⑵嵐の前

 大切なものは失くしてから気付く。

 悲劇に遭遇した人は、しばしばそんな風に表現をする。


 だが、それは何の前触れも無く突然に現れるのではない。

 虫の知らせ、第六感、予兆。本当の悲劇には何かしらの兆候があり、注意深く生きていればそれを察知することも、回避することも不可能ではない。

 そう、思っていた。


 けれど、俺は知っていたはずだったんだ。

 当たり前の毎日なんてものは無く、刻一刻と状況は変化する。それが兆候だと気付いた時には、既に嵐の中にいる。予期して防げる程度のものを、悲劇とは呼ばないのだ。


 本当の悲劇とは、自然災害のように当たり前の顔をして現れ、抗う余地も無く全てを呑み込んで行く。


 そういうものを、人は運命と呼ぶのかも知れない。















 15.トーチカ

 ⑵嵐の前













 ノワールの家に遊びに行っていたミナを迎えに行って、立花の作った冷やし中華を食べた。事務所でテレビを見て、午後九時になるとミナは欠伸あくびをして、パソコンを抱えて三階に消えた。そのタイミングで立花の携帯電話が鳴って、舌打ちを漏らして事務所を出て行った。


 テレビを見ている内に睡魔に襲われて、ソファで眠っていた。気付くと朝だった。白い日差しに包まれた事務所で、翔太は電源の切られたテレビを見た。肩に紺色のブランケットが掛けられていた。


 ミナだろうか。

 コーヒーテーブルに、一枚の書き置きがあった。

 メモ用紙を千切ったような紙に、英語がボールペンで走り書きされている。


 ミナの手書きの英語を見るのは、初めてだった。真似しやすそうな癖の無い綺麗な文字は、何処となく無機質で、温度を感じさせない。翔太には分からなかったが、性格に見合わず、端正な字を書くのだな、と思った。


 事務所の扉が凄まじい音と共に弾け飛んだのは、その時だった。

 蝶番ちょうつがいが吹っ飛んで、扉が音を立てて倒れる。硝子の飛び散る音が悲鳴のように響いた。

 立花が立っていた。見たこともないような鬼気迫る顔付きで、金色の双眸には苛烈な火花が散っていた。


 どうしたんだ。

 翔太の言葉は届かなかった。立花は無言で距離を詰めると、コーヒーテーブルの上に置かれた紙切れを引っ掴み、親の仇でも見るみたいに獰猛な目付きで睨んだ。




「――クソガキがッ!!」




 コーヒーテーブルに拳が叩き付けられ、立花の罵声が朝の静けさに響き渡った。威圧感と怒声に部屋全体がビリビリと震えるようだった。


 立花は書き置きを握り潰すと翔太を睨み、まるで拷問官のような恫喝的な声を出した。




「ミナは何処に行った」




 自分が責められている訳ではないと分かっていても、指先から血の気が引いて行く。ゴムの上に立っているみたいだった。


 立花は忌々しげに顔を歪めると、テレビを点けた。


 映し出されたのは、防犯カメラ映像だった。

 低画質の青っぽい映像の中、何かのイベントが行われている。立ち並ぶ出店、大勢の人。年齢や人種を問わない沢山の人が、四角いコートを見て拳を握る。


 バスケットボールコート。

 理解すると同時に、大地震に見舞われたかのように世界が揺れた。画面の向こう、突然右側から真っ黒な煙が吹き出して、津波のように人を呑み込んで行った。


 音声は無いのに、爆発音や悲鳴が聞こえるようだった。

 爆発は木々を薙ぎ倒し、フェンスを歪め、ゴールポストが飴細工みたいに歪んだ。逃げ惑う人々はパニックを起こし、一つの巨大な生き物みたいに左側へ消えて行く。カメラのレンズにヒビでも入ったのか、画像は更に荒れた。


