15.トーチカ

⑴希望の咲く丘

 星座を探すのも困難な程に豪勢な星空の下、猛獣の咆哮に似たエンジンの排気音が響き渡る。丸いヘッドライトの光が真正面から照らす。目を細めると、フルフェイスのヘルメットを脱いだ弟が笑った。


 バイクの後部座席に乗って、闇の中を何処までも走って行く。風は耳元で唸るけれど、寒さは感じなかった。弟の腰に腕を回す。服越しに感じる鼓動、体の温もり、洗剤の匂い。


 周りの景色は凄まじい勢いで後ろに飛んで行き、街の明かりはフィラメントのように長く伸びて見えた。ノロマな車達の隙間を縫って、バイクは滑るようにアスファルトを駆けて行く。


 腹の底から突き上げるような高揚感と爽快感だった。このまま何処へでも行けると思った。その瞬間、バイクは宙に浮き上がり、星空に向かって走り出した。驚きもしなければ、恐怖も感じなかった。


 どんなに良いだろう。

 弟と二人で、バイクに乗って、後ろは振り返らず。

 星の海に飛び込んで、このまま大気圏を突き抜けて、銀河系を一回りするのだ。火星で未知の生物を探して、土星の輪を走って、海王星でサーフィンをするのだ。


 だけど、みなとは知っていた。

 弟はこの国にはいなくて、バイクは空を飛べなくて、火星に命は見付からなくて、土星は氷の粒子とちりで出来ていて、海王星は氷と岩石で構成されていること。どんなに願っても、届かない祈りがあること。


 神様がこの世にいないことも、ヒーローなんて幼稚な妄想だってことも、これが全部、夢だってことも、もう分かっていた。


 希望がある。

 父がよく言っていた。

 どんなに深い絶望の底にも、希望の光は必ず差し込む。

 それが救いの言葉ではないことも、湊にはすっかり分かっていた。


 ガリガリと、何かを削る音がする。

 辺りは白い靄の中に溶けて行く。弟のバイクは星空の向こうに走って行く。景色はやがて消え失せ、湊は夢からめた。




「おはよう」




 穏やかなテナーの声が心地良く耳に響いた。

 ミナは数度瞬きをして、エメラルドの瞳を見遣った。


 ノワールの自宅だった。

 初夏の風が遮光カーテンを揺らす。夕闇は浅い水底のように青く澄み渡っていた。昼前に訪れた筈だったのに、記憶は途切れていた。


 駱駝色らくだいろの砂壁に凭れ、ミナは欠伸をした。イーゼルの向こうでノワールは絵を描いていたけれど、ミナがキャンバスを覗き込む前に片付けられてしまった。


 ノワールの部屋には、キャンバスが沢山あった。

 海の底に沈む繁華街、冬の夕焼け、風呂釜の金魚。彼の絵画にはグラデーションが多用されている。水彩画の方が適しているのではないかと思うけれど、野暮なことなのだろう。




「風呂場の金魚なんだけどさ」




 イーゼルを壁に向けながら、ノワールが言った。

 風呂場の金魚。先日、ノワールと駅前の小さな夏祭りに行って、金魚を二匹すくったのだ。母国だったなら動物愛護の観点から物議を醸しそうだが、風情のある面白い出店だった。


 手提げの袋に入れられた金魚を見て、ノワールが狭くて可哀想だと言った。だから、風呂釜に移した。

 大家には叱られたが、謝ったら許してくれた。出店の金魚は長生きしないらしい。




「今朝見たら二匹共死んでたから、裏に埋めといた」

「……そっか。ありがとう」




 どんな気持ちだったのかな。

 風呂釜で死んだ金魚、それを埋めたノワール。

 その場にいられなかったこと、間に合わなかったこと、幾ら後悔したって、過去に戻る術は無い。




「今度、花を買って来る」

「金魚の為に?」




 変かな、と言えばノワールは笑った。

 陽が落ちるとノワールは電気を点けた。剥き出しの蛍光灯が部屋を白く照らす。虫が入って来るので、カーテンと窓を閉める。


 ノワールが言った。




「弟の名前、呼んでたぞ」

「夢に弟が出て来たんだ」

「良い夢?」

「分かんない。ああ、あれに似てたな。銀河鉄道」

「へえ」




 じゃあ、あんまり良い夢じゃないな。

 ノワールはそう言った。そうなのかも知れない。


 ジョバンニはカムパネルラと一緒に、何処までも一緒に行けたら良かったのだろうか。病の母を置いて、父の帰りを待たず、本当の幸いを求めて。


 利己主義の限界。自己犠牲的献身。本当の幸いとは何か。物語全体に滲む、作者の苦悩を想像する。自分ならばどうするだろう。自己犠牲なんて自分の流儀じゃない。生きてなきゃ駄目だ。例え、其処がどんな地獄でも。




