⑻他人の覚悟

 ちょっと待っていて、とすっかり慣れた日本語で湊が言った。空は既に暗く、星の見えない夜空は回転灯で赤く染まり、騒がしかった。


 しんと静まり返った路地裏の奥から、キュルキュルと何かの音がする。翔太が振り向くと同時に、闇がぱっと照らされて目が眩んだ。


 拍動に似た排気音が小気味良く響く。目が明暗の変化に慣れて行くと、其処にある一台のバイクに気が付いた。

 シルバーボディのアメリカンバイクは、傷一つ無い新品そのものだった。白いフルフェイスのヘルメットの向こう、シールドを上げた湊の目が笑っている。

 ハンドルを握った湊は、黒いフルフェイスのヘルメットを投げて寄越した。バイクもヘルメットも、新品だった。


 翔太は後部座席にまたがりながら、尋ねた。




「お前、バイクの運転なんて出来たのか」




 湊とバイクの親和性の低さに驚いていると、彼はとんでもない爆弾発言をした。




「初めて運転する」

「何だって?」

「運転したことは無いよ。免許も無い」




 翔太が降りようとすると、湊が言った。




「でも、運転の仕方は知ってる」




 ずっと、側で見て来たから。

 湊は、独り言みたいな小さな声で言った。

 バイクで思い出すのは、湊の弟、航である。彼は初めて乗るバイクでも手足の如く自在に操っていた。




「航の運転を、いつも後ろで見てたんだ」




 だけど、知っていることと運転出来るということは別の話だろう。湊には悪いが、翔太は彼が突出して優れた身体能力を持っているという認識は無かった。


 航くらい体格があったなら、信用もした。

 けれど、湊は違う。筋力も、身体能力も。




「俺は、その時間が何より好きだった」




 サーフィンやバスケをする時よりも、ずっと。

 湊は、そう言った。


 その言葉で、翔太は理解した。

 新品のバイク、二人分のヘルメット。それは、いつか弟が此処に来た時に、二人で走る為だった。

 新品のバイクというものがそれなりの値段であることは知っている。個人投資家である湊からしたら端金かも知れないけれど、これは金銭では買えない彼の願いだった。




「……安全運転で頼むぜ」




 翔太が言うと、湊は頷いたようだった。

 バイクは一度深くエンジンを吹かすと、ゆっくりと動き出した。狭い路地裏から突然現れたアメリカンバイクに、通行人が目を丸くする。湊は全てのしがらみから抜け出すかのようにアクセルを回し、バイクは弾丸のように街を駆け抜けた。


 ガチャガチャとギアが切り替わる。

 航の運転を知っているので、湊の操作は拙く見えた。翔太は細い腰に腕を回しながら、問い掛けずにはいられなかった。




「大丈夫か」




 聞き取り難かったのか、スピードが緩む。

 翔太がもう一度問い掛けると、湊は笑った。




「運転のこと?」

「いや。……親が死んだばかりだろ」




 湊という少年が、家族を何より大切にしていたことは知っていた。それがまさか、遠い海の向こうの爆弾テロで両親揃って亡くすなんて考えもしなかっただろう。それなのに、湊は平気な顔をして、初めて運転するというバイクのハンドルを握っている。




「ずっと、覚悟はしてた。そういう仕事をしている人だったから、生前に親父の遺書も受け取ってた」

「……」

「でも、お母さんが死ぬなんて、考えもしなかったんだ」




 変だろ、と湊は笑ったようだった。




「また会えると思ってた。俺は行って来ますって言った。おかえりって、言ってもらうつもりだった」




 お母さん、と呼ぶ響きは、年相応に幼く、悲しく聞こえた。

 等身大の蜂谷湊という少年が見える。彼には家族がいた。当たり前に愛してくれて、守ってくれて、帰れる場所が。




「たくさん心配掛けた。落ち着いたら、旅行に連れて行ったり、美味しいもの食べさせてあげたり……。たくさん、ありがとうって伝えたかった」




 だから、早く大人になりたかった。

 湊の声は落ち着いていて、感情の機微なんて感じられなかった。怒りも悲しみも憎しみも恨みも無い。けれど、翔太には、それが痛いくらいに分かった。


 大切な人を亡くした時、最初にやって来るのは後悔なのだ。

 あの時、ああしていれば、こうしていれば。自問自答しては罪悪感に押し潰され、息も出来ない。


 大切なものは失くしてから気付くなんて言うけれど、どんなに大切にしていたって、守れないものがこの世にはある。幾ら後悔しても失われた命は戻らないし、世界中の人が祈っても時は戻らない。だから、湊は立ち止まらないし、泣きもしない。


