⑺悪魔の囁き

 駅前の喧騒を避け、路地裏に足を踏み入れた時だった。

 闇の中で金色の双眸がぴかっと光って、湊の体は宙に浮いていた。眼鏡とキャップが弾け飛ぶ。瞬きすら間に合わない刹那、背中に衝撃を受けて思考が真っ白に染まった。




「探したぜ、クソガキ」




 唸るような低い声が、頭の上から降って来る。

 頬が熱かった。その時になって初めて、湊は自分が殴られたということを理解した。


 コンクリートの壁に挟まれた汚い路地裏、日の落ちた暗がり。闇に溶ける黒いスーツには埃のように煤が積もり、所々擦り切れていた。

 金色の瞳ばかりが獲物を見付けた肉食獣みたいに爛々と輝いている。




「……早かったね、レンジ」




 口の中に鉄の味が広がった。

 何処が切れているのかと舌で確認していると、胸倉を掴まれた。鼻が付きそうな程の至近距離から睨まれ、湊は反射的に睨み返した。


 どうなってる?

 二人組の追跡者が下水道に踏み込んだことは知っていた。立花と翔太だと思っていた。立花と一緒ならば、翔太も死にはしないだろうと。


 では、翔太は今、誰と一緒にいるんだ?

 誰が罠を潜り抜けた?

 立花が此処にいるということは、敵は殲滅されたのか?


 幾つもの可能性が頭の中に浮かんでは泡のように弾けて消える。脳は酸欠と疲労でまともに動かない。自分がとても混乱していると分かる。




「あいつ等は何者だ」




 息が出来なかった。

 両手の親指を握り込む。


 立花が追い付いて来たのは、想定よりも早いタイミングだったけれど、修正出来る。立花は自分を殺せない。自分を此処で殺せば、ハヤブサの名に傷が付く。


 殴られても、拘束されても、両足のけんを切られても、生きていれば利用価値がある。自分の存在価値は分かっている。


 湊が口を開こうとした時、立花は顔を歪めた。

 ゴミを投げ捨てるみたいに離されて、湊は激しくせ返った。ゆっくりと息を吸い、湊は咳き込む。


 呼吸を整えながら、湊は告げた。




「あいつ等は、戦争推進派フィクサーの私兵だよ。軍人だね」

「……」




 立花が意味深に目を眇める。


 本当にテロリストだと思っていたのだろうか?

 湊は苦笑した。本当のテロならば、その矛先は国家に行き着く。自分のような子供を狙う理由は無いのだ。




「お前が狙われる理由は何だ」

「狙われてるのは俺じゃない」




 口の中は血で一杯だった。

 手の平に血を吐き、服で拭った。何処で誰が自分の血を利用するか分からないからだ。


 湊が顔を上げると、立花の金色の瞳が真っ直ぐに見下ろしていた。両手は空いているが、武器を持っている。戦闘になったら、成す術なく殺されるだろう。




「狙われているのは、俺の弟だ。正確には、俺の弟が持っている親父のデータ」




 クソ親父。

 故人を悪く言いたくはないけれど、悪態の一つも吐きたくなる。自分が死ぬだけなら兎も角、家族まで巻き込んで何のつもりだ。


 他人の為に死ぬくらいなら、家族の為に生き抜けよ!

