⑸追い風
端的に言うと――、彼等の目的とは弟の保護である。
爆弾テロでミナの両親が死んだ時、双子の弟は生き残った。
だが、その生存が敵に知れれば命を狙われる。其処でFBIにいる彼等の後見人は、安否不明として世間に公表した。
海の向こうは今、第三次世界大戦の瀬戸際にある。国家間の緊張は一般人には計り知れない程に切迫しており、ヒーローの息子の生存は爆弾の導火線であった。
弟を戦火の届かない場所に逃がし、保護する必要があった。それは国家を仲介しないアンダーグラウンドにいるミナの役目だった。
ミナには協力者がいた。
双子の後見人、FBI捜査官の
神木葵は立花に連絡を取り、半端な情報だけを与え、ミナを探すように嗾けた。同時にミナはアンダーウェブでハヤブサの存在を匂わせ、国内の敵を立花の元に誘き寄せる。
テロリストの一端である武装勢力が立花の元に集っている間に、弟を日本に密航させる。青龍会の東北での武器密売もカモフラージュの一つで、公安の目を眩ませる為だった。
弟をどうやって密航させる手筈になっているのかは分からないが、立花が神木葵から聞き出したのは、そういう卑怯で残酷な裏切り行為だった。
盤上をぐちゃぐちゃに掻き回して、最後に帳尻を合わせる。
ミナの常套手段。用意周到な彼にしてはリスクが高いが、両親が死に、テロリストから命を狙われながら、生き残った弟を助ける為の最短の方法を選ばなければならなかった。四の五の言っている時間は、無かったのだろう。
両親の敵討ちも、使命感も、初めからどうでも良いことだった。彼等は弟を助けたかった。その為なら、何を犠牲にしても構わなかった。
立花は都心に向かって車を走らせていた。
車内のラジオは、州立記念公園で起きた爆弾テロや、市街地での銃撃戦を繰り返し報道していた。現実感を失わせる程に事態は深刻で、重大な局面にあった。
ミナが何処にいるのかは、未だに分からない。
情報を整理する中で、翔太はミナが以前言っていたことを思い出した。ミア・ハミルトンの護衛任務の時のことだった。
防衛戦なら、知り尽くした場所が良い。
もしかして、ミナは初めからとても近くにいたのではないか?
ミナが最も知り尽くした場所、防衛戦に向いた
「ウィローの地図……」
ミナが可愛がっていたドブネズミ、ウィロー。
発信器を付けられたドブネズミは下水道を縦横無尽に駆け回り、ミナはそのデータを元に三次元的な地図を作っていた。
この国に来た時から、敵の襲撃を想定していたのだろうか。身を隠して敵を迎え撃つ為のトーチカ。多岐に渡るコネクションもその一つだったのかも知れない。
リアガラスの全壊した車内は、唸るような風が吹き込んでいた。真夜中の高速道路は、殆ど貸し切り状態だ。
時速百キロで走る車の中、立花はハンドルを握ったまま、静かだった。
帰路を辿るように高速道路を降りて、車は事務所の方面に向かっていた。途中で脇道に入り、立花は暗く淀んだ街の路地裏に車を停めた。
ウィローの地図は、ミナと立花で共有されている。路地裏のマンホールは持ち上げると簡単に開いた。其処は予め用意された入口の一つだった。
垂直に続く
死体が転がっていた。
一人二人じゃない。武装した何人もの男達が無残に死んでいる。これを地獄と呼ばずに、何と表現したら良いのか。
翔太が足を踏み出そうとした時、遠くで風を切る音がした。立花に首根っこを掴まれ、翔太は盛大に尻餅を着いた。その頭上をボウガンの矢が駆け抜け、コンクリートを抉った。
「地獄絵図だな……」
薄暗い下水道を見詰め、立花は苦く吐き捨てた。
立花がライターの火を点けると、闇の向こうに透明な糸が張り巡らされているのが見えた。ピアノ線だ。
どれだけ磨けばこうなるのか、ピアノ線は鋭利な凶器と化し、既に血に濡れていた。足下には胴体の切断された死体が転がり、臓物が下水の中で泳いでいる。
目を凝らすと、少し先には錆びた鉄板がぶら下がっているのが見えた。銃撃を防ぐ為だろう。しかし、それは切れ味の悪いギロチンの役割も果たし、敵勢力の脳天を真っ直ぐに叩き切っている。
脅迫のつもりなら、こうはならない。
