸く立花に連絡を入れることを思い出した。翔太が携帯電話を取り出してメッセージを送信していると、壁に縋るような姿勢で航が呻いた。


 大粒の汗が頬を滑り、顎先から落下する。航は背中を丸めてうずくまっていた。くぐもった呻き声が聞こえた。激しくせ返りながら、航はその場で嘔吐した。胃液独特の臭いが鼻を突く。


 顔色は真っ白だった。

 翔太がその背を撫でようとすると、勢いよく振り払われた。余りの強さに驚いて声も掛けられなかった。航は英語で何かを言って、俯いてしまった。


 滴り落ちる汗が、翔太には涙に見えた。

 いつかの湊を見ているようで、自分を見ているようで、胸が軋むように痛む。航は手負いの獣のような獰猛な殺気を放ち、ぽつりと、呟いた。




「……湊……」




 その声を聞いた時、翔太はどうして自分が航を気に掛けていたのか理解した。航はずっと、ずっと余裕が無かったのだ。

 大阪からバイクで東京まで来て、信用出来る味方も無く、一睡もしていない。ずっと緊張の糸を張り詰めて、目の前で銃口を突き付けられても折れなかった。


 航は口元を拭うと、英語で短く詫びた。顔色は戻っていなかったけれど、少しだけ落ち着いたようだった。




「俺の親父は、医者だったんだ」




 独り言みたいに溢して、航はコンクリートの壁に背中を預けて座った。その両眼は生理的な涙に潤んでいる。




「人を殺すなんて、考えたことなかった……」




 航は乾いた笑いを漏らした。

 翔太は拳を握った。




「そんなの、当たり前だろ」

「……でも、俺の兄貴はやった」




 やったんだよ。

 航は膝に頭を埋めて、絞り出すようにして言った。


 どうして――。

 どうして、こんなものしか選べないんだろう?

 湊も航も翔太も、こんな世界を望んだ訳じゃなかった。だけど、それしか方法が見付けられなくて、選んだ未来は暗くて冷たかった。


 この世が理不尽で不条理なことは知っている。困難があることも分かっている。だけど、――だったら他の奴等も同じように苦しめよ!!


 どうして、俺達ばかりがこんな目に遭わなきゃならないんだ?

 己の意思も無く流されるだけの大衆がヘラヘラ笑ってんのに、どうして俺達は日の当たらない場所でうずくまることしか出来ないんだ?


 薄暗い嫉妬だと言うなら、それでも良い。

 せめて、この手の中にあるものだけは、最期まで守らせてくれよ。




「なあ」




 航が、掠れた声で呼んだ。




「湊が連れて行った奴って、俺が前に会った殺し屋だろ?」




 航は、彼にしては幼い仕草で、首を傾けた。

 翔太が頷くと、航は空を見上げた。コンクリートの壁に挟まれた汚い空だった。彼の故郷とは、きっと比べようもない。




「なんで、俺じゃなかったんだろう」




 なんで、ノワールだったのか。

 翔太でも、航でもなく。答えはきっと湊にしか分からない。だけど、きっと航は、連れて行って欲しかったんだろう。

 一緒に地獄に落ちると言った。それでも、湊は航を連れて行かなかった。それは、どうして。




「俺は力不足だ。湊みてぇに頭も口も回らないし、視野も広くない。……だから」




 多分、そうじゃない。湊は人を値踏みする子供じゃない。

 ノワールの方が融通が効いて腕が立つのも事実だけど、きっとそれは本当の理由じゃない。




「ノワールは、湊がこの国に来て初めて出来た友達なんだ」




 友達?

