⑹怠惰な亀
「Put an end to a matter ――ケリをつける」
腐臭の漂う下水道の底、エメラルドの瞳が煌々と輝く。
国家公認の殺し屋、ペリドットは、事務所に残されたメッセージを簡単に和訳した。
ケリをつけるとは、どういうことか。
翔太は想像する。両親の死を知ったミナは、どんな気持ちでそれを書き残したか。
下水道内部は死体が幾つも転がっていた。
切断された胴体、零れ出る臓物、真っ黒な血が生活排水に流れ込み、酷い腐臭に目眩がする。頭を割られた死体、ピンク色の液体に頭蓋骨の白さが際立つ。翔太は目を背けた。
ペリドットは検分でもするみたいに、死体の側に膝を突いた。
「こいつ等、本当にテロリストか?」
ペリドットは死体を指差した。
血塗れの死体は奥へと点在している。ペリドットが指差した死体は、立花と来た時とは異なっていた。
腐敗状態ではない。零れ落ちた臓物が、ぐちゃぐちゃに踏み潰されていたのである。観察するには余りにもグロテスクだが、その足跡は大人で、恐らくブーツのようなものを履いた複数人と思われる。
「宗教を謳うテロリストは、仲間の死体を踏まねぇ。中東の紛争地から遥々やって来たにしては、武器も新しい。こいつ等、軍人じゃねぇか?」
軍人?
テロリストと軍人、何が違うというのか。
翔太にとっては大した違いではなかった。武装した敵勢力だ。それが仲間の遺体を踏むような愚か者でも、子供の命を狙って押し掛ける悪魔でも、同じことだ。
ペリドットは納得し兼ねるとばかりに眉根を寄せたまま、下水道構内を眺めていた。
「地図を見せろ」
翔太はそれに従い、携帯電話を見せた。
立花から預かったウィローの地図である。下水道はまるで巨大な木の根のように地中に張り巡らされていた。小さな画面に映し出される三次元の地図は、枝分かれする細かな水路や、排水の合流地点、大きさや深さが詳細に記されていた。
ドブネズミの足跡を辿るだけでは、到底分からないだろう。
翔太が探索した場所もあるけれど、恐らく、このデータはミナ自身が収集したのだ。言葉も分からず、味方もおらず、たった一人でこの地の底を彷徨い歩いた。
いつか来る嵐に備えて、たった一人で……。
ペリドットは興味深くそれを見ていた。
すごいな、と零れた言葉に、翔太は胸が軋むように痛んだ。
そうだよ、すごいんだよ。親と離れて、弟にも会わず、ミナはたった一人でこれを作り上げたんだ。
「ヒーローの息子は、アンダーウェブで宣戦布告したんだったな。じゃあ、地下深くの袋小路にはいない」
ペリドットは断言した。
ネット回線が繋がらない地下深くは、自身の逃げ道を失う恐れがある。
地図を指先で辿りながら、ペリドットは情報を精査する。味方の内は、本当に頼もしい存在である。
「ちゃちな罠だな。子供騙しみてぇだ」
「立花は、ミナは殺す気でやってるって言ってたぞ」
「へぇ……」
翔太の忠告も構わず、ペリドットは無用心に足を踏み出した。その瞬間、空気を切り裂く音がした。ペリドットは虫を追い払うみたいにそれを掴み取った。
その手に握られていたのは、ボウガンの矢だった。
何処かで金属の擦れ合う音がする。翔太が思わず身を引き掛けたその瞬間、ペリドットが叫んだ。
「動くな!!」
翔太の背後に鉄板が落ちて来たのは、殆ど同時だった。
錆びた鉄板がギロチンのように落下し、コンクリートを抉って音も無く倒れる。喉の奥が鳴った。一歩でも退がっていたら、脳天をカチ割られるところだった。
「侵入者を阻む為じゃなく、逃さない為の罠か……」
ペリドットは掴んでいた矢を片手で折ると、足元に捨て去った。
ちゃりん、と金属の音がした。
矢尻には、錆びた釘が付けられていた。獲物を貫く為ではなく、殺傷する為に。