磨き込まれたピアノ線、地を穿つ錆びた杭、ワイヤーで吊られた鉄板、何処からか飛び出すボウガンの矢。其処には、明確で濃厚な殺意がある。
怖くないと言えば、嘘になる。
だけど、翔太はそれ以上に悲しかった。
誰にも死んで欲しくない。助けられるなら皆を助けたいと願った18歳の子供が、今は残酷な罠を仕掛け、人を殺している。
下水道は腐臭と血の臭いで充満している。この何処かにミナは身を隠しているのだろう。弟を助ける為、
その覚悟を思うと、涙が出た。
両親が死に、弟は敵地に独りきり。武装組織を敵に回し、自身は囮となって闇に身を隠した。
脳裏に過ぎるのは、ミナの笑顔だった。
立花が前に言っていた。彼を天使のままにしておくのが、自分の仕事だと。
では、今はどうなのだろう。
今のミナは、天使か、それとも。
「……一度、
立花が言った。
「ミナは殺す気でやってる。俺には、これを攻略してる時間が無い」
今の立花は、テロリストの矛先となっている。
それがミナのいる下水道にいると知れたら、向こうは毒ガスや爆弾のような飽和攻撃で一切合切を殺し尽くすだろう。
「この状況を打開するには、手札が要る」
「手札……」
立花は頷いた。
「それも飛び切り優秀で、今回の件に無関係で、失敗のリスクの低い手札がな」
「……ノワールか?」
立花は眉根を少し寄せた。
「俺はあいつ等がどういう関係なのかは、よく知らねぇ。……だけど、そいつが此処で死んだら、ミナはもう戻れないんだろ?」
翔太は頬を拭った。
立花は、ミナを切り捨てるつもりは無い。帰って来て欲しいと思っている。そうでなければ、こんな言葉は出ない。
立花とミナは、不思議な関係である。
契約と言う名の雇用関係にありながら、恫喝し、拘束し、利用し、それでも生存を願っている。
ミナ、お前、見誤ってないか?
立花はちゃんと、お前の味方だったぞ。
遣り方は乱暴だし、覚悟を試す為に窮地を静観することもある。だけど、お前のこと、ちゃんと守ってくれてたぞ。
相手を全肯定することが信頼じゃない。
それはさ、道を間違えた時に殴ってでも引き戻してくれるような、本当の意味での信頼のことだったんじゃねぇの?
お前が言ったんだろ。
一人で考え過ぎると、時々道を間違うって……。
二人で下水道を少しだけ歩いた。
前に進む為ではなく、ミナの覚悟を確かめる為に。
頭上から落下する鉄の杭、錆びた縫針、不規則に張り巡らされたピアノ線。これ以上の進行は不可能だと判断し、二人は道を引き返した。
下水道を出ると、もう朝だった。
朝陽が目に滲みた。翔太は疲労に重くなる瞼をどうにか持ち上げ、立花の車に向かった。
危険を承知で事務所に戻ったが、意外にも其処にテロリストの手は及んでいなかった。もしかすると、ミナがそのように情報を操作したのかも知れない。
ソファに座ると、強烈な睡魔に襲われた。そのまま眠ってしまいたかった。朝起きたら、また何でもない一日が始まって、ミナが笑って「おはよう」と言ってくれるような、そんな有り得ない想像を。
扉が開いたのは、その時だった。
15.トーチカ
⑸追い風
「よう、
輝くような見事な金髪と、エメラルドの瞳。
派手なスーツに身を包んだ痩身の男が、扉に寄り掛かるようにして立っていた。
翔太も立花も、相手をする気力は無かった。
突然現れたペリドットに、殺気や敵意は微塵も感じられなかった。
「ミナなら、いねぇぞ」
定位置の回転椅子に座ったまま、立花は無気力に言った。
ペリドットは虚を突かれたみたいに目を丸めて、張り合いが無いと肩を落とした。
「何だよ、辛気臭ぇ顔しやがって。姫は何処に行ったんだ?」
「……」
翔太も立花も、相手をするのが面倒だった。
ただでさえ状況はややこしいのだ。弟の密航がどうなっているのかも分からない。翔太は頭を抱え、そして、閃いた。
飛び切り優秀で、今回の件に無関係で、失敗のリスクの低いカード。ミナの想定を超えて来るイレギュラー。
立花と目が合った。
考えることは、同じだったらしい。
立花はペリドットの前に進み出ると、金色の瞳でじっと見据えた。