「航とはよく喧嘩したよ。殴り合った。手加減なんてしなかった。お互い、生傷が絶えなかった」

「お前、負けそうだけどな」

「小さい頃は、体格差は無かったんだよ」




 本音でぶつかり、競い合える人間がいたことは、きっと自分達にとって最大の幸福だった。血肉を分けた双子でも、違う人間として生まれ育ったことも、きっと。




「喧嘩した後、お互いに手当てをした。それが俺達の仲直りだった」




 謝ったことなんて、一度も無かった。

 謝って済むなら、初めから手を出したりしない。




「殴られた頬より、殴った拳の方が痛かった。……航も、そうだったのかな」




 そうかもな。

 ノワールは静かな声で言った。













 15.トーチカ

 ⑴希望の咲く丘













「昔、親父に風呂釜に沈められたことがあって」




 ノワールが、言った。

 アイロンでも掛けたみたいな睫毛が、頬に影を落とす。




「あの時は、本当に死ぬと思った」




 ノワールの面には怒りも悲しみも無かった。それはまるで流れ行く車窓を眺めているようで、本当は目に映らない何処か遠くを見ているようだった。


 彼の父が亡くなったのは、六歳の頃だった。本当に幼い子供だ。自分で生きることも、逆らうことも出来るはず無かった。

 頭を掴まれて、大人の男――、それも父親に、風呂釜に沈められる。当時の彼を助けに行くことは出来ない。耳を塞がず、目を逸らさずにいることしか出来ないのだ。


 自分が海の向こうで家族と過ごしていたあの頃、誰かの元に不条理の雨が降っていた。幼い頃のノワールが感じた恐怖を、絶望を、憤怒を、出来る限り優しく、真摯に。




「兄貴が小学校から帰って来て、助けてくれた。兄貴、ずっと謝ってたな……」




 兄貴は何も悪くなかったのにな。

 独り言みたいに、ノワールが呟いた。

 ミナには、ノワールよりも、ペリドットの気持ちの方が想像出来た。同じ立場だったなら、自分もきっと謝った。理由なんて一つだけだ。


 ペリドットは、兄だった。

 弟を守ることに、それ以上の理由なんて無い。




「夜、殴られた頬が痛くて泣いてたら、兄貴が布団に入れてくれた。何度だって、兄ちゃんがどうにかしてやるからって。……兄貴だって、いつも殴られてたのにな」




 彼処は世界一冷たくて、温かい場所だった。

 ノワールは、そんな風に言った。矛盾しているとは思わなかった。この世は冷静な天国で、祝福された地獄。そう言ったのは、確か父だった。




「兄貴は俺を守ってくれた。でも、俺は兄貴に何も出来なかった……」




 何も出来なくても、良かったんだよ。

 弟が生きていて、笑っていて、幸せでいてくれたら、他のことはどうでも良いんだよ。嫌われても、憎まれても、そんなことは小さなことなんだ。


 ミナは言葉を躊躇ためらった。

 自分はペリドットではないし、ノワールの気持ちだって想像することしか出来ない。過去には戻れないし、他人の心が読める訳じゃない。


 ノワールは、とても優しくて、繊細な人だと思う。そんな彼が、殺し屋なんて仕事に手を染めて、後戻り出来ない地獄を選んでしまったのは、一体誰のせいなんだろう。


 拳を振り上げた父親か、彼を産んで死んだ母親か、弟を置いて消えた兄か、彼等を見捨てた社会か。一体、誰を責めたら良いのか。どうしたら、彼を救えるのか。


 彼の絵を見ていると、時々胸が軋むように痛む。生きていて欲しい。幸せでいて欲しい。笑っていて欲しい。どうしたら、彼を。




「……ミナ?」




 どうした、と普段の彼からは想像も出来ないような動揺した声で訊ねられ、ミナは鼻を啜った。何でもないと返すのが、精一杯だった。


 弱音も泣き言も溢さないノワールに比べて、自分は一体何なのだろう。目の前にいる人も救えず、伸ばされた手を掴めず、自分の信念を貫くことも出来ず、殺し屋に助けられて、守られて、一体、何をしているのか。