「まあ、良いさ。さっさと姫を捕まえるか。ハヤブサが蜂の巣になる前にな」
そう言って、ペリドットは笑った。
今頃、立花は何をしているだろうか。
殺傷性の高い罠だらけの下水道内で、翔太は地上に思いを馳せた。立花は地上に残り、廃車寸前のBMWで敵勢力の陽動をしている。それは、ミナの筋書きに乗ったと言うことだった。
テロリストの襲撃――今となっては本当にテロリストなのかも怪しいが、それを躱しながら時間を稼いでくれている。翔太はペリドットと共に地下に身を潜めるミナを捕まえる。
ミナを餌にして戦争を起こしたいテロリスト。
弟を助け出したいミナ。
戦争を避けたい穏健派フィクサー。
それぞれの策略が絡み合って、現状は兎に角ややこしい。特に、手段を選ばないミナの計略が身動きを取れなくさせている。
ペリドットは、準備運動みたいに屈伸をした。
軽い柔軟をして、ペリドットは翔太に振り向いた。いつの間に取り出したのか、その手には小ぶりのナイフが握られている。
「しっかり付いて来いよ」
そう言って笑ったかと思うと、ペリドットはクラウチングスタートみたいに身を低く構えた。そして、次の瞬間、地響きのような低い音が響き、ペリドットの姿は遥か前方に飛んで行った。
ボウガンの矢が、錆びた鉄板が雨のように降り注ぐ。ペリドットはそれを紙一重で躱し、或いは叩き折り、蜘蛛の巣のように張り巡らされたピアノ線を踊るように飛び越えて行く。
目で追うことは出来なかった。罠の作動する音を頼りに追い掛けるが、翔太はペリドットが躱した悍しい罠の数々を一つずつ乗り越えなければならなかった。
進む程に、湿気が満ちて行く。
ぐちゃぐちゃに踏み付けられた死体が、無念だと此方を見て訴えている。両足は泥沼の中にあるみたいに重かった。疲労の為ではない。臓物が、血液が、脂が、泥のように纏わり付いている。
時間経過も、感覚も遠かった。
闇の向こうでペリドットが何をしているのか分からないが、追い付けるはずも無かった。ペリドットは本物の化物なのだ。立花が超人的な技術を持っているのならば、ペリドットの身体能力はもう人間の領分を超えている。
或る階層に行き当たった時、翔太は頭が割れそうな痛みに襲われた。少し先でペリドットが見える。耳の奥を貫くような高音が何処かから絶えず聞こえるのだ。視界がぐにゃぐにゃと歪む。
それが超音波の類だと気付いた時には、ペリドットが天井に向けて発砲していた。設置されていたのは小さなスピーカーだった。スピーカーが落下して壊れると、頭痛は波が引くように鎮まっていた。
ミナは脳科学の研究者だった。
脳波を乱す超音波くらい、作れるだろう。
「クソガキめ……」
ペリドットが悪態吐いた。
強烈な不協和音の鳴り響く中、翔太は仄明るい回廊に差し掛かる。裸電球の吊り下げられた下水道は、何処かで水の落ちる音がした。息苦しい程の腐臭と湿気、血の臭い。閉塞感で目が回る。
ゲリラ的な罠と脳を揺らす超音波。
此処はまさに、ミナという少年が作り上げた要塞である。
地図を見せろ、とペリドットが言う。
野生動物のような身体能力を持ちながら、用心深い男である。彼を公安の切り札にスカウトした者は、大当たりを引いたのだろう。
ペリドットは超音波の後遺症か、頭痛を堪えるみたいに
「クソガキはもう逃げた」
ペリドットが地下通路の地図を指差す。
地底深くに続く下水道は、無数に枝分かれしている。地下に続く道はあるが、どれも行き止まりである。
袋小路には逃げ込まないだろうと言うのが、ペリドットの見解だった。翔太は虱潰しに探しても良かったが、その先で誘導された敵勢力に遭遇する可能性があるとペリドットが言った。
しかし、そもそも。
そもそも、敵は一体、何なんだ?