 なんて、強いんだろう。

 なんて、立派なんだろう。

 湊の後悔。最善を尽くしても、最良の結果は得られない。それでも、諦めずに歩き続ける。


 お前はもう、ヒーローだよ。

 翔太の声は、エンジンの唸りに溶けて消えた。













 15.トーチカ

 ⑻他人の覚悟














 渋滞する高速道路を避け、一般道に差し掛かる。車の通りが多かった。バイクは車の隙間を縫うようにすいすいと道を進んで行く。とても初めて運転するとは思えない慣れた手付きだった。


 そういえば、湊と航は双子の兄弟で、幼い頃から殴り合いの喧嘩を繰り返し、バスケットボールの実力では拮抗し、切磋琢磨しながら育ったのだ。その身体能力が平凡なはずもなかった。


 大通りの渋滞を抜けた、その時だった。

 アスファルトを穿うがつ魔弾が前方を遮った。バイクは傾きながら、転倒しないギリギリで体勢を立て直し、一気に加速した。


 銃声が幾つも響き、弾丸の雨が降る。湊は身を低く構え、アクセルを思い切り回した。凄まじい重力に体が後ろに引っ張られる。翔太が必死にしがみ付いていると、銃声は不自然に途切れた。


 湊が、言った。




「最速の名は、伊達じゃなかったね」




 最速のヒットマン、ハヤブサ。

 立花が何処かで援護してくれている。

 腹の底から安堵の息が漏れ、安心感に全身が痺れるようだった。孤軍奮闘でも、四面楚歌でもない。助けてくれる人がいる。それがどれ程、心強いか。




「最短で行く。振り落とされないでね」




 湊はそう言って、ギアを踏み替えた。

 疾風の如く駆け抜けるバイクは、アクション映画のワンシーンのようだった。銀色のバイクが夜の街を切り裂いて行く。それはまるで、朝日のように。


 到着した先は、高層ビルに似た高級ホテルだった。

 ロータリーには制服に身を包んだ従業員がいて、客から鍵を預かると代わりに車庫へ運んで行く。翔太には大凡、縁もないだろう上流階級の宿泊施設だった。


 湊はホテルの手前にあるコインパーキングにバイクを停めると、ヘルメットをサイドミラーに引っ掛けた。翔太がそれに倣ってヘルメットを脱いでいる間、湊は既に歩き出していた。


 回転するドアを潜り抜ける。ロビーは、サッカーでも出来そうなくらい広かった。氷の柱みたいなシャンデリアから光の粒子が降り注ぐ。柔らかそうなソファの置かれた待合室、ピカピカに磨かれた飴色のカウンター。まるで、映画の中みたいだった。ホテルマンは自分達を見ても咎めはせず、案内を申し出た。


 頬を腫らした湊を心配してくれているようだった。

 湊が英語で断ると、それ以上は追求せずに見送ってくれた。豪奢なエレベーターを呼び止め、二人で上のフロアへ移動する。到着したのは最上階、客室は一つしかなかった。他と一線を画す豪華で繊細なデザインが其処此処に施され、まるで夢でも見ているみたいだった。


 湊が呼び鈴を鳴らす。少しして、扉が開かれた。

 其処に立っていたのは如何にも気の強そうな、迫力のある美女だった。きりっとした眉、通った鼻梁、凛とした黒曜石の瞳。既視感を覚える顔立ちだった。翔太が気圧される横で、湊は堂々と舞台役者みたいに名乗った。


 女性は涼やかに目を細めると、中へ促した。




「話は聞いてる。入りなはれ」




 芯のある声だった。

 大阪弁。いや、関西弁か?