 今頃、天国にいるんだか地獄にいるんだか知らないが、いい気なものだ。




「何のデータなのかは、知らない。フィクサーが欲しがるデータなんて、どうせろくなもんじゃない」

「……どうして、お前の弟がそれを持ってる」

「知らない。今際の際に託されたのかも知れないし、親父は予期してたのかも知れない」




 果たして、どちらがマシな未来だっただろうか。

 弟がデータを持っていなければ狙われることもなかった。だけど、それが敵の手に渡っていたら、戦争は止められなかった。




「そのデータを、どうするつもりだ?」




 立花が言った。

 その問いが、湊には既に不快だった。




「データなんかどうでも良い。ドブに捨てたって構わない。権力者の駆け引きも、国家間の緊張も、俺にはどうでも良いことだ」




 第三次世界大戦なんて、遠い世界の話だ。

 メサイアコンプレックスだった父と、自分は違う。いつだって目の前のことに精一杯で、それすら守り切れずに此処まで来た。




「弟の窮地を、黙って見てる兄貴が何処にいる」




 弟が大切だ。何に替えても守る。

 他に理由なんて、無い。


 親父が渡したデータのせいで、弟が狙われている。逃げ隠れするのは、自分の方が向いている。弟には未来がある。日の当たる道を歩いて欲しい。


 立花には、分かるだろうか。

 親が貫こうとした正義、命に替えても守りたい家族。

 その為なら、俺は何でもやる。


 立花が言った。




「……弟は、どうやってこの国に来るんだ?」




 湊は口の端に滲んだ血を拭い、眼鏡とキャップを拾った。

 眼鏡のフレームが歪んでいた。伊達眼鏡だったので構わないが、もう使えない。湊はキャップを被り直した。




「ヒーローはいつだって空から現れる」

「飛行機か? この騒ぎの中、目立つぞ」

「DoDのチャーター機が、燃料補給の名目で国内の基地に来る。俺の弟は其処に乗ってる」

「DoDだと?」

「親父のコネクションだよ」

「国内の基地ってのは何だ。……まさか」

「航空自衛隊基地さ。栁澤さんに手を回してもらった」




 この国の軍事はアメリカ頼みだ。DoDが燃料補給の為に緊急着陸したところで、事件には出来ない。

 航空自衛隊は幹部がごっそり処分され、指揮系統はぐちゃぐちゃになってる。漬け込む隙は幾らでもある。

 そもそも、この一連の騒ぎは宗教団体によるテロではなく、フィクサーの派閥争いだ。国家間の緊張なんてものはただの建前なのだ。


 東北と関西は青龍会の密輸で混乱している。首都圏では銃乱射騒ぎ。中立を謳うこの偽善国家は能動的に動けないし、直接狙われるリスクは低い。敵の目を撹乱する為に、出来る限りの手は打ってある。


 データを受け取ったら、騒ぎが落ち着くまで弟を隠す。

 その間にフィクサーとやり合わなければならない。休んでいる時間は無い。俺の役目だ。




「家族を守る為なら、俺は何でもやる」




 幾らでも泥を被り、火の中に身を投げよう。

 それで、弟が笑っていられるなら。


 立花は全くの無表情で、氷のような冷たさで言った。




「自己犠牲は尊いが、愚かだぞ」




 湊はせせら笑った。




「自己犠牲なんて、俺の流儀じゃないね」




 そんなことより。

 湊は訊いた。




「レンジはどうして一人なの。ショータは? 敵はどうなった?」

「目に付く敵は殺した。翔太はペリドットと、お前の秘密基地に行ったよ」

「……ペリドット?」




 ペリドットならば、あの下水道の罠を潜り抜けたというのも納得出来る。しかし、どうしてペリドットが?

 いや、ノワールが巻き込まれるよりはずっとマシだけど。


 立花と合流している今の状況は良くない。

 ハヤブサを狙うように敵を誘導している。

 逃げられるか、この状況で?

 どうする。航を迎えに行かなければならない。飛行機の到着まで時間が無い。


 ペリドットがこの国にいると言うことは、あのデータは青龍会に渡ったのだろう。父の元には届いたのか。もしかして、父の遺したデータは、それか?


 暫定的な仮説は立てるべきじゃない。咄嗟の時に出遅れる。

 考えろ。何か出来ることがあるはずだ。




「お前、弟と合流したらどうするつもりだったんだ?」




 立花が言った。

 其処を突かれると、困る。




「お前がデータを持っていれば、弟もいずれ狙われる。フィクサーもテロリストも、ガキが一人でどうにか出来る相手かよ」

「……それは、これから考える」




 立花が小馬鹿にするみたいに笑った。




「今のお前には、土台が無い。立場も、肩書きもな。エンジェル・リードなんて個人投資家じゃ、守れないぜ」

「分かってる。でも、今は弟と会うのが先だ」




 だから、目の前のこの男をどうにかしなければならない。

 立花は敵じゃない。けれど、味方でもない。そういう不確定要素を懐に入れる程、楽観的には考えられない。




「……これは、提案なんだが」




 立花は静かに言った。




「お前の爺さんはフィクサーの一人だが、高齢だ。後継者になっただろう息子が死んで、窮地に立たされている。俺はお前の爺さんに会ったことは無ェが、このまま引退されるのは困る」