 次に映し出されたのは、素人が撮影しただろう映像だった。

 バスケットボールの試合だろうか。背の高い二人の男がボールを追い掛ける。刹那、嵐のような爆発音が轟いて、画面は激しく揺れ動いた。何かの影が羽虫のように飛び散り、男達が血塗れで倒れる。


 悲鳴が、怒号が、神への祈りが、木霊こだまする。

 サイレン。サイレン。サイレン。


 鉄面皮のニュースキャスターが、切り口上で捲し立てる。

 米国の州立記念公園で爆弾テロが発生。死傷者数百。日本人医師の蜂谷はちや夫妻が巻き込まれて死亡。捜査班は過激派によるテロと断定し、調査を進めている――。




「……蜂谷?」




 急速に酸素が失われて行くようだった。

 蜂谷は、ミナの苗字だ。父親はニューヨークで医者をしていて、弟はバスケットボールをしている。


 日本人医師の蜂谷夫妻が巻き込まれて死亡。

 まさか、この蜂谷夫妻は。




「ミナの両親だ」




 後頭部を金槌で殴られたみたいだった。

 翔太は事務所を飛び出して、三階へ駆け出した。扉には鍵が掛かっていたので、そのまま蹴破った。カーテンの締め切られた室内は、しんと静まり返っている。


 ミナのベッドは、ホテルみたいに整えられていた。衣服、雑貨、電子機器、凡ゆるものが忽然と消え失せている。まるで、其処には初めから誰も存在しなかったみたいに。


 サイドテーブルに、水の入ったグラスが一つ置かれていた。その中に携帯電話が沈んでいた。


 ぞっとした。まるで、殺人現場に足を踏み入れたみたいだった。

 引き上げてみると、SIMカードは抜かれ、電源が付かなかった。置き物のようになった携帯電話を愕然と見詰めていると、後ろから声がした。




「今朝、あいつの後見人から連絡があって」




 いつの間にか、立花が立っていた。

 立花は浸水した携帯電話を奪い取ると、舌打ちをした。




「あいつの両親が爆弾テロに巻き込まれて死んで、弟は安否不明。ミナには昨晩から連絡が付かず、FBIは蜂の巣を突いたような大騒ぎだそうだよ」

「FBI?」

「あの双子の後見人がFBIにいるんだ」




 相変わらず、濃過ぎる人間関係である。




「ミナは何処に行ったんだ。まさか、アメリカに?」

「パスポートの使用履歴は今の所無い。……まあ、居場所も分かんねぇんだけどな」




 立花は顔を痙攣ひきつらせた。

 正直、ミナの交友関係やコネクションについて、立花も翔太も把握していなかった。ミナが今までどのように情報を集めて、誰と繋がっているのか分からない。




「桜田さんとか、幸村さんに声掛けてみる」




 共通の知り合いならば、何かしら力になってくれるかも知れない。翔太が部屋を出ようとした時、立花が止めた。




「騒ぎをでかくするんじゃねぇ。一番最悪なのは、あいつの居場所が敵対派に暴露ることだ」

「敵対派って何だよ」

「戦争したい馬鹿共がいるんだよ」

「……戦争?!」




 立花は面倒臭そうに眉をひそめたが、溜息混じりに言った。




「今から十年くらい前に、中東の紛争地で一万発の核兵器が使用されるっていう明確な予告があった」

「一万発?!」




 核兵器一発で街が吹き飛ぶのに、それが一万発も放たれたら地球はどうなってしまうのだ。

 現実味の無い都市伝説みたいだ。けれど、立花がそういう嘘や冗談を言う人間ではないと、誰より知っていた。




「第三次世界大戦の火種だよ。あいつの親父はそれを止めた第一人者として、平和の象徴と言われてる」




 話の規模が大き過ぎて理解出来ない。

 一万発の核兵器? 第三次世界大戦? 平和の象徴?