 高級ホテルの最上階を貸し切る程の財力と権力を持つ関西人。湊と関係があるとすれば、それはもう、一人しか思い当たらなかった。


 先導する女性は、ぴんと背筋を伸ばし、まるで百合の花のように歩いて行く。暖色の光に包まれる廊下を抜けると、途端、視界いっぱいに首都の煌びやかな夜景が広がった。

 街の光は宝石のように輝いている。息を呑む程の美しい光景だった。壁一面の窓を背中に、一人の男が立っていた。


 一眼で高級な品と分かるスーツ、浅黒い肌、切れ長な一重瞼に、漆黒の瞳。関西の支配者、極道一家の若頭、笹森春助が其処にいた。




「男前になったなァ」




 笹森は湊を見て軽口を叩くと、ソファへ促した。

 いや、促すなんて穏やかな態度じゃなかった。笹森から放たれるプレッシャーは、銃器を向けて命令されているような凄みがあった。


 湊がソファに座る。翔太は隣には座らず、退路を確保するつもりで側に立った。案内してくれた女性が優雅な動作で笹森の隣に座る。




「今日は何の用や?」




 笹森は、此方の出方を伺うみたいに目をすがめた。

 友好的な態度には、見えなかった。湊はやや身を乗り出すと、膝の上で両手を組んだ。




「力を貸して欲しい」

「ええで」




 拍子抜けする程、あっさりと笹森は言った。




「自分には借りがある。どないしたい?」




 笹森は、味方なのだろうか。

 翔太には、分からなくなってしまった。彼は湊の持つ国内最大のコネクションの筈だった。だけど、何故だろう。翔太には、目の前の男がとても恐ろしく見えた。




「俺の弟を、守って欲しい」




 湊が言った。




「絶対に裏切らない砦が必要だ。……俺は側にいられないから」




 どういう意味だ。

 湊はこれから、窮地にある弟を迎えに行くのだ。側で守れば良い。一緒にいれば良い。お前が守り、助けてやれば。





「俺にはやらなきゃいけないことがある」

「……それは、自分が一人でやらなきゃあかんことか?」

「そうだよ」




 湊は肯定した。




「弟には、日の当たる道を歩いて欲しい」




 例え、側にいられなくても。

 それは、泣きたくなる程の悲壮な覚悟だった。


 双子の兄弟というものが、どういうものなのか翔太には分からない。けれど、生まれる前から一緒にいて、衝突を繰り返しながら共に育ち、海の向こうにいても互いを気に掛ける。両親を理不尽に奪われた直後であるにも関わらず、彼等が別の道を歩かなければいけないなんて、翔太には想像も出来なかった。




「自分が犠牲になって、弟はほんまに幸せになれるんか?」




 笹森の言葉は、尤もだった。

 湊がこれから何をしようとしているのか知らないが、自分が犠牲になって航が納得すると思っているのならば、それは弟を見縊みくびっている。双子の兄弟だ。兄の湊が、そんなこと分からないはずなかった。




「航しか、もういないんだよ」




 湊は、笑ったようだった。

 組んだ両手に力が籠るのが見える。




「弟が大切だ。俺は何に替えても守る」

「……あのなァ」




 それまで黙っていた女が、呆れ切ったみたいに腕を組んだ。




「命を懸けるなんざ誰にだって出来るんやで。蜂谷家の男はいつもそうや。好き勝手やって、最後は自分が犠牲になれば丸う収まる思てる。うちはそういうところが心底好かん」




 女は痛烈に言い放つと、まるで雌ライオンのような眼で湊を睨んだ。

 何者なんだ。まさか、愛人なんて生優しいものじゃないだろう。笹森そっくりの眼光と威圧感を持つこの女は、一体。女は身を乗り出し、指でも突き付けそうな勢いで捲し立てた。