「……?」




 立花が何を言いたいのか、よく分からない。

 頭はまだ混乱している。やらなきゃいけないことがある。考えなきゃならない問題がある。


 湊が苛々と言葉の先を待っていると、立花はらすようにゆっくりと言った。




「お前がフィクサーになれ」




 それは、余りにも唐突な提案だった。

 フィクサーとは世界を牛耳る裏の重鎮。政治、経済、軍事、凡ゆる物事に精通した、海千山千の曲者揃いである。


 馬鹿馬鹿しい。何を言っているんだ。

 大体、自分のような何も持っていない子供が血筋を理由にフィクサーになれる筈も無い。


 立花は湊の反応を観察すると、息を吐くように笑った。




「ただの提案さ。だが、もしもお前にその覚悟があるなら、俺も力を貸してやるさ」

「レンジが何をしてくれるって?」

「そうだな。……契約の更新でもしてやるよ」




 契約?

 湊が復唱すると、立花は頷いた。




「その時は、お前自身と契約してやるよ」




 自分が、フィクサーに……?


 いや、そんなの無理だ。

 確かに、そうなれば肩書きも地位も手に入り、弟を守る砦になれる。立花にとってもフィクサーと繋がっているのは都合が良いんだろう。

 だけど、自分はガキだ。両親を殺されて、弟を守る為に精一杯で、目の前のものすら守れていない。




「そういや、笹森一家の若頭が事情聴取で東京に来てるらしいな。航空基地からはそんなに離れてねぇ。連れて行ってやるよ」




 そんな奇跡が、あるのか?

 笹森一家は、今の湊にとって国内最大の後援者である。今の立場は難しいが、必ず盛り返す将来有望株だ。弟を隠すには都合が良い。


 散らばっていた手札が戻って来たみたいだ。

 選択肢が増えるということは、迷うことでもあるけれど、メリットも大きい。




「翔太を呼ぶ。交渉なら、俺がいるより心強いだろ?」

「……なんで」

「あ?」

「なんで、俺なんかに力を貸してくれるの」




 親父が死んだ今、自分はただ暴走しているだけのお荷物、裏切り者だ。それなのに、どうして味方でいてくれるのか。

 立花は笑っていた。




「お前がいつも言ってることだろうか。少しでもマシな未来に賭けるってよ」




 立花はスーツの襟を正すと、軽く屈伸した。




「俺はペリドットと残党狩りをする。お前は翔太と合流して、せいぜい後悔のしない道を選べ」




 また後でな。

 立花はそう言って、きびすを返した。闇の中に消えて行く背中を、湊は呆然と見詰めていた。














 15.トーチカ

 ⑺悪魔のささや












 立花から連絡があった。それを聞いた時、翔太は胸につかえていた重石が取り外されたような安心感に、目の前が明るくなるのを感じた。


 ミナを捕まえたから、迎えに来い。

 俺は残党を始末する。


 立花の言っていたことを伝えようとペリドットを振り返ると、彼は誰かと通話していた。気怠そうな態度で返事をして、彼は通話を切ると同時に舌打ちした。




「ボスからの呼び出しが入った。悪ィが、俺は此処までだ」

「分かった。……ありがとな、ペリドット」

「別にィ? 俺はただアスレチックで遊んだだけだよ」




 ペリドットは笑っていた。


 これは翔太の予想なのだが、ペリドットは公安の手札だ。テロリストを放置するとは考え難い。誰がボスなのか知らないが、もしかするとペリドットも立花と同じようにテロリスト――或いは武装組織の粛清に向かうのかも知れない。


 挨拶も告げず、ペリドットは闇の中に消えて行く。翔太は見送らず、背中を向けて走り出した。


 外はもう暗かった。繁華街の下品な電飾と毒々しい色の看板。気安く声を掛けて来る若い男、下着のような服で誘う売女。海の向こうでは第三次世界大戦の危機が迫っていて、この街でも銃を持った何者かが暴れ回り、下水道には無惨な死体が幾つも転がっている。