 航が復唱する。意味は分かるはずだ。

 正直、湊とノワールの関係は翔太にもよく分からない。




「ノワールと友達になって、初めて息が出来たって言ってた」




 そういえば、湊はしょっちゅう立花と喧嘩していたな。

 ずっと悩んでいたし、苦しんでいた。今の航と同じだ。湊は何も持たずにこの国に来た。等身大の湊を認めてくれたのは、ノワールだけだった。


 航は理解し難いみたいに眉を寄せていたけれど、翔太にもそれ以上の説明は出来なかった。その時、航が肩を跳ねさせた。ポケットに入れていた携帯電話が震えたらしい。




「湊だ」




 呆然と、けれど深い闇の底に希望の光を見出したかのように航は呟いた。指先が震えていた。航が画面をタップすると、スピーカーの向こうから懐かしい声がした。




『航?』




 まるで、つい最近、顔を合わせたばかりみたいに。

 スピーカー越しの湊は、目の前にいるみたいに平然と話し始めた。




『二人共、生きてる?』




 第一声がそれかよ。

 湊らしくて、おかしくて、肩の力が抜ける。

 それは、航も同じだった。暗く淀んでいた瞳が静かに澄み渡って行く。透き通るような眼差しで、航は笑った。




「Save your breath」

『翔太もいるんだろ。日本語にしろよ。相変わらず、気が利かないな』




 一言多い奴だ。

 こっちの状況も知らない癖に、良い気なものだ。

 航はスラングで何かを吐き捨て、すぐに日本語に切り替えた。状況を説明し始めた航はもう落ち着いていて、声の震えも無かった。




『プリシラはやったんだな。じゃあ、後は任せろ』

「なあ、湊」

『Ah?』

「プリシラは……、戦場でしか生きられない奴もいるって言ってたよ」




 湊は鼻で笑った。




『勝手な理屈だな。だったら、戦場で生きて、死ねば良かったんだ。ジャングルの奥に閉じ籠って、原住民と殺し合いでもしてろってんだ』




 湊なら、そうやって言い返したんだろう。

 プリシラの主義主張なんて一切受け入れず、情も移さず、容赦無く切り捨てたんだろう。だけど、航はそうじゃなかった。だから、苦しんでいる。


 それでも、翔太にはそれが悪いとは思えなかった。

 最期の瞬間、プリシラは手を伸ばした。意味は分からない。

 彼女は憐れな殺人鬼だったのかも知れない。救いなんて何処にも無かったのかも。翔太は其処に妹を重ね見て、届かなかった。それだけの話だった。




『怒りは原動力になるけれど、それに支配されているようじゃ時代を乗りこなすことは出来ないよ』




 これは、プリシラに言っているのか。それとも、航か。

 翔太には、湊が自分自身に言い聞かせているようにも感じられた。




『俺の地獄をマシにしてくれんだろ? じゃあ、もっと深く沈んで来いよ。俺はお前の保護者じゃないぜ』

「うるせぇよ、馬鹿湊」




 航が笑った。




『翔太は無事だったの? 航が迷惑掛けてないか?』

「俺は大丈夫だよ」

『日本人の大丈夫って、信用出来ないよね』




 それは、分かる気がする。

 翔太が苦笑すると、湊も笑った。




『生意気だけど、大事な弟なんだ。助けてやってくれ』

「当たり前だろ」




 スピーカーの奥でノワールの声がする。

 二人共無事で、良かった。

 この世は相変わらずくそったれだけど、まだこの手に残るものがある。大丈夫。立ち上がれる。


 湊は朗らかに笑うと、またね、と言った。

 そのまま勝手に通話を切ってしまったので、翔太も航も苦笑いするしか無かった。













 16.繋いだ手

 ⑺羽化不全うかふぜん













 オクラホマ州のナイトクラブは、夜の沈黙を掻き消す喧騒の中にあった。爆音のEDMが空気を震わせ、赤と白のレーザースポットが薄いスモークの中を駆け回る。


 ダンスフロアでは若い男女が狂ったように踊り、もだえるように身を寄せ合っていた。天井から下げられたミラーボールが細かな光を反射し、まるで羽虫のように飛び交っている。


 バーカウンターは、喧しいダンスフロアから離れた小島のようだった。花梨素材の一枚板は落ち着いた飴色をしていて、薄明かりの中で広大な大河に似た緩やかな模様が見える。


 バックバーは陳列棚のように無数の酒瓶が所狭しと並べられていた。流石に飲んだことは無い。湊はグラスに注がれたペリエを揺らしながら、携帯電話を眺めていた。


 弟との定時連絡。

 連絡が無い時は死んだと思え。


 湊は航にそう言った。だけど、離れてみると、弟から電話が掛かって来ることの方が多かった。湊が連絡を忘れているのではないし、時間も守っている。それでも、航は何かに急き立てられるみたいに電話を掛けて来る。


 それを迷惑とか鬱陶しいとか、そんな風には思わなかった。

 航の気持ちが痛い程に分かるからだ。今の航は、一年前の自分に似ている。異国の地にたった一人、頼る宛もなく、道導みちしるべも無い。

 だから、なるべく応えたいと思う。しかし、擦れ違うように海を渡った自分には、出来ないことが多くあり、いつも歯痒かった。


 儘ならないものだ。

 弟が助けを求めるならば、何を犠牲にしても助けに行く。けれど、航は助けを求めない。そして、困難の中にあると分かっているのに、側に行くことは出来ない。




「元気だったか?」




 マルガリータの注がれたカクテルグラスを傾けて、ノワールが訊ねた。エメラルドの瞳を柔らかに揺らすノワールは、はっとする程、魅力的に見えた。殺し屋なんて物騒な世界じゃなくても、生きていけただろう。