「ペリドット、お前に頼みがある」
エメラルドの瞳が妖しく光る。
ペリドットは胡散臭い笑みを浮かべていた。
「今、この国で何が起きてるか知っているな?」
「……さァ? 俺ァ最近まで中国にいたからな、国内の情報には
一筋縄ではいかない相手だ。
立花は凄腕の殺し屋だが、取引や交渉に向かない男である。これまで窓口を務めていたミナがいないのは、大きな痛手だった。
立花は眉間に皺を寄せ、舌打ちを漏らした。対照的にペリドットは不敵に笑っている。
翔太は他人の嘘が見抜ける訳ではないが、ペリドットがしらばっくれていることは分かった。
ミナの代わりは出来なくても。
翔太は口を挟んだ。
「つまんねぇ前置きは止めようぜ」
ペリドットはわざとらしく、片眉を跳ねさせた。
この男は国家公認の殺し屋である。本当に中国にいたのかは知らないが、国内の状況を全く知らないなんてことは無いだろう。
しかも、ペリドットはミナの正体を知っている。SLCのことも、ヒーローの息子であることも、分かっている。だからこそ、彼は此処に来た。
ペリドットにとってミナは、まだ有効なカードなのだ。見殺しにはしない。
「楽しいアスレチックがあるんだよ。俺達はそいつを攻略したい」
掌に汗が滲む。翔太はそっと拳を握った。
「ゴールにいるのは、今この世界で最も価値のあるカードだ。早い者勝ちさ。美味い話だろ?」
「じゃあ、俺が好きにしても良い訳だ?」
「ああ。アンタは、ちゃんと分かってるだろ? そのカードの使い方も、自分が失敗したらどうなるのか、次は誰の番が来るのかも」
「……」
エメラルドの瞳に、鋭利な光が宿る。
絶対的な強者、格上の男と対峙して、翔太は生きた心地がしなかった。ミナもいつもこんな気持ちだったのだろうか。
ペリドットは笑顔の仮面を剥ぎ取り、不愉快そうに言った。
「
「……」
「あいつの目的は何だ。安い餌に食い付く程、飢えちゃいねぇよ。俺を使いたいなら、それに見合った対価を寄越せ」
ペリドットを動かせるだけの対価とは、一体何だ。
金か、地位か、情報か。自分に払えるものは、何だ。
翔太は諦念を噛み締めながら、言った。
「……弟だよ」
ペリドットは目を
「弟がいたのか?」
知らなかったのか?
もしかして、今のはもっと後で切るべきカードだったのか?
翔太は
「……なるほどね。じゃあ、青龍会の武器密売が公安を騒がせてんのも、テロリストがハヤブサを追ってんのも、陽動か」
ペリドットは腕を組み、独り言みたいに零した。
「ああ、通りで……。だから、あの時……」
一人で納得したみたいに、ペリドットは
顔を上げた時、ペリドットはとても穏やかだった。それはまるで、散らばった点が糸で繋がったみたいな、雨上がりの蒼穹のような何処かさっぱりとした顔付きだった。
そして、ペリドットは翔太を見遣った。エメラルドの瞳の輝きは、手を伸ばしても届かない星の
「番犬、お前の話に乗るぜ。案内しな」
「……」
「殺しやしねぇさ。俺だって、あいつが死ぬのは困るんだ」
協力とは程遠い。利害の一致による一時的な休戦である。
だが、翔太はまるで百の軍勢を得たかのような心強さを感じた。立花が強行突破するより、ノワールを巻き込むより、ずっと良い。
だが、立花は眉根を寄せたままだった。
「何故だ?」
どうして、ペリドットが力を貸すのか。
どうして、ミナの思考を読めるのか。
立花には、きっと分からない。
ペリドットは微かに笑った。
「お前、兄弟はいるか?」
「いや」
「じゃあ、お前には分かんねぇだろうなあ。……弟を持った兄の気持ちなんて、お前には分からねぇさ」
立花は納得していない。だが、翔太には、分かる。
ペリドットも、ミナも弟を持った兄なのだ。彼等はもしかすると相似形、有り得た未来の形なのかも知れない。
ペリドットは笑っていた。
新しい玩具を見付けたみたいな、無邪気な笑顔だった。
「さあ、行こうぜ。手遅れになる前に、そのアスレチックとやらを攻略してやる」
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