 それでも、彼等にとってはそれは遠い世界の話なのだ。

 立花やペリドットのような反社会的な人間達が、この国を守る為に奔走している。ミナのような子供がその身を晒して闘おうとしている。けれど、多くの人はそれを知らない。他人事だと思ってる。


 翔太は街の雑踏を駆け抜けた。

 脳裏に過ぎるのは、ミナと過ごした穏やかで、細やかな小さな幸せの日々だった。


 手渡された焼き芋だとか、ソース塗れのお好み焼きだとか、液状の筑前煮だとか。

 調子外れの鼻唄とか、弟の思い出を語る横顔とか、真っ直ぐ見詰めて来る濃褐色の瞳とか。

 ミナを背負って歩いた夕焼けの道、ドブネズミの墓に祈る背中、海釣りでの弾けるような笑顔。


 思い出す度に、胸の奥が軋むように痛くて、泣きたくて叫び出したくて、心がめちゃくちゃになる。


 翔太は自分の妹を殺した。

 正当防衛だった。だけど、そんなことはどうでも良いことだった。俺は妹が大切だった。小さな手の平も、細い肩も、花が綻ぶような笑顔も、全部。弱さも愚かさも全部抱えて、守ってやりたかった。


 守ってやりたかったんだよ……!


 路地裏に足を踏み入れた瞬間、時間が止まったような気がした。落書きだらけのコンクリートの壁、散乱したゴミ、湿気と腐臭の中、彼は其処に立っていた。


 視線が強烈に吸い寄せられる。目が離せない。

 太陽みたいな存在感で、その少年――蜂谷湊は、凛と佇んでいたのである。


 翔太が呼ぶと、湊は顔を上げた。

 初めて出会った頃、翔太は彼を少女と思い込んだ。だが、今目の前にいるのは歴とした少年である。濃褐色の瞳に青白い鬼火を宿し、口元に微かな笑みを浮かべる。


 湊は、頬を腫らしていた。口の端が切れて血が滲んでいる。

 誰に殴られたのか。――そんなの、一人しかいなかった。




「……巻き込んで、ごめんね」




 馬鹿かよ。

 翔太は、もう一発殴ってやろうかと拳を握った。

 巻き込まれたのではない。自分が首を突っ込んだのだ。

 翔太が謝罪して欲しかったのは、何の相談もせずに消えたことだ。


 いや、もう、謝罪なんてどうでも良い。

 この子が天使でも悪魔でも、ヒーローの息子でも筋金入りのエゴイストでも、何でも良かった。生きている。ただそれだけで、良かった。


 細い双肩を掴むと、湊がびくりと震えた。翔太は構わず、その肩を抱いた。




「無事で、良かった……!」




 生きていて良かった。生きていて良かった。

 翔太が離れると、湊は何かを堪えるみたいな顔で、唇を噛み締めていた。雨に濡れた仔犬みたいだった。




「弟を助けたいんだろ。力になる。何が出来るかは、分かんねぇけど……」




 湊は少しだけ苦笑して、透き通るような眼差しを向けて来た。




「俺の切り札になってよ、翔太」




 それは、聞き間違える余地も無い程に流暢な日本語だった。

 ダイヤモンドみたいに澄んだ瞳には、あの青白い炎は見えなかった。




「俺の名前は、蜂谷湊。湊って、呼んでくれ」




 ミナではなく、湊と。

 殺し屋の事務員でもなく、正体不明の子供でもなく。

 蜂谷湊という一人の等身大の男として。


 込み上げるおかしさを抑え切れなかった。

 出会って半年以上が経った。自己紹介するには余りにも今更だ。だけど、自分達は今この瞬間、初めてスタート地点に立ったのだ。




「……良いぜ」




 翔太が言うと、湊は悪童のように不敵に笑った。

 天使の仮面を脱いだ蜂谷湊は、悪辣で底意地の悪い策略家だった。


 出会った頃に気付くべきだったのだ。

 天使は、見返りを求めない。




「地獄に落ちる準備は出来てる」




 翔太が言うと、湊は静かに、声も無く笑った。

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