宗教家でもない。中東のテロリストでもない。公安でもなければ、SLCでもない。訓練を受けた武装組織、玄人。
翔太が立ち止まって考え込んでいる間に、ペリドットは進み始めていた。横っ腹を狙うように放たれたボウガンの矢を素手で掴むと、ペリドットは退屈そうに投げ捨てた。
「……なあ、非人道兵器って知ってるか?」
ペリドットは壁に向けて発砲した。其処にはピアノ線を繋ぐ装置があった。一つ破壊されると連鎖的に次の罠が作動する。何処からか飛んで来た刃を避け、ペリドットは足を止めた。
「毒ガスとか、ナパーム弾とか、苦痛を与える為に生み出された兵器だ。戦争にも法があって、殺すならなるべく苦痛を与えず殺せって言うんだ」
「……なんだか、おかしな話だな」
戦争なんて無ければ良いと思う。誰も死なずに済めば良い。
けれど、この世界にはやはり戦争が必要で、殺し合いにも約束がある。
ペリドットは足元に落ちた刃を見詰めていた。
銀色に光る薄刃は、鋭利に光っている。カッターナイフの刃だった。コケ脅しみたいな罠だ。
そう思った時、翔太は理解した。
幾人も殺害した、この下水道に張り巡らせられた数々の罠。本当に殺す気だったなら、手段を選ぶ必要は無かったのだ。
ミナは殺す気でやっている。
立花はそう言っていた。事実、何人も死んでいる。
だけど、この罠はどれもカウンタートラップなのだ。其処に込められた意味は、――誰も来るな。
誰も巻き込みたくない。殺したくない。
だけど、殺意を持って追って来るならば、容赦はしない。
それは、謂わばミナの警告なのだ。
「仕掛けられている罠の精度は高いが、俺には殺意ってもんが余り感じられねェ。テメェは既に逃げてんのに、毒ガスやら爆薬やら使って来ないのが、妙だろ」
それが甘いと思うけどな。
ペリドットはそう言って、また歩き出した。
「俺にはな、これはただの時間稼ぎに見える」
「時間稼ぎ?」
ペリドットは頷いた。その足は下水道の出口に向かって歩き出していた。
15.トーチカ
⑹
他人と関わるのは、とても面倒だ。
下らないことを延々と喋り続けるし、何も無いところで勝手に
湊には、それがとても
彼等の苦悩や辛苦が、分からなかった。ゴールは目の前にあるのに、足を踏み出すかどうかをいつまでも悩んでいる。彼等の会話は非生産的で退屈だった。
だから、湊はいつも水槽の中を眺めているような気分だった。彼等は微温湯に棲まう
本当に、気持ちの悪い奴等だ。
自分が優れているだなんて
怠惰な亀が、大嫌いだ。
虫唾が走る。濡れ手で
下水道に仕掛けた罠は、作戦の一つだった。
殺すつもりは無かった。ただ、死んでも良いと思った。
死んだ奴等が馬鹿だったのだ。子供騙しみたいな幼稚な罠に掛かって勝手に死んで、最後は下水道でネズミに食われて終わりだ。
「つまんないんだよ」
胸の内に吐き捨てたはずの言葉は、声になって溢れていた。
予め用意していた下水道の出口を通り、コインロッカーに隠していた服に着替える。人混みを歩くには服が臭かった。
なるべく平均的な服装、眼鏡を掛ける。黒いキャップを深く被り、駅の雑踏に紛れる。公共機関は死んでいる。道路は渋滞。緊急車両のサイレンが鳴り響き、駅前の大型ディスプレイには父の死んだ爆弾テロが繰り返し報道されていた。
父が死んだと聞いた時、その時が来たのだと思った。
自分の父は、大いなる目的の為に無残に死ぬだろう。生前に遺書は受け取っていた。一度離れたら、また会えるとは限らない。そう知っていた。――だけど。
お母さん。
気丈な母だった。優しい人だった。
家を空けがちな父に代わり、
いつも味方でいてくれた。
抱き締めてくれた。
叱ってくれた。
褒めてくれた。
大切にして、守ってくれた。
不思議だねぇ。
湊は空を見上げた。母国に比べて狭い空は、茜色に染まっている。東の空に入道雲が見える。嵐が来るかも知れない。
唇を噛み締める。息を止めて、感情の波が去るのを待った。
湊と
でも、湊は早く大人になりたかった。
父の助けをしたかったし、母を守りたかった。早く大人になって、お金を稼いで、旅行に連れて行ったり、お酒を飲んだりして、ありがとうって、伝えたかったんだ。
もう、叶わない。
手を握ることも、抱き締めることも、母の料理を食べることも、ありがとうと伝えることも出来ない。
不思議だねぇ。
また会えると、思っていたんだ。自分は行って来ますと言った。母はおかえりと言ってくれると信じて、疑わなかった。
人はいつか死ぬだなんて分かっていたはずなのに、大切な人は今日も明日も生きているような気がする。
キャップを被り直し、湊は歩き出した。
電車が無理ならば、路上駐車の車でも、歩いても良い。進み続けよう。立ち止まらない限り、ゴールは遠去かりはしない。
腕時計を見ると、午後六時を過ぎていた。
タイムリミットまであと少し。湊は駅前の喧騒を避け、路地裏へ足を踏み入れた。
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