 ノワールは困ったように頭を掻いた。




「お前がそんな顔する必要なんて、無いんだよ」




 表情に見合わない、優しい声だった。

 大きな掌が頭を撫でる。ミナはその腕を取った。どうしたら、彼を。




「俺はノワールに、生きていて欲しい」




 エメラルドの瞳が、灯火のように揺れる。

 幼い頃に見た蝋燭の灯火を思い出す。こんなに小さな火が、どれ程、遠くまで照らすものかと。

 君の痛みを、君の辛さを、君の苦しみを一緒に背負えたら、どんなに良いだろう。




「笑っていて欲しい。幸せでいて欲しい。……出来るなら、一緒に」




 これが■じゃないと言うのなら、そんなものは知らない。詩をんで生きて行く訳ではないから。こんな所で終わる俺達じゃないだろう?




「……お前って、ストレート?」

「今まで、そう思ってた」

「はは」




 ノワールの手が肩を抱く。

 指先が震えていた。応えるつもりで手を伸ばした。ノワールの手が後頭部に回って、音も時間も、凡ゆるものが死に絶えて行く。何かが遠くで光って、そのまま消えたような気がした。


 携帯電話が鳴ったのは、その時だった。夢から醒めたみたいに、色々なものがぼんやりと形を失くして、消えて行く。

 互いにそっと手を離す。ミナは携帯電話を確認し、其処に映し出された友人の名前に苦笑した。




「ショータだ。迎えに来るって言ってる」

「すっかり保護者だな」




 いつの間にか立場が逆転してしまった。

 後ろ髪を引かれるような寂しさが、じわじわと心を削り取って行く。ミナは立ち上がり、ノワールの頭を撫でた。


 足音の絶えた街は、深海のように暗く静かだった。

 ノワールが駅まで見送りに来てくれる言った。

 二人で並んで歩いた。訥々とつとつと取り留めもない話をして、時々ノワールが笑った。

 駅に着くと、改札の前で翔太が待っていた。どうして居場所が分かったのかと思ったら、GPSで探してくれたらしい。




「行き先くらい言ってけよ」




 翔太は口を尖らせた。

 手渡した携帯電話をすっかり使いこなしている。




「よぉ、ノワール」




 翔太が声を掛けるが、ノワールは肩を竦めただけだった。




「立花が夕飯作るって言ってたぞ。冷めた飯食わせるくらいなら捨てるってよ」

「分かった。急いで帰るよ」




 立花らしい物言いだ。それで翔太が迎えに来てくれたのだろう。ミナは肩を落として、改札に向かって歩き出した。ポケットの小銭を探して切符を買う。電車や券売機の使い方にも慣れて来た。


 改札を通る前に振り返り、ノワールを見た。エメラルドの瞳は相変わらず、吸い込まれそうな程に美しかった。




「またな、ミナ」




 ミナは笑った。




「またね、ノワール」




 改札機に切符が吸い込まれる。立ち止まりそうになるが、後ろから翔太が急かす。駅の中から振り返るが、ノワールはもういなかった。

 次の電車の時刻を確認していると、翔太が言った。




「なあ、ノワールが話してたのって、何語?」




 何語?

 ミナには意味が分からなかった。

 ノワールは日本語を話しているが、英語も理解出来るようだった。先日は中国人と食事をしたと言っていたから、もしかしたら他の言語も使えるのかも知れない。




「俺は日本語だと思ってたけど、違うの?」




 翔太の眉間に皺が寄る。

 その時、丁度電車が来たので、それ以上の話はしなかった。


 見慣れた繁華街の駅に到着した頃、電話が掛かって来た。

 随分と懐かしい番号だった。駅を出てから、折り返しの電話を掛けた。翔太が待っていてくれるので、手短に済ませるつもりだった。


 スピーカーの向こうから聞こえる声に耳を澄ませる。

 その言葉を聞く度に、周りの景色からするすると色が抜け落ちて行くかのような感覚に陥った。酷い耳鳴りがして、頭が割れそうに痛かった。


 分かった、と返すのがやっとだった。

 通話を切り、深呼吸をする。翔太は退屈そうに街を眺めていた。ミナは携帯電話をポケットに押し込み、拳を握った。




「ショータ」




 駅の壁に寄り掛かっていた翔太は、声を掛けると口元に微かな笑みを浮かべた。




「君は何処にも行かないでね」




 何のこと、と言わんばかりに翔太が首を捻る。全ての問いを拒絶するつもりで、ミナは歩き出した。

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