 兎に角、ミナの家系がバグっていることだけは分かった。


 話の腰を折るべきじゃない。奥歯を噛み締めて、頭を切り替える。今やるべきことは、疑うことじゃない。最悪の事態を防ぐ為に事実を受け止めて考えることだ。




「この世界は破裂寸前の風船なんだ。針を刺そうとする奴も、空気を抜こうとする奴もいる。ミナの家系は、後者だった」




 第三次世界大戦というものは既に動き出していて、国家間の微妙なバランスがそれを食い止めている。


 戦争とは、遠い世界の話ではないのだ。

 この国も、海外の犯罪組織から大量の武器が密輸されていた。青龍会による中国への利益誘導と言われていた。立花やミナが介入しなければ、それもまた、戦争の火種になったのだろう。


 絶えず空気を送り込まれる風船を破裂させないように、針を潰し、空気を抜き、世界は如何にか今日まで回って来た。平和の象徴と呼ばれるミナの父親も、その一人だった。


 そんな英雄が、爆弾テロで殺されたのだ。

 ――本当に、戦争になる。




「フィクサー共はストーブみてぇにカンカンだ。あいつ等は指先一つで核兵器を飛ばす。動き出したらもう、誰にも止められねぇ」

「……どうすりゃ良い」

「ミナを捕まえろ。弟が安否不明の今、あいつが奪われたら終わりだ」




 近江や立花が、これまで散々言って来たことだ。

 ミナという子供にどのくらいの価値があるのか測れないと。新興宗教の違法薬物とか海外マフィアの紛争とか、それがちゃちに思える程にとんでもない事態に陥っている。




「……もしも、ミナが敵対派に奪われたら、どうされるんだ」




 想像したくもないけれど、敵対派はミナという子供をどうするつもりなのだろう。

 立花は静かだった。それは怒りを押し留めているようにも、無感情にも感じられた。




「俺なら、可能な限り残酷な方法で処刑し、それを世界に公開する。穏健派は戦争の為の大義名分を得るし、敵対派は邪魔な駒が消えるからな」




 最悪だ。本当に、最悪だ。

 そんなことになったら、孫を殺されたフィクサーは勿論、翔太だって正気ではいられないだろう。


 ミナの温かな笑顔が瞼の裏に蘇る。

 子供だった。たった18歳の子供だったのだ。

 フィクサーの孫とか、ヒーローの血筋とか関係無かった。翔太にとって、ミナは家族のように当たり前に其処にいる、大切な人だった。


 そんな子供が、他人の戦争の為に利用されようとしている。

 テロリストの血塗れの手でその首が落とされ、世界中が悲劇を嘆き、義憤に駆られ武器を手に取る――。


 たった一人の子供が、核戦争の引き金になる。

 それは、翔太にとってこれ以上無い程に最悪なシナリオだった。




「ミナがこの国にいることは世間的には知られていない筈だ。下手に騒ぎ立てて居場所が暴露るのだけは避けろ」




 足元に火が点けられたみたいだった。


 最後にミナを見たのは、昨晩九時頃。半日近い時間が経ったが、手掛かりは全く無い。

 ミナは何故消えたんだ。目的は何だ。これをどの時点で知ったのだ。果たして、その予兆はあったのか。




「俺は近江さんの所に行ってみる。お前はとりあえず、ミナの行きそうな場所を虱潰しに探せ」




 ミナの行きそうな場所って、何処だよ。

 追求する間も無く、立花は階段を駆け下りて行った。


 翔太は一人取り残されたまま、整えられたベッドを見詰めた。瞼の裏に浮かぶミナはいつも笑っていて、必ず其処にいてくれた。


 テレビがうるさい。

 悲劇だ、あってはならないことだ、と騒ぎ立てるが、誰一人助けに行こうとはしない。指を咥えて見ているだけ。

 ミナの両親は死んだ。弟は安否不明。ミナなら如何する。


 ――まさか、復讐?

 嫌な予感に心臓が早鐘のように拍動する。翔太は生唾を呑み込み、部屋を飛び出した。

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