「元気かどうかは、微妙だね」

「でも、生きてんだろ?」

「うん。航も、翔太も生きてる」




 今日も生きてる。明日も生きてる。そう願いながら、覚悟する。それが最期の連絡になるかも知れないことを。

 長電話は出来ない。伝えられることは限られる。それでも、別れ際は必ず次を約束する。




「じゃあ、乾杯でもするか」

「そうだね。――二人の無事に」




 グラスの縁を当て、密かに二人の無事を祝った。

 湊はペリエを飲み下した。炭酸が喉の奥を焼くようだった。ノワールはアルコールに強いようで、飲んでも酔っている所は見たことが無い。


 グラスをカウンターに戻し、湊は硝子の向こうで弾ける泡を眺めた。




「本当はね」




 きっと、それは弱音、或いは懺悔だった。

 普段なら、絶対口にしない。言葉にすれば、それに縛られる。湊は相談と言うものが苦手だった。迷っている自分はとても弱くて、その弱味を誰に利用されるか分からない。




「弟には、日の当たる道を歩いて欲しかったんだ」




 酔っているのは、自分かも知れない。

 ただの炭酸水。アルコールなんて入っているはずも無いのに。


 ノワールは不満そうに顔をしかめた。




「その為に兄貴が犠牲になって、弟が本当に幸せになれると思うのか」

「弟が死ぬよりマシさ。俺には、航しかいない」

「勝手だな」




 ノワールは鼻で笑った。




「俺の弟、すごく努力家でね、バスケが大好きだった。大好きだから練習して、いつの間にかチームメイトと実力の差が開いて、疎まれるようになった」

「出る杭は打たれるって奴だな」

「そう。チームから無視されて、航は透明人間みたいに扱われて、俺は側にいることしか、出来なかった」




 あの頃と今は、どちらがマシだろう。

 航はバスケットボールが大好きだった。別にチームメイトを見下していた訳でもない。楽しむ為に、ただ上手くなりたくて、同じ努力をチームメイトにも求めていた。


 航が何も言わなくなって、湊が代わりに言い返すようになっても、状況は何も変えられなかった。いつしか航はチームの練習に来なくなった。




「それでも、辞めなかった。チームプレイに嫌気が差して、ストリートに通うようになって、また航が笑うようになった」




 好きなものを嫌いになるのは、とても辛いことだ。

 だから、湊は航が笑っていられるのならば、それで良かった。例え、隣に並べなくても。




「バスケが好きだったんだ。だから、あの日、州立記念公園のイベントに参加した。親父が企画したチャリティのイベント。航は気紛れだったって言ってたけど、本当は、昔を思い出したのかも知れない」




 父もきっと、そうだった。

 ストリートバスケが息子の心の拠り所になったように、貧困に喘ぐ若者を救い上げる為に、一銭の得にもならないイベントを企画した。航もそれを知っていた。だから、参加して、母は応援に行った。


 あの日、彼処に爆弾が仕掛けられなければ、きっとあのイベントは大勢の若者を救ったのだろう。そして、過去の航だって報われたはずだった。




「犯人が憎いか?」




 ノワールが訊いた。

 どうかな。湊は首を捻った。




「分からない。考えないようにしてる。怒っている内は折れずにいられるけど、それじゃ何も変えられない。俺の代わりに航が怒ってくれる」




 だから、それで良い。

 それで、良いんだよ。

 俺は自分がやるべきことをやる。ただそれだけだ。




「感情なんて、他人が肩代わり出来るもんじゃねぇだろ」




 ノワールはマルガリータを飲み干すと、ブルドッグを頼んだ。澄んだ白色のカクテルは、いつか見た夜明けの空に似ていた。




「泣けば?」




 ノワールが言った。

 何で、と湊は愚直に返した。ノワールは静かに言った。




「泣ける内に泣いておいた方が良い。いざ泣こうと思うと、泣けないことってあるからな」




 ノワールも?

 ノワールも、そうだったの?

 その問いは口に出来ないまま、湊は曖昧に笑ってペリエを流し込んだ。


 そういえば。

 ノワールが思い出したみたいに言った。




「もう叶ったって言ってたろ。あれって何のこと?」




 白い砂浜で青い海を眺めながら、そんな話をした。

 ノワールが行きたいという美術館を目指して、海沿いの道をバイクで走った。何処までも行けると思ったし、この時間が永遠に続けば良いと願った。




「ノワールと海を渡って、綺麗なものを沢山見て、一緒に過ごすのが夢だったんだ」




 グラスの中は既に空だった。お代わりをするべきか迷ったけれど、炭酸で腹を膨らませるのは不健康だ。自分は生きなければならない。


 ノワールは、冗談を流すみたいに軽く笑った。




「小さい夢だな。俺なんかより大物になるつもりの癖に」

「……でも、本当なんだよ」




 エメラルドの瞳を見据えると、ノワールは真顔になった。


 何だよ、その顔。

 湊が笑うと、ノワールはブルドッグを一気に飲み干した。グラスがカウンターに叩き付けられる乾いた音が響いた。




「そろそろ、モーテルに戻ろうぜ。泣けないお前に、胸を貸してやるよ」




 お優しいね、と湊は笑った。

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