「死んで現実変えるより、生きて未来を変えんねや。そうせえへんと、アンタもその弟も同じことの繰り返しや」




 おかん、と笹森が制する。

 頬を叩かれたかのような衝撃だった。この気の強い迫力のある美女が、笹森春助の母親。本物の極道の女。




「弟が大切や思うなら、生きて守り続けるくらいの甲斐性を見せな。清濁合わせ飲む覚悟も無う、兄を名乗んなや」




 その女――笹森鏡花の持つ威圧感は、生理的な恐怖を齎した。反論する余地も、唾を呑み下す余裕も無い。




「自分が死んだら、弟は独りぼっちやで。それでも、ええんか」




 けれど、湊は微動だにしなかった。

 兄を思う弟の気持ちなんて、湊には分からないだろう。

 だけど、たった一人の弟を守ろうとする兄の覚悟だって、彼女には分からない。




「それでも良い」




 湊の瞳は、残酷に美しく澄んでいた。其処に他人が干渉する余地なんてものは、塵一つ存在していない。




「生きていてくれたら、それだけで良いんだよ」




 笹森も、鏡花も、静かだった。

 翔太は、いつか立花に言われたことを思い出していた。

 立花の正体を知った日、誰にも口外しないから助けてくれと命乞いをした。その時に、立花が言ったのだ。――俺にはお前の覚悟を測れないと。


 覚悟とか信念とか、言葉にするのは容易い。けれど、目に見えないものを他人に測ることは出来ないのだ。そして、其処に貴賎や善悪なんてものは無く、ただ結果だけが残される。


 弟が生きていればそれだけで良いと、湊は欲の無いことを言う。彼女は、湊のそういう諦念を責めているのだろう。だが、現状は既にそんな次元を超えているのだ。


 家族揃って健やかに過ごすなんて、もう叶わない。

 もう、永遠に。




「同じ道を歩けなくても、同じ夢を見ることは出来る」




 湊は柔らかに微笑んでいた。鏡花は眦を釣り上げる。湊のそういう欲の無い所が、諦めの良さが、気に食わないのだろう。


 湊の不思議な所なのだが、口は達者で頭も回る癖に、余り相手と言い争わないのだ。気性が穏やかなのだろうけれど、相手の言葉に反応せず、柳に風と言った調子で静かに受け流してしまう。


 だから、弟と喧嘩になるんだろうけれど。

 翔太は、そんなことを思った。


 肌がひり付くような緊張感の中、笹森は頭を掻いた。




「もうええやろ、おかん。こいつは、現実的な夢しか見ィへん。おもんない男や。……せやけど、こいつは俺の家族を守ってくれた。今度は俺の番や」




 笹森は立ち上がると、サイドチェストから木箱を抱えて戻って来た。中に入っていたのは極めて一般的な救急用品だった。




「ヤクザが義理人情失くしたら、お終いや」




 鏡花は深く溜息を吐くと、木箱の中から湿布を取り出した。猫のようなしなやかな動作で湊の側に歩み寄ると、鏡花は切れた口の端にガーゼを貼った。




「後悔は、無いんやな?」




 念を押すように鏡花が問い掛けると、湊はそっと微笑んだ。




「俺はいつも、少しでもマシな未来に賭ける」




 最大の幸福ではなく、最小の不幸を。

 それは何だか湊らしくて、悲しくて、温かかった。




「……もうええわ」




 処置を終えると、鏡花は力無く言った。




「きっちりケジメを付けて、出来るとこまでやってみなはれ。せやけど、帰る所だけは忘れたらあかんで」




 鏡花が言うと、湊は控えめに礼をした。

 湊はすぐさま立ち上がり、背中を向けて歩き出していた。翔太には他人の嘘が分からない。だから、彼等が本当の味方であるのかも判別出来ない。湊が背中を向けた先で、銃口を構えて来ても守れるように、最後まで警戒は解かなかった。


 部屋を出る時、湊が独り言みたいな小さな掠れた声で何かを言った。聞き取れない程の声量だったにも関わらず、翔太には彼が何を言ったのか分かった。

 そして、その返事が永遠に無いことも、翔太は知